「Romping Birdhouse(1)」
いづみ


         ― 幼かった私に

             そして

    あの頃の私を支えてくれた多くの人たちに

         この物語を捧げる ―








   ( Black Light-extra. -Romping Birdhouse- )
                            







 たった一つだけ開かれた窓。そこから、穏やかな光が注いでいた。
 薄暗い部屋の中にページを繰るかすかな音だけが聞こえる。淡々と、一定のペースを崩さずに。
 部屋の一角を占める広いカウンター。その内側に腰を下ろしている人影が一つあった。
 静かな微笑を浮かべて時折手を動かしている。長く下ろした前髪の下には細い瞳。視線の先にあるのは、一冊の本だ。
 その空間を包むのは柔らかな空気。
 光差す一室で、彼は静かに読書を楽しんでいた。

 扉の向こうから軽快な音がリズミカルに響いてくる。
 不意に聞こえた足音に、彼は手を止め顔を上げた。
 その次の瞬間勢いよく扉が開かれた。
「おはようございます、サーク先輩!」
「―ああ、おはよう、リィナ。」
 眩しい輝きに青年が細い目を更に細くする。
 光を背にして入口に現れたのは、明るい笑顔をした一人の少女だった。
 すらりとした身体に飾り気のない白服をまとい、手には小振りの短杖(ワンド)と鞄を抱えている。頭上でまとめた髪が白銀に輝いて揺れていた。
 リィナは目を瞬かせながら室内を見回すと、唐突にその表情を変えた。ため息を一つついて部屋へと足を踏み入れる。
「窓ぐらい全部開けましょうよ、空気が悪くなりますから。」
「…そうだな。」
 それまで一人の世界で読書に耽っていた青年は、脇に置いた栞を手に取ると本を畳んで立ち上がった。
 その合間にもリィナは窓まで歩いていき、閉ざされた木戸に手を伸ばしていた。
 古い蝶番が小さくきしむ。金属の擦れる音と共に窓は大きく開かれた。
 その瞬間、鮮やかな日光が彼女の顔を染めた。
「ほら、いい天気ですよ。」
 晴れ渡った空を見上げてリィナが口にした。
 その窓から差し込む光は強い。
 返事こそしなかったが、サークも隣の窓を大きく開いた。
 一瞬、暗がりに慣れきった目が眩んで目の前が真っ白になった。
 青い色が目に映り出す。澄みきった空の中で、朝日が地上を見下ろしていた。光に照らされた神殿が白い石の輝きを見せている。
 爽やかな風がその中を通り抜けた。眼下で、陽を受けた若葉が揺れて鮮緑が踊った。
「そろそろ時間か。」
 呟き、乗り出していた体を引く。
「そうですね。さっき、そこで司書の方を見かけましたし。」
 リィナも姿勢を戻して答えるとそのまま次の窓に手をかけた。
「もう全部開けときますか?」
「ああ。」
 問いかけには短く返答し、サークはリィナとは逆方向の窓に向かった。
 閉ざされていた窓を片端から開けていく。
 木戸が開かれ光が入るにつれて、室内は明るくなっていった。かすかに湿った空気が外へと流れ出していく。
 それでも、大量の本が納められた棚の並びに遮られて図書室の中は大半が影に包まれていた。
 高い窓を開けて踵をついたリィナがふと振り返った。
「そういえば、新しい連絡来ましたか?」
 飼い主にじゃれつく子猫のような瞳。それまでとは少し異なる、ひどく弾んだ声だった。
 サークは相変わらずのそっけない口調で振り返りもせずに答える。
「まだ前のが来て一ヶ月も経ってないだろう。」
 甘えてくるペットをあしらうような物言い。そして隣の窓を開く。
 その一言を耳にした途端にリィナは残念さを顔に露わにした。だがすぐに踵を返すと次の窓に向かって背伸びした。
「だってー。」
 高い木枠に向かって口を尖らせてはいたが。
「ちゃんと何かあったら教えてやるから、そう拗ねるな。」
「はーい。」
 猫回しは飼い猫を適当にあやした。
 自分側の全ての窓を開き終えて、ようやくサークは振り返った。
 見るとリィナ側の窓の方が数が多かったらしくまだ途中のようだ。サークは明るい部屋の端を通って彼女の元に歩いた。
「どうだ?」
「あと少しです。…あ、あっちの方は特に何もないですよ。ここ二、三日ヴィルせんぱいを見かけてませんし。」
「ああ、そう。」
 振り返ろうとしたリィナの背後を通ってサークが先の窓へと向かう。そこに浮かんでいた表情は、相変わらず淡々とした、特に興味もなさげなものだった。
 蝶番を鳴かせてまた窓を開ける。
 その時不意に強い風が吹いて、同時に視界が暗くなった。
 サークは身を返すようにして空を見上げた。目にかかった青い髪をかき上げる。
 太陽を遮るようにして一頭の飛竜が空を横切っていた。
「今朝は一匹だけか。」
「あの中に手紙があるかな。」
「だから、まだ早いと言ってるだろうに。」
 翼がはためき突風が吹いて、再び眩しい光が降り注いだ。
 サークは反射的に目を閉じると窓の内側に引っ込んだ。そして振り返る。
 側では、まだリィナが去りゆく飛竜を見つめていた。身動きもなく、じっと。
 その背に小さく苦笑してサークは最後の窓に手をかけた。
「まあ、相変わらずだと…。」
 その瞬間、爆音が響いた。

 一瞬二人が動きを止める。
 だがその直後、二人は慌てた様子もなく今開けた窓から身を乗り出した。
 二人の視線は迷いもせずに一方向に向かう。
 真っ直ぐ向けた視線の先。石造りの窓から、黒く濃い煙が溢れて噴き出すように昇っていた。
「…こっちも相変わらずだな。」
「噂をすれば何とやら、でしたっけ。」
 サークは大きくため息をつくと、窓から身を引いた。
「ちょうど出るついでだ、行くか。」
「あ、私も行きます。」
 リィナも身を戻して振り返る。
 二人は連れだって開かれた窓と朝日から離れた。


 大陸有数の都市の一つ、ガーテの街。
 そこにはライセラヴィの神殿もあった。
 それは光に仕える神官たちが集う聖地であり、救いを求める者が訪れる避難所であり、同時に教えに従う信者が住まう共同体でもある。
 その一角で、また新たな一日が普段と同じく始まろうとしていた。
 穏やかな日常。多分、安定した。



 第一章  ― I knew it, so I can not forgive it.


 扉を開いた瞬間、いつものように濃厚な黒煙が視界を覆っていた。
 噴き出してきた煙の中で一度咳をして口元に手をやると、サークはその奥へと足を踏み入れた。
「ヴィル。」
 一声呼ばわり、咳を数回。
「ヴィルせんぱーい。」
 後ろから入ってきたリィナも一声と小さな咳。
「おい。」
 声をかけるとまた咳が出る。ちくちくと痛む目にはいつしか涙まで滲んできていた。だがまだ返答はない。
「おいっ!」
 黒煙に沈んだ静寂の中に、呼びかけるサークの荒い声が響いた。
 息と動きに押されて目の前の気体が大きく揺れる。その瞬間、灰色に薄れた煙の向こうで小さく影が動いた。
「せんぱい?」
 気づいたリィナが呼びかける。すると影は揺れながら徐々に大きくなっていった。
 やがてその影が煙の中から姿を見せる。
「…ごめーん。またやっちゃった、えへ。」
 煤に汚れた白衣に身を包んだ女性は、絶句する二人の前で照れ笑いらしきものを浮かべていた。


「で、またやったんだな。ヴィル。」
「…ハイ。」
 場所を移して神殿内の一室。
 とはいえ爆破した実験室のすぐ隣の部屋だ。扉の向こうからは忙しく片づけをする物音やら人の声やらが洩れ聞こえる。
 そしてこちらには、椅子に腰掛けて見下ろすサークとその横に立つリィナとそして二人の足元で正座をしている白衣の女性の姿があった。
「せんぱい、ホントに相変わらずですね。」
 呆れたようなリィナの呟きに、ヴィルと呼ばれた女性は頭を掻いた。
「うーん、最近調子良かったから多分いけると思ったんだけどなー…。」
 薄汚れてもつれた赤い髪が揺れる。
「―ヴィル。」
「う、はい。」
 サークの言葉に、ヴィルは視線を落として大人しく黙った。
 それを静かに見下ろして、サークが改めて口を開いた。
「ヴィラーグ・セアノサス。これで実験室の爆破は何回目になるか覚えてるか?」
 淡々とした口調。だが、どことなく滲み出ているのは苛立ちか怒りかはたまたそれ以外のものなのか。
「えーと、確か今月に入ってからはまだ一回目のはず…。」
「…あのなあ。」
 指を一つ折ったヴィルに対し、サークは深くため息をついた。それを耳にしてヴィルが一瞬びくりと身を強張らせる。
 そのまま二呼吸ほどの間を置いてから、恐る恐る彼女は顔を上げた。が、サークは目元に手を当てたきり何も言おうとはしなかった。
 隣に立つリィナも横からそれを覗き込む。
「先輩…。」
「ああ分かった。もういい。」
 サークは大きく首を横に降ると、ようやく手を離して姿勢を戻した。そしてヴィルを見下ろしてきっぱりと告げる。
「始末書を明日の朝に提出。それから残りの片づけはお前が一人でやること。」
「げ。」
「返事は?」
「…ハイ。」
 言葉を重ねられ、とうとう観念したかのようにヴィルは肩を落として答えた。
 そこまで全部見たところでサークは立ち上がり、部屋を出ようとした。だが扉の所で振り返る。
「せんぱーい、大丈夫ですか?」
「いいよいいよもう。どーせあたしが悪いんだよ、くすん。」
 そこにはこちらに背を向け膝を抱えて座るヴィルと、その隣に立ってそれを慰めるように見下ろしているリィナの姿があった。
「リィナ、仕事はいいのか?」
「あ、今出ます。すいません。」
 言葉に慌ててリィナも出口へと向かってくる。
 サークは彼女と共に扉を出ると、最後にもう一度振り返った。
 丸まった背中。ヴィルはまだ膝を抱えて座っている。
「そんなところでもたもたしてないで、さっさと仕事しろ。」
「はーい。」
 小さな返事が聞こえたので、彼女がちゃんと立ち上がったのかどうかまでは確認しないでサークは歩き出した。


「…で、またあんたはやらかしたわけ。」
 レイ・ピーネはそう答えて手にしたフォークの先で友人を指した。
「だってー、まさか結晶体まで連鎖を起こして爆発するなんて思ってなかったんだもん…。」
 向かい側では早々と食事を済ませたヴィルが無作法に机の上に顎を乗せてうなだれている。
 周りには喧騒が溢れ、その二人の姿も人波に埋もれていた。
 昼の食堂。神殿内にあるそれは内部に勤める神官だけでなく来訪者もよく利用する上に、ちょうど今がご飯時ということもあってひどく混雑している。そんな一角でヴィルとレイは二人で仲良く昼食を取っていた。
「まったく、全然懲りてないねー。」
 レイが微苦笑と共に小さなため息を一つ。
「わざとやったんじゃないもん。あれはあたしのせいじゃない。」
 当のヴィルは視線を落としてまだぶつぶつと呟き続けていた。顔の前にあるのは二人分の皿だ。
 その目の前にフォークを下ろすと、レイはぼそりと告げた。
「まああの事故がわざとだったかは結局どうでもいいんだけどね。」
 一言。そして沈黙。
 同じく空になった皿の上で手放されたフォークの立てた金属音が、その間を埋めるかのように響いた。
 ヴィルがつられたかのように顔を上げる。見上げた次の瞬間、レイの顔に楽しげな笑みが浮かんだ。
「―で。またまたサークに叱られたんでしょ?」
 笑っているかのようにひどく明るい声だった。問いかけて、小さな黄色の目でじーっとヴィルを見つめる。
 再びの短い沈黙。それから彼女は身を起こして素直にうなづいた。
「…うん。」
 ためらいがちな答え。だけど、目こそ逸らしているものの、その頬に差したかすかな赤みと現れたどこか嬉しげな表情をレイはもちろん見逃してはいなかった。―いつものことだった。
「本当に懲りてないんだから。」
 だから、レイはそう呟くと共にやっぱりまた小さなため息を洩らした。
 同時にそれを聞きつけたヴィルが顔を上げる。
「いいじゃん別に。」
「まあいいけどね。」
 恨みがましく見上げるヴィルの目線と、澄まして見下ろすレイの目線が真っ直ぐに合った。
「何か文句があるならはっきり言えばいいでしょ。」
「別に文句はないけどさ。」
「言いたいことがあるんなら言いなさいよー。」
「べつにー。」
 本心からの不満げさを露わにしているヴィルと、間違いなくからかっているだろう余裕のある笑みを見せるレイ。勝負の結果は火を見るより明らかだった。
「そんなこと言ったってまだっ、…仕方ないでしょ!」
 ヴィルが勢い任せに語調を強める。だが、その途中で一瞬言葉を詰まらせ真っ赤になったかと思うと、残りは口の中でもごもごと呟いた。
「別に何も言ってないってば。」
 その一部始終を眺めていたレイは笑顔のままで一言あっさりと答えただけだった。…勝敗決定。
 ヴィルは再び机の上に突っ伏した。
「もういいよ、どーせあたしなんかいつまでたっても成長しない人なんだよ。」
「あーもう、うじうじ落ち込まない。」
 いじけたかのように腕の上に頭を乗せて完全に顔を隠す。その上からレイが声をかけたが、潰れたヴィルの反応はなかった。仕方なく食べ終わった食器を運びやすいよう重ねる。
 と、その音に反応してかヴィルはすぐに顔を上げた。ただし表情は相変わらず拗ねたままだ。
「もう戻るの?」
「ううん。今は特に任務もないから息抜きに出かけようかなと思って。ヴィルは?」
「だからこれからあの部屋の片づけの続きをして始末書も作らなきゃいけないんだって。」
「ああ、頑張ってね。」
 レイが笑顔のままそうきっぱりと言うと、その瞬間ヴィルは捨てられた子犬のような目をしてすがりついた。
「…手伝ってよ。」
「駄目だって、片づけは一人でやるようにサークに言われたんでしょ?」
「そうだけどさ、黙ってりゃバレないってば。」
「だーめ。…それに、彼氏を待たせてるし。」
 微笑してレイが言う。途端に、またヴィルの表情が変わった。今度はゴシップに群がる主婦だ。
「あー、デートなんだ。いーなーいーなー。」
「声が大きいってば。」
「へーへー。どーせ外務なんだからその気になりゃいつでも会えるのにね。」
「仕事とプライベートは別!だいたい都合よく冒険者(アドベンチャラー)と組める依頼なんてあまり多くはないし。…それに、そう言うそっちこそ内務同士で神殿にいるんだからその気になりゃ会えるんじゃないの?」
 微妙に嫌がらせめいた言葉にさすがのレイも少しだけ動揺を見せたが、すかさず鋭く切り返した。すぐにヴィルがまた顔を赤くする。
「総務と研究部じゃ全然違うってば。どうして会いに行けるって言うわけ。」
「だから爆発を起こしたわけだ。」
「だからそれは違うんだってばー、わざとじゃないの!」
 とうとう子供がかんしゃくを起こしたかのようにヴィルは机の上でばたばたと手を振り出した。
「あー落ち着きなさいってば。」
「うー…。」
 レイがなだめるというよりはそっけなくあしらう。かまってもらえなかったヴィルはそのまましばらく暴れた後大人しくなった。
 一服がてら二人がそれぞれお茶を口にする。窓から差す陽が心地良い。
 話も一段落ついて落ち着いたので、レイは立ち上がった。手にしたのは二人分の食器だ。
「じゃあ私はそろそろ行くから。ついでに持っていくね。」
「あ、あたしも戻るわ。」
 自分の食器を再度受け取ってヴィルも立ち上がった。返却口へと並んで歩きながら再び話し始める。
「そうだ、今後の予定ってどーなってる?」
「とりあえずつい一昨日に依頼を一つ片づけたばかりだし、まだ二、三日は仕事もないと思うよ。」
「だからデートなのか。」
「関係ないってば。」
 食器を片づけて、出口へ。
「まあデートでもいいけどさ。あ、でもそういえば街で殺人があったらしいね。」
「別に関係ないでしょ。」
「いや、何でも裏通りの宿屋の娘さんが惨殺されたらしいの。外泊するなら気をつけた方がいいよー。」
「何でそうなるのよ。」
 返した鋭い言葉に、ヴィルが肩をすくめる。それを見てレイはまた苦笑した。
「まあそれはともかく。片づけ頑張ってね。じゃあまた明日。」
「またねー。」
 出入り口をすり抜ける。廊下に出たところで二人は別方向へと歩き出した。


 壁に掛けられた案内板には神殿内の見取り図の一部が描かれている。その中に、事務室と書かれている部屋があった。神殿の入口に広がる大礼拝堂の脇の扉から通路に入ってすぐの部屋だ。大きさはかなり広い。
 中に入ると、正面には長いカウンターが延びている。その前には所々に短い行列があり、部屋の脇では椅子に座って待つ姿も数多い。天井からは「相談窓口」「仕事依頼」「書類受付」などと書かれた様々なプレートが下がり、窓口を担当している内務の神官が忙しく受付業務を行っている。
 その奥。机の上に書類を積んで、サークも黙々と自分の仕事をこなしていた。
 手にしているのはその書類の一枚と業務の印鑑とペンが一つ。書類の頭には「神殿内宿泊予約願」とあり、机の上にはそれと対応するリストが広げられていた。
「氏名、性別、年齢、出身、サイン全てよし。日時とその他の希望は…。」
 声には出さずに呟き書類の項目を一つずつチェックして、宿泊用の部屋の割り当て等を決めていく。
 ここガーテの街のライセラヴィの神殿は近隣の町などと比較しても特に規模が大きいため、地方の神殿で目的の果たせなかった者や巡礼者やあるいは中央から派遣されてきた高位の神官などが数日滞在することも多かった。それに対応するために、神殿内でも宿泊施設を用意していた。もちろん商業ではないので必要最小限の低額にはなっており、当然その分サービスも皆無に近い。とはいえ熱心な信者やあるいは節約をしたい者は街の宿屋よりもこちらを選ぶので、サークの担当する仕事もそれなりに忙しくはあった。
「2-17。明日夕方より明後日正午まで利用。」
 別紙に必要事項を記入し、処理済の箱に書類を移す。そして次の書類を手に取った。
 こうした流れ作業をこの日もサークは淡々と繰り返していたのだが、その中の書類の一枚を見た瞬間、彼にしては珍しく一瞬手を止めてそれをしげしげと眺めた。
「……氏名、性別、年齢、出身は…よし、サインもよし。」
 だが間を挟んだのは一拍に過ぎず、次の瞬間には他の書類同様に処理に取りかかった。
 部屋の割り当てまで全て済ませたところで処理済の箱に書類を移そうとする。その時、サークは再度手を止めるともう一度書類を机に戻した。
 希望日時を確認するようになぞる。更に氏名のところにその指を移し、念を押すかのように指先で机上の書類のその箇所を叩いた。
「…戻ってくるとは聞いてなかったがな。」
 一言口に出して呟く。その声には意外そうな響きがあった。
 しかし次の瞬間サークは一転して唇の端に小さく笑みを浮かべると、その書類を処理済の箱へと移した。
「まあ、あいつにとっては幸運か。」
 投じられた紙はかすかな音を立てて綺麗に箱に収まった。


 白い机の上に、不意に影が落ちた。
「ここの席、いい?」
「あ、どうぞ。」
 リィナが顔を上げた先にはお盆を手にしたヴィルが立っていた。その上に並んだ食器からは湯気が立ち昇っている。
 神殿内の食堂。窓の向こうは既に夜闇に包まれていた。まだ肌寒さを残した春先の夜、遅くまで残っている客の姿は少ない。リィナのお盆の上も既に空になっている。
「―でさ、聞いてよ。」
 広々とした食堂の中でわざわざこのリィナの正面の席に座るやいなや、ヴィルは前置きもなくそう言った。
 言われたリィナは手にしていたお茶を一口飲んで、ため息をついた。
「明日の朝は早いんですよー。」
「時間はかからないって。」
「眠たいんですけど。」
「すぐだから。」
 そう言って、じっと見つめる赤い瞳。
 リィナは目を閉じて視線を外しもう一口お茶を飲んだ。冷めたお茶は生温い。
「じゃ、いいですよ。」
 顔を上げて短く答えると、途端にヴィルの顔が明るくなった。飼い犬ならさしずめ尻尾を振っているところだろう。
 リィナはコップを下ろすと無言で食器の一つを指さした。そこにあるのはまだ手をつけていないヴィルのおかずの一品だ。
「え、これは楽しみにしてたんだからこっちにしてよ。」
「…。」
 ヴィルはすがるような目をリィナに向けたが、一方のリィナは無言のまま指を更に少しだけ近づけた。
 短い沈黙。
 次の瞬間ヴィルはがくりとうなだれると、食器をそっとリィナに差し出した。
「あ、ありがとうございます。」
 まるで思わぬプレゼントをもらったかのような口ぶりながらリィナは当然のようにそのおかずを取った。
 薄っぺらいハムカツに線を引いたかのように黒いソースが滲みこんでいる。静かにそれを食べると、リィナは再び何事もなかったかのようにお茶を口に運んだ。
 無言でお茶を飲み干してようやくヴィルに目を向ける。
「それにしてもせんぱい。最近大人しくしてたと思ったらとうとうやっちゃいましたね。」
 先に話をもちかけてきたはずのヴィルに向かってリィナはそう言った。
「だからぁ、あの爆発はわざとじゃなかったんだってば。」
 そして、当のヴィルもそれに全く疑問を感じた様子もなく、素直に正直な感想を答えていた。
「今月はもう三分の一ぐらい過ぎてたからそろそろとは思ってましたけど。」
「そろそろって何よ。」
「だって先月は週一回のペースで事故を起こしてたじゃないですか。」
「…ハイ。」
 ヴィルはまたうなだれるとフォークの先で一枚きりとなったハムカツをつついた。
「あ、そういえば片づけはもう済んだんですか?」
「ああ、うん。どうにか終わらせたよ。あとはこれから報告書を書いて明日の朝イチにでも提出するだけだね。」
 話が切り替えられたのに合わせて、再びヴィルは顔を上げて食事の続きを始めていた。よく見ると白衣の裾や下ろした髪の先に埃が付いている。
 向かいのリィナは手持ち無沙汰に机の上で両の指を動かしながらそれを眺めていた。
「…あーあ。事務室まで出しに行くのも面倒だし、朝のうちにまた図書室にでも行こうかな。」
 独り言のように呟かれたその言葉に、リィナの手ははたと止まった。
「別にいいですけど、一応ちゃんとした書類ですから事務室の方に出した方がいいと思いますよ。」
「そうかな。じゃあ、大人しくそうしとくか。」
 小さな一言に素直に納得したらしく、ヴィルはうなづくとまた食器を手に取った。リィナもまた指を空中に躍らせる。
「で、話って何だったんですか?」
 忘れかけていた本題をそこでようやく思い出して、改めてリィナは問いかけた。
「そうそう、それだ。」
 合わせてヴィルが手を打つ。が、その次の瞬間しおれるように一人で肩を落とした。
「っていうか、やっぱりリィナもあの爆発をわざとだと思ったんだ…。」
「違うんですか。」
「今回はホントに違うんだって!そりゃ、先月のアレとアレは見切り発車で無理にやったからだけど―。」
「じゃあ先月のうち二回はほとんどわざとだったんですね。」
「―あう。」
 冷静なツッコミに、自分がまたも墓穴を掘ったことに気づいたヴィルは手を止め硬直した。
 対するリィナは嬉しそうににやりと笑うと、再び口を開いた。
「分かりました、覚えておきますね。」
「あああ、頼むからサークには黙っておいて!」
「えー。だって私、先輩の飼い猫ですから。」
「いやこれは勘弁して。バレたら何言われるか分かったもんじゃないから。」
「分かりましたよ、じゃあこちらからは言いません。」
「よかった…。」
「どうせ言わなくても分かってますって。」
 沈黙。
 ヴィルはフォークを口に運ぶ途中の空中でぴたりと止めると、おもむろにゆっくりと首を廻して目線を斜め上へと逸らした。もちろん正面に座っているリィナにはそのわざと以外何物でもない芝居の一部始終が完全に見えている。
「…まあ、とりあえず黙っていてくれると嬉しいかなー、なんて。」
「分かってますよ。私とせんぱいとの仲じゃないですか。」
 リィナはそう言ってまたにっこりと笑ってみせた。
 フォークの先のレタスからドレッシングが一滴ぽとりと落ちる。
 さりげなくも横目でそれが見えていたらしいヴィルは、それを合図としたかのように再び動きを取り戻して元のように食事を始めた。
「…そう言えばさ。」
 視線を手元に落としたままヴィルが呟く。
「どうかしたんですか?」
「いや。今日、あの資料室を出る時のサークの様子ってどうだった?ほら、実験室の隣の。」
「朝のお叱りの後の話ですか?」
「そう。」
 ヴィルが顔を上げる。リィナは思い出すように首を傾げた後、その顔に向かって笑みを向けた。
「大丈夫ですよ、いつも通りの何でもないような顔をしてましたから。」
「相変わらず、か。」
 苦笑交じりにヴィルもくすりと笑う。リィナは笑顔のまま言葉を返した。
「相変わらずなのはせんぱいの方ですよ。もう二年になるっていうのに。」

 それも、いつものように何気ない一言だった。
 だが、その時何かが落ちたかのように、ヴィルの表情から笑みが消えた。
「そう…そうかもしれないけど、ね。」
 視線をわずかに外して、呟く。
 遅れて気づいたリィナがそれに引きずられるかのように笑みを小さくした。
「せんぱい…。」
「分かってるよ、もう…あれからそれだけ経ったことは。」
「…。」
 リィナから目を逸らして、ただ独り言を呟くかのようにヴィルは言葉を続けた。自分に向けて苦笑をしながら。
「だけど、まだ…気持ちが変わらないんだもん、どうしようもないじゃん。」
「それは…。」
「いいから。あたしは決めたんだから、このままでい続けるって。迷惑はもうかけない。」
「…。」
 リィナは、その言葉に何も答えることができなかった。
 言葉を切ったヴィルは一息に残っていたお茶をあおった。気がつけばもう食事を終えていたらしく食器の中身は空になっている。
 同じく空っぽになったコップをお盆の上に載せると、ヴィルはそのままリィナの顔を覗き込んだ。
「そういうリィナだってまだあきらめてないんでしょ?」
「えっ。」
 突然の問いかけにリィナは思わず言葉を詰まらせた。目の前のヴィルは、さっきまでの様子が幻でもあったかのようにいつもの明るい笑みを浮かべて自分を見つめていた。
「―そりゃ、私は本気ですから。」
 だから、それに応じるリィナの態度もまたいつものように不敵なものだった。
 恥ずかしがったり照れたりすることもなくしれっと言ってのけたリィナの姿に、攻め手に迷ったヴィルは早々とあっさり手を引いた。
「うらやましいねー。いやー、若いっていいねえ。」
「おばさん発言してどうするんですか。」
「だってあたしなんかもう18だよ。成人して二年も経ってるじゃん。」
「たかだか二年じゃないですか、私だってもう成人ですよ。」
「16なんて若い若い。あーうらやましい限りだ。あの頃のあたしは若かったなあ…。」
「せんぱーい。」
 そしていつもの軽口と笑い合い。
 大したことなど何もなかったかのように会話を交わしながら、この日の夕食会はそのまま幕を閉じた。


「…ということを言ってましたよ。」
 カウンターの向こうから身を乗り出すようにして、リィアーナ・グランファは話を締めくくった。
「そうか、分かった。」
 全ての話を聞き終えたサークは短く返事をすると、再び手の上の本に視線を落とした。
 光が紙を白く照らしている。今朝の図書室はきちんと全ての窓を開いていた。そして、いつものようにやってきたリィナは、いつものようにサークに対し『報告』を行っていた。
「ホントせんぱいってば相変わらず懲りてないんですよー。」
 付け加えるかのような呟きが一つ。これはリィナの主観だな、と冷静に判断してサークは全てを記憶の片隅に納めておいた。
 リィナは毎日のようにこの図書室に顔を見せてサークに声をかける。大抵はとりとめもない雑談をするだけだが、時にこうやってちょっとした報告をすることもあった。内容は多岐に渡る様々なものであるが、サークはとりあえず手に入る情報は一通り覚えておくことにしていた。今朝の内容は、あのヴィルの爆破事故は予想通り完全にただの事故というわけではなかった、ということだ。
「そうみたいだな。」
 気のない口調で相槌を打つ。
「…ほっといていいんですか?」
 カウンターに頬杖をついたリィナは瞬きをして首をひねった。だがサークは読書のペースを落とすこともなく冷静に答えただけだった。
「とりあえず今はそれほど害はないんだ。いつものように注意をするしかないだろう。」
「爆発をまた繰り返したらどうするんですか。」
「これ以上釘を刺してもどうなるものでもないさ。ほっておくのが一番だ。」
 ここでサークは一度短く言葉を切ってから問いかけた。
「―それに、リィナはどっちの味方なんだ?」
 それは、からかうような軽い口調だった。
 そしてこの質問を聞いた次の瞬間、リィナの唇にも嬉しそうな笑みが浮かんだ。
「えー。私はもちろんサーク先輩に従いますよ。」
 あっさりとした答えだった。サークも面白そうな表情を見せる。
「ほほう。」
「だって情報はほしいですもん。逆らう気なんかありませんから。」
「なるほど。」
 そう、全ては取引の上でのこと。まあリィナの場合はついでにヴィルをオモチャにして楽しんでいるのだろうけれど。
 サークは手にした本をおもむろに閉じた。
 そして約束は守ってやらなくてはならない。猫にはまたたび。言いつけを守った飼い猫にはごほうびをあげなくてはいけないだろう。
 いつもなら静かに本を読んでいるはずのサークの、突然の珍しい行動にリィナは目を丸くした。
「…ではお待ちかねの情報だ。」
 サークがゆっくりとリィナに向き直る。その唇には、不敵であり楽しそうな微笑があった。


 レイは眠たい目をこすりながら神殿内の廊下を歩いていた。
 昨夜―といっても夜明けの直前だが、一人こっそりと神殿に帰ってきた彼女は自分に届けられた付け文を見つけた。
 そこには外務の長の名で呼び出しが記されていた。つまりは新たな仕事の任務が自分に下ったということだ。前の仕事を終わらせてまだ二日と経っていないのに運の悪い話もあったものだ。
 今日の午後に街の新しくできたケーキ屋に行こうという約束はキャンセルしなくちゃいけないな…そんなことを考えながら、レイは呼び出された執務室の厚い扉の前に立った。
「三位巫女レイ・ピーネ、参りました。」
 ノックをして名乗る。入りなさい、と長の言葉が聞こえたので扉を開いた。
 正面の窓から布越しの朝の光が降り注いでいる。眩しさに一瞬目を細めながら、レイは入ってきた扉を閉めた。
「こちらに来たまえ。」
 外務の長が机を挟んだ向かいに腰掛けていた。既に初老といえるほどの年齢でありながら、老いの衰えなど全く感じさせない威厳と力に満ちた声だった。
「失礼します。」
 指示された椅子に腰を下ろす。その時、レイは机の上に積まれた書類がいつもの依頼の時よりも量が多いことに気づいた。公式の書類だけではなくどうも街の新聞などが交じっているようだ。少しだけ嫌な予感を感じながら、彼女は長の言葉を待った。
「前回の仕事もご苦労だった。すぐに呼び出すことになってすまないな。」
「いえ。光のためにこの身を役立てることができて嬉しく思います。」
 模範的ながら儀礼的な返答をする。長はそれに対しては何も答えず、机の上に書類を幾つか並べ始めた。
「早速だが、新たな命を下す。」
 仕事内容の説明とその補足など、見慣れた書類が並べられていく。冷めた目でそれを見ていたレイだったが、次に置かれたものを見てその表情が変わった。
 それは、街で売られていた新聞だった。それも見覚えのある記事…つい昨日発行されたばかりのものだ。そう、この内容については覚えていた。ちょうど今街で話題のあの事件についてのものだ…。
「今、このガーテの街で殺人事件が起こっている。」
「…今?」
 宿屋の娘が殺されたのはつい先日のことだったはずだが。
「一昨日、街で女性が殺された事件は知っているか。」
「あ、はい。こちらの新聞にある惨殺事件のことですね。」
 拡げられた新聞のトップには大文字で『犯人は魔物か?女性の惨殺死体が見つかる!』と扇情的なあおり文句が書かれていた。
 ―この事件がこれほどまでに注目されるのは、これがただの殺人事件ではなかったからだった。実際、ガーテの街ほどの大きさになれば殺人事件の一つや二つはそこまで珍しいものでもない。裏通りなどでは週に何人かが人知れず命を落としているとまで言われている。
 だが、今回の事件はその異常性ゆえにひどく話題になっていた。異常…それはこの事件の被害者の女性の殺され方が、魔物を思わせるほどまでに人間離れしていたというものだった。
 新聞にはさすがにその詳細は記されてはいないが噂はすっかり広まっていた。レイもよりにもよって昨日のデート中に彼氏にその話を聞かされたのだ。
「うむ。そして今朝になって自警団の方から連絡があった。―二人目の死者が出たらしい。」
「!」
 レイは思わず驚きの声を上げそうになり手で口を押さえた。そして次の瞬間、任務の内容を悟りそのまま不満の声を飲み込んだ。
 そんなレイの仕草には全く構わずに、外務の長は彼女に向けて厳かにこう言った。
「三位巫女レイ・ピーネに命ずる。自警団に協力し、速やかにこの事件の解決に当たりたまえ。」


「もう、信じられないよ!」
 皿の上の唐揚げにレイは真っ直ぐにフォークを突き立てた。
「ご愁傷様。」
 それを視界の端に捉えながら、ヴィルは別段動ずるでもなくのんびりとスープをすすった。
 再び昼の食堂。そして今日もまた、ヴィルとレイは差し向かいに座って昼食を取っていた。混雑した空間の中にそこだけ切り取ったかのようなのどかな雰囲気が漂っている。
「せっかくしばらく骨休めできると思ったのに、こんな事件に関わらせられるなんて最悪!」
 ただしそれをのどかと感じているのはヴィルだけのようだった。
「まーまー、運が悪かったと思ってあきらめようよ。」
「…。」
 慰めめいた言葉をごく軽く告げるヴィルに対し、レイは一目睨み返すとそのまま目線を落として一口で唐揚げを頬張った。
 そのまましばらく互いに黙ったまま食事を続ける。まあ、やっぱり喧騒から切り離されていることだけは変わりがない。
 ややあってこの沈黙に耐えかねたかのようにヴィルが口を開いた。
「そういや今回のその仕事って、メンバーはもう固定なの?」
「…自警団の手伝いを命じられたから、どうしようもないよ。」
 ため息混じりにレイが答える。そこから滲み出るあきらめとうんざりといった感情の黒いオーラに、ヴィルは自分の顔の笑みがかすかに張り付くのを感じた。
 そう。今回、外務を担当する巫女(女性神官)のレイが命じられたのは現在巷で話題の殺人事件の捜査だった。
 そもそも外務の仕事の多くは外部から神殿に持ち込まれた依頼である。その実行に当たって神殿側が直接管轄するのは担当などの割り振りまでであり、担当となった神官は望むならば実際に雇う人手を自分で決定したりするなどかなり好きなように仕事をこなすこともできる。目の前で嘆いているレイ自身、いつもは冒険者である恋人を仕事として雇って仲良く任務をこなしていた。
 が。今回の場合は勝手が違った。街で起こった殺人事件は自警団の管轄である。そしてその自警団から神殿へ人手の要請があったらしい。だからわざわざ『自警団に協力し』とまで釘を刺された通り、向こうの指揮下に入って任務をこなさねばならないということになる。
 もちろん一つの仕事をしている間に他の仕事をする余裕もないし許されるはずもない。そして忙しい仕事の最中にはゆっくりデートをする暇もあるわけがない。
 そういうわけで、レイはこの不幸を深く嘆いているのであり、状況を悟ることができたヴィルも苦笑交じりに慰めるしかなかったのだった。
「…ところでさ。」
「何。」
 ヴィルが問いかけるとレイからは相変わらず少々険のある口調での問い返しが返ってきた。
「今回の事件ってそんなに厄介なの?」
「まだ詳しいことは聞いてないんだけど―。」
 ここだけの話、と声を潜めて(一応仕事には守秘義務もあるので内容を大っぴらには話せない)レイは現在の状況を簡単に説明した。
 それは一昨日に一人の女性が殺されたことから始まった。殺されたのは裏町の安宿の一人娘。成人しており交友関係もかなり広かったらしい。と、これだけならごく普通の殺人事件でありわざわざ神殿に協力が要請されることもない。
 この事件が特に問題となり、同時に巷の噂をさらったその理由は―女性の殺され方だった。
 自警団の内部情報によると、どうも女性の遺体は全身をズタズタに裂かれて部屋中に巻き散らかされていたらしい。またその切断面も刃物によるものではなく、まるで獣の手で引きちぎったかのように崩れていた。事件の異常性から騒ぎを防ぐために緘口令が敷かれたものの、人の口に戸が立てられるわけもなく噂はあっという間に広がった。
 『魔物による殺人か?』新聞のあおり文句はこの人々の内心の恐れを如実に示していた。
 ―そして今日。ついに二人目の死者が発見された。
 危険な連続殺人。犯人は何者なのか。次に狙われるのは誰なのか。高まる恐怖の中、ついに自警団は、神殿に協力を要請することを決断した…。
「…ってところか。」
「多分そうでしょ。」
 ヴィルの言葉に、『二人目の死者が発見された』というところまで説明したレイが静かにうなづいた。
「けどさ、街中に魔物が出たら今頃もっと騒ぎになってるでしょ。どーせ裏通りの誰か頭のイカれたヤツが犯人なんじゃないの?」
「そうだとは思うけどね。」
「男の胸にあるのは、底知れぬ恨みか果て無き狂気の闇か。謎が深まる中新たな犠牲者がまた一人生まれる。哀れな物言わぬ遺体を前にして男は血塗られたその手を―!」
「はいはい。ご飯がまずくなるからもうやめて。」
 身振り手ぶりつきでまた自分の世界に入り込もうとしたヴィルを、レイはあっさりとあしらった。そして再び残りの食事に手をつける。
 止められたヴィルも何事もなかったかのようにフォークを手に取り、さっきまでの自分の言葉を全く意に介する様子もなくおいしそうにご飯をかきこんだ。
 しばらくの間またお互い無言のまま大人しく昼食を食べる。
「―ごちそうさまっ。」
 食器を下ろしてヴィルは満足のため息を一つ吐いた。皿の上にはご飯粒一つ残されていない。
「私も、もういいわ。」
 その前でレイも食器を下ろした。こちらは少々おかずなどが残っている。
「きちんと食べなきゃ駄目だって。」
「食欲がないの。」
「そんなんじゃ昼からの仕事もたないよー。」
「あんたのせいでしょうがっ!」
 一言鋭いツッコミを入れると、レイはすぐさま席を立った。
「もう行くの?」
「とりあえず自警団に呼ばれてるから、街の詰所まで行かなくちゃいけなくて。」
「大変だねー、がんばれー。」
 つい昨日とは全く逆の立場の言葉。そう言うヴィルの顔はもちろんにやけている。そう、ここぞとばかりにヴィルは昨日の仕返しをしていた。
「はいはい。」
「お仕事オツカレサマー。応援はするよ、遠くから。」
「ヒトゴトだと思って…。」
 深くため息をついてレイが呟く。
「だから応援するって言ってるじゃん。なんてったってそれはもうあたしとレイの仲なんだから。」
「はいはい。」
 楽しそうに言葉を続けたヴィルはここで一息つき、食後のお茶を口に運んだ。
「―ん?」
 コップを下ろしたところでその手がふと止まった。
 視線の先、ちょうど支払いを済ませて昼食を手に出てきた人たちの中に見知った姿を見た気がしたのだ。頭の上に飛び出すようにまとめられた銀色の髪、あの髪型はそうそういるものではない。
「どうしたの?」
 気づいたレイが声をかける。ヴィルは立ち上がった。
「後輩を見つけた。レイはこれから仕事なんでしょ?だったらこっちに呼ぼうかと思って。」
「あ、そう。じゃ私はもう行くね。バイバイ。」
「うん、また明日ー。事件について何か分かったら聞かせてね。」
「いいかげんにしなさい。」
 苦笑しつつそう言って、レイは一人食器の返却口へと向かった。ヴィルも手を振ってそれを見送る。
「…さて。」
 その姿が人の向こうに隠れたところでぼそりと呟くと、ヴィルは席を離れてさっき見つけた人影を探しに歩き出した。
 昼休みの時間もそれなりに経って人の数は減ってはきている。だがまだまだ食堂は混雑していた。居並ぶ人々の中であのそれほど大きくはない姿を探すのはそれなりに大変なのだが―偶然にも探す相手がタイミングよくこちらを振り返った。
「―リィナ!」
 が、相手は気づかなかったかのようにそのまま辺りを見回していた。
「…あれ?」
 伸ばした手のやり場をなくして、困りながらもごまかすようにヴィルは頭を掻いた。
 人間違い、ではない。あれは間違いなくリィアーナだ。何故かひどく楽しそうな顔で辺りをきょろきょろしている。ひょっとしたら辺りのうるささに紛れて声が聞こえなかったのかもしれない。だったらもう一度呼んであげよう。
 一人で思考をまとめたヴィルは、更に数歩歩み寄って再び声をかけた。
「リィナ!」
「…あ、せんぱい。」
 辺りを見回して空いた席を探そうとしていたリィナは初めて自分に声をかけてきたヴィルに気づいたらしく、これ幸いと歩み寄ってきた。
「これからご飯?」
「はい。せんぱいは?」
「ちょうど食べ終わったところ。席ならあるからこっちへどーぞ。」
 お盆を手に歩いてくるリィナを案内して、ヴィルは再び席に座った。
「せんぱい、もう食べ終わってるじゃないですか。」
「食後の一息をつきたくてね。一人だと微妙に気まずいし。」
「まあ、構いませんけど…。」
「それにレイが仕事で出てっちゃったから話し相手がいなくてさー。」
「…やっぱり。」
 納得したようにリィナはうなづくと、そのまま素直に食事を始めた。
 ヴィルはその様子を何とはなしに眺めていた。呼びつけてはみたものの実のところ夕べ話し込んだばかりなので別段話す内容もない。朝の書類提出もものの数秒で終わったから何かが起こるわけもない。そしてリィナもこれから食事なので自分から話を切り出そうとはせず、結果として話のきっかけが掴めずにいた。
 仕方なく暇をもてあましながら正面のリィナをじっと見つめる。何故かいつもよりも機嫌が良さそうだった。表情に嬉しさが滲み出ている。食事の最中でなければ間違いなく笑顔をしているだろう。
「ねえ、リィナ。」
「はい?」
 ヴィルが声をかけるとリィナは手を止めて顔を上げた。
 そのまましばし。突然呼び止められて不思議そうな顔をするリィナに、ヴィルも不思議そうな顔で問いかけた。
「何かいいことでもあった?」
「…え?」
 返事までには微妙な間があった。
「…何だ今の間は?つまり何かいいことがあったってことだな。ほらお姉さんに白状しなさい。」
「えー、別に何もないですよ。」
「いやそんなことはないだろう。だいたい顔がにやけてるし、やたらと楽しそうじゃん。」
「そうですか…じゃあ仕方ありませんね。」
 珍しくもリィナはあっさりとヴィルの言い分を認めた。これには言い出したヴィルの方がむしろ目を丸くした。
 そんな様子も楽しそうに眺めながら、リィナはにこやかにこう言った。
「嬉しい話を聞きまして。」
「やっぱりいいことあったんだ。…って嘘をついていいのかお前は。」
「え、だってまだこれからのことですから。いいことが『あった』わけじゃないですよ。」
「…なるほど。」
 詭弁めいているが自分もよく使う手だけにヴィルは反論できなかった。というかここで反論してせっかくのご機嫌を損ねるわけにはいかない。
「じゃ、その嬉しい話とやらを教えてよ。」
「えー。」
「まあまあ、君とあたしの仲じゃないか。それに嬉しいことは他人と分かち合ってこそより嬉しくなるんだって。それから先輩に黙っておくなんてひどいじゃないか。」
「はいはい。まあ日頃楽しませてもらってますし、たまにはお礼ということで。」
「…よし。」
 内心に生まれたツッコミは喉で飲み込むことにして、ヴィルは大人しくうなづいておいた。
「あのですね…。」
 リィナが片手を口元に添えて囁こうとする。合わせてヴィルも食堂の白テーブルの上に身を乗り出した。

「…えぇ~っ!」
 驚くヴィルの声は、喧騒に溢れたこの食堂の中でも十分に響き渡るほどの大きさだった。


 昼下がりの街の中、レイは一人またため息をついていた。
 本来なら今頃は彼とあの新しい店でゆっくりとケーキを食べながら過ごしているはずだったのに。何の因果で、こんな狭くて暗い自警団の詰所で恐ろしい殺人事件の資料を読んでいなくちゃいけないのか。
 窓から見える空は今日も青い。せめて普通の外務の仕事だったらまだ気持ちいい屋外で過ごせたはずなのに。
 ぼんやりと石の壁に穿たれた窓を眺めながら、レイは今日何度目になるか分からないため息をまたついた。
「すみません。」
 その瞬間、ノックと声が聞こえた。
 レイは慌てて身なりを整えると椅子にきちんと座り直して返事をした。
「どうぞ。」
「―失礼します。」
 扉が開いて現れたのは、この自警団の詰所でレイを案内してくれた若い団員ともう一人見知らぬ男性だった。
 年の頃は30台前半、身なりのよさと堂々とした態度を見ると自警団の中でそれなりにいい立場の人間らしい。顔はまあ整っているが少し体型に崩れが出始めているのが難点か。
「どうも。今回の連続殺人事件の捜査でリーダーを務める、第二班副長のローグル・アッセルトです。よろしく。」
 人物観察を始めていたレイに対して、部屋に入ってきた男性はそう名乗ると右手を差し出した。
「神殿より来ました、ライセラヴィの三位巫女、レイ・ピーネです。よろしくお願いします。」
 レイもきちんとすぐに名乗り返して右手を差し出す。アッセルトはその手を強く握ると、握手として大きく上下に振った。
 数回それをした後でようやく手を離してくれる。
「…早速ですが、資料はもう読まれましたか?」
「ええ。」
 レイはかすかに痛む手をそっと押さえながらもにこやかに言葉を返した。
「それはよかった。それでは現場の方へ案内しましょう。」
「すぐにですか?」
「ええ。何か問題でもありますか?」
「―いえ、ではよろしくお願いします。」
「分かりました。ではついてきて下さい。」
 てきぱきとした速い口調で告げられる言葉に、レイは思うところがないわけではなかったが何となく気圧されて大半の言葉を飲み込んでいた。
 少なくとも悪い人物ではないだろう。行動の速さは事件の捜査に熱心に当たっていることの現れだろうし、生真面目な印象を与える礼儀正しさも嫌らしさは全くない。そう、少なくとも悪い人物ではない。
 が。仕事を一緒にやるためにはそれだけでもない。レイはまた洩れそうになった小さなため息を喉の奥で噛み殺しておいた。
「資料にも記載されていた通り、二人目の女性が殺された現場はここからそれほど遠くはありません。」
「…ああ、今回もまた女性の家でしたね。」
 隣を歩きながら話しかけてきたアッセルトの言葉に、レイは我に返ると相槌を打っておいた。大柄な相手を見上げるようにして返事をする。
「はい。現在は団員で周囲を警戒しております。現場の捜索は既にこちらである程度は済ませましたが、おおむね保存してありますので。」
「了解しました。」
 詰所の入り口を抜けると、日差しが眩しかった。
 通りを歩きながら今回の事件を改めて頭の中で整理する。殺されたのはいずれも裏町の女性。共に成人してはいるがまだ独身で実家で働いている。共に自室で殺されており同じ家にいた家族は異常に気づかなかったことから、声を出す間もなく殺害されたと考えられる。そして事件の特徴である、異常な殺され方…。
「現在の捜査の方針はどうなっていますか?」
「顔見知りの犯行の可能性が高いため今は交友関係を優先的に調査しているところです。構いませんね?」
「ええ。よろしくお願いします。」
 部屋に入れたのだから顔見知りの可能性が高いだろう。…もしそうではなく無差別の犯行ならば正直捜査のやりようがない。音もなく被害者の室内に侵入し声を上げる間もなく相手を殺す、そんな手練れの人間を相手になどしたくない。
 いや、噂の通り、本当に相手は魔物なのかもしれない…。
「…ところでピーネさんは、今回の事件の犯人についてどのようにお考えなのですか?」
 このレイの疑問を見透かしたかのように、アッセルトは問いかけてきた。
 レイは軽く横に首を振って広がっていた思考をまとめた。
「街の噂では魔物によるものと騒がれているようですが、決してそうではないと思います。」
「ほう、その理由は?」
 アッセルトが興味深げな目でレイを見下ろす。レイは冷静に、自分の考えを述べ始めた。
「まず街の内部に魔物が現れたのならば、それらしい目撃報告があるはずです。ですが神殿には一切そのような報告は届いておりません。頂いた資料にもそうした記載はありませんでしたし。」
「…確かにその通りですね。聞き込みの中でも、そういった異常な目撃報告は今のところ出てきておりません。」
「それに、家族の中でもその女性だけが殺されていること。知性の低い魔物にはありえない行動ですし、逆に知性の高い魔物だとしても行動の意義が不明瞭です。」
「なるほど、さすがです。」
「ただ…。」
 ここでレイはわずかに言葉に詰まった。かすかにうつむいたその顔に憂いと不安の影がよぎる。
「…魔物に関してはまだ明らかになっていないことも多くあります。もし未知の魔物によるものならば、今まで言ったことの全てが覆されるかもしれません。」
「…分かりました、十分考慮します。」
 彼女の不安を感じたのか、アッセルトもまた唇を真一文字に結ぶとひどく生真面目な顔でうなづいた。

 案内されたのは、裏通りの更に奥にある娼家だった。古びた建物にはどこか影の色がある。辺りを囲む自警団員の姿はこの暗い通りの中ではどこか不自然だった。
 更に少し歩く。着いたのはその裏手、家主の住居と思われる場所だった。
 一見ごく普通の建物だが、窓の一つには人目を遮るかのように一枚の厚い布が張られ、その前には団員が一人立っている。
「女性の部屋はここの奥です。」
 示された部屋は確かにその場所にあたっていた。
「光よ我が手に集い灯となれ(イ・アセ・リト・ト・レス・ミ・ファンイン)。」
 灯りとして輝く光球を手にして、レイはその建物の中へと足を踏み入れた。
 廊下には生活に必要な小物などが雑多に置かれている。かすかに埃と土の匂いの混じった空気。歩くごとに床がかすかにきしんで悲鳴にも似た音を立てた。
 だが、そんな考えもすぐに消え失せるほどの強い血臭がすぐさま漂ってきた。風通しの悪い建物の中には淀んだ臭いが薄れることなくたちこめている。
 奥の扉の前では別の団員がまた立っていた。後ろのアッセルトが指示を出し、その閉ざされた扉を開かせた。
 光が暗い部屋を照らす。
「―っ!」
 レイは、声にならない悲鳴を上げた。
 部屋の中は、真紅に染まった血の海と化していた。


 この日の仕事を終えて職場から廊下に出たリィナは、扉のすぐ脇に人影を見つけて声をかけた。
「…あれ、せんぱいどうしたんですか?」
 当の人影であるヴィルも扉が開いたと同時にこちらに気づいていたらしく、壁にもたれていた体を起こして答えた。
「ああ、やっと仕事終わったんだ。待ちくたびれたよ。」
「そうじゃなくて。」
「ああうん。夕飯を一緒に食べようかと思って。先約はある?」
「いえ。まあ、いいですけど…。」
「おかずを一品でどうだ。」
「のりましょう。」
 リィナは即答した。
 わいろ込みでの商談成立に、ヴィルは苦笑すると早速食堂に向かって歩き出した。リィナもそのすぐ後ろからついていく。
 廊下は窓からの薄赤い光に照らされていた。夕方とはいえ外は割と明るい、少し前までなら仕事の終わるこの時間にはもう暗くなっていたというのに。
 気がつけばすっかり春だった。
「それでさ。」
 曲がり角の所で、ヴィルが振り返ってまた話しかけてきた。合わせて歩調を少し落としたのでゆっくり歩いていたリィナも追いつく。
「何ですか?」
「いや、昼間の話の続きなんだけど…。」
「ああ。」
 うなづきつつ、そっけなくリィナは答えた。脳裏を最初によぎったのは昼休みの食堂での一抹だ。
「せんぱい、お願いですからあまり大声を上げないで下さいね。目立ちますから。」
「地声が大きいんだから仕方ないでしょ。」
「そういう問題じゃないです。」
「…ハイ。」
 リィナの鋭い言葉にヴィルは大人しくうなづいた。が、次の瞬間にはもう立ち直ると再びリィナに向き直って会話を再開した。
「で話の続きなのよ。」
「はいはい。」
 リィナはため息をつくような感じで相槌を打った。
 そして内心はどうあれとりあえず返事が来たので、ヴィルは満面の笑みを浮かべるとぽん、と手を打った。
「それにしてもおめでとうリィアーナ!」
「……どうも。」
 廊下に響きそうなほどの大きさで放たれる喜びに溢れた声に、リィナは一瞬言葉を失いかけた。
「いやー、突然の話でびっくりしたよ。まあリィナも今日聞いたばかりみたいだからそれは一緒か。」
「…そうですね。」
「何はともあれホントによかった。もう先輩として心からお祝いするよ、おめでとうっ!」
「…ありがとうございます。」
 ひどく楽しそうにお祝いをするヴィルとそれにいささか呆れて短い返事をするリィナ。はたから見れば、何かいいことがあるのはヴィルの方にしか見えなかった。
 小さなため息を洩らしつつ、リィナはそっと辺りを見回した。幸い廊下にいる人影はそれほど多くはなく辺りの注目を集めている様子もなかった。まあ目立つのはヴィルの方だけであろうが。
 そして更にありがたいことに、目の前にはもう食堂近くへ下りる階段があった。ここを曲がれば少なくとも廊下からは見えなくなる。
「でも本当に久しぶりだよねー。…えっと、何年になるんだっけ?」
 同時に感動の嵐もとりあえずは収まったらしく、ヴィルの口調も平常程度には大人しくなっていた。
 この質問に、階段を下りていたリィナはふと上を見上げた。薄汚れた天井には何かが書いてあるというわけでもなかったが。
「二年ですよ。」
 間を置くことなくそう答えた後、リィナは視線を正面に戻してぽつりと付け加えた。
「―先輩と同じですって。」
「ああ、そうか…考えてみればそうだったね。」
 ヴィルの声はすぐ後ろから聞こえた。納得するような、だがかすかに戸惑ったような声。
 リィナは階段を下りる足を速めて、振り返らずに言った。
「急がないと席がなくなりますよ。」
「うん、確かに夕飯の時間帯は込み合うもんねー。それにカウンターも込むだろうし。うわ急がないと!」
 次にヴィルから返ってきたのはいつもと変わらない明るい声だったので、リィナは唇に微笑を浮かべるとそのまま階段を駆け下りた。

 それから十数分後。広い食堂の片隅に、夕食を前にして席に着く二人の姿があった。
「じゃ、いただきまーす。」
「いただきます。」
 神殿の食堂は大抵込み合っている。一つには日々の仕事に忙しい神官たちがゆっくりと交流あるいはおしゃべりできる貴重な場であるからである。そしてもう一つにして最大の理由が、ここの食事は薄給の神官が困らないようお値段を安く抑えているために神殿内の寄宿舎だけでなく街に住む神官の多くも利用しているからだった。付け加えるなら味だって悪くないし衛生管理もしっかりしている。
 そういったわけで二人は急いではいたものの既に中央の席の大半は埋まっており、向かい合って座ることができたのは奥の方の薄暗い席だった。とはいえその分目立たないのは特にリィナにとってありがたかった。もちろん近くには他の神官もいるため、会話の声は騒音に負けない範囲でそれなりに抑えておかねばならなかったが。
「…それにしてもホントに突然だったね。」
 食事のフォークをふと止めて先に切り出したのはヴィルだった。
「まあ、確かにそうですね。」
 リィナもパンを一飲みして答える。
「サークから聞いたのは今朝だったっけ。あれから詳しいことは聞いてないの?」
「残念ですがあれからはまだ先輩に会ってませんよ。だから分かっていることは昼に話した通りです。」
 少々間延びした言葉と言葉の間に聞こえるのはフォークと食器が触れ合うかちゃかちゃといった音だ。
「だって教えてくれたのは本当にごくごく大雑把なことだけだったじゃないの。」
「それだけしか聞かせてもらってないんだから仕方ないじゃないですか。」
 リィナの下ろしたナイフがきれいに揚がった魚のフライを切ってそのまま皿に当たり、鋭い金属音を立てた。
「サークのヤツが隠してるってことはないのかなー。」
「いいえ、先輩自身が分かってるのはまだこれだけだと言ってましたから。」
 その言葉を耳にしてヴィルは手を止め、リィナを見つめた。
「その言葉は信用できるの?」
「あの人はまあ話術は使いますけど嘘はつきませんよ。」
「…それって詭弁というんじゃないのか。」
「いいえ、あくまで巧みな話術だと思いますが。」
 が、答えるリィナの言葉があくまで冷静かつ筋が通っていたために、彼女は再びフォークを鳥肉へと突き立てた。
「帰ってくるのは何と今日、滞在は明日までで宿舎を利用予定…。たったこれだけとはねえ。」
「ええ、それだけしか聞かせてもらってません。」
 ぼやいたヴィルにリィナが言葉を返す。しかしそう言うリィナの言葉の端にもわずかに不満の色が見え隠れしていた。
「じゃあ今日の何時頃かさえ分からないのか…まあだから夕飯をこうやってゆっくり食べていられるんだろうけど。」
「そうですね。でも見つけたのが宿舎の宿泊願だったんだから仕方ないんじゃないでしょうか?」
 その言葉にヴィルが急に顔を上げた。
「え、手紙とかじゃなかったの?」
「そうみたいです。たまたま書類の処理中に見つけたらしくて。」
「…それって、おかしくない?」
 ヴィルが手を止めて首を捻る。リィナも視線は手元に落としたまま小さくうなづいた。
「まあ確かに、連絡の一つもなかったんですからね。」
「だってあの二人って院生時代からの仲でしょ?それも同室で親しくしていた。…だからリィナが相変わらずサークのところに入り浸ってるんだし。」
「…そうですね。」
 一瞬間をおいたものの、リィナはその言葉を否定はしなかった。
 ヴィルはわずかに言葉に詰まった後、煮物を一切れ飲み込んでから再び話し始めた。
「それが手紙も返さずに突然帰ってくる?絶対何か裏があるって。」
「裏ですか?」
「そうそう。例えばリィナに言えないような何かとか。」
「でも、だったらそれこそ帰ってくること自体教えてくれないんじゃないですかね。」
「…なるほど、そっか。じゃあこの推理には無理があるよなー。」
 ヴィルは息抜きをするように背筋を伸ばして天井を見上げた。が、再び戻した顔は面白いものを見つけた子供のように輝いていた。
「でも怪しいのは間違いない。サークが手を組んでるのかどうかは分からないけれど、今回の急な帰還には絶対何か裏があるって!」
 その表情を目の当たりにして、リィナはそこはかとない不安を覚えたので静かに告げた。
「…まあ考えるのは自由ですけど、あまり変なことはしないで下さいね。」
「分かってるって、決してリィナの恋路を邪魔したりはしないから。」
「いえそれはさておくとしても。」
 しかしやっぱりヴィルの目はキラキラと輝いていた。
 リィナはお茶を一口すすると、いい加減話の方向性を変えるべく自分から口火を切ることにした。
「ところでせんぱい。」
「ん、何?」
 フォークをくわえたままヴィルが顔を向けてくる。リィナは改めてそれに向き直った。
「せんぱいは私のこと頑張ってるとか言ってますけど、せんぱい自身はどうするんですか?」
「え、あたし?」
 じっと目を見つめる。途端にヴィルはうろたえたようだった。
「いや、あたしは何も変わらないよ。別に何かをするわけにもいかないしね。」
「じゃあ今のままでい続けるってコトですか?」
「うーん。まあ、新しく好きな人ができるまではかなー。」
 リィナの質問に対しヴィルは律儀にその一つ一つを割と真面目に考え込んでいるようだった。まあ意識がそっちに集中してくれるのだから助かりはするし、それなりに面白くもある。
「作る気はあるんですか?」
「あるよ。あたしもレイみたいに彼氏だって欲しいし。」
 もっとも、はっきりとからかうような言葉にはさすがにムキになるものの、話そのものがからかいであることには気づいていないようだった。
「へー。じゃあそれがサーク先輩だったらいいなーとかやっぱり思ってるんですか。」
「うーん…でもあまりそうとは思えないんだよね。」
「そうなんですか?」
「うん。だって、多分性格とか合わないと思うからさ。」
「なるほど…。」
 ヴィルは空のフォークの先を空中に向けて円を描くように軽く振った。
「それにあんなことしたあたしが今更許してもらえるとも思えないしね。」
 その視線は皿の上辺りに落とされている。リィナはその姿を目の当たりにして、何かを、はっきりとは思いつかなかったけれどとりあえず何かを答えようと口を開きかけた。
「だいたいサークが誰かとつきあってる姿なんて想像できる?」
 だが、言葉を放ったのはヴィルの方が先だった。そしてその顔はまた笑っていたから、リィナもそれに合わせて苦笑しつつ返事をした。
「確かにそうですね。」
「人気もあるしそれなりに女の子のあしらいも悪くないのに、ホントどーして彼女がいないんだろうねー。」
「まあ別にいなくてもいいと思ってるんじゃないでしょうか。」
 ヴィルの言葉通り、彼女たち自身を含めてサークの周りには結構女の子が集まっていた。だが当のサーク自身には浮いた話は一つとしてなかった。(だからこそ女の子の人気があったのかもしれないが。)というわけでこのことは、一部の神官たちの間で神殿の七不思議の一つじゃないかとか多少の噂にはなっていた。
「それともひょっとすると女の子には興味がないとか。」
「…いや、それはどうかは知りませんがまあそんなことないとは思いますよ。」
 更にごくごく一部の間では違った噂が囁かれつつもあったのだが、まあ考えるのもバカらしい内容なのでリィナはほとんど無視していた。ヴィルなんかは半ば面白がって囁いていたふしもあったが。
「なるほどね。まあどーでもいいけど。」
 ヴィルは呟くと、器を手で持ってスープをすすった。リィナも野菜を口へと運ぶ。
 一瞬、互いにとりあえずの次の言葉が出てこなくて沈黙が場に落ちた。
「まあそれはそれとしてさ、リィナ。」
 これをきっかけとしたかのように、ヴィルは再び自分から口を開いて話を切り替えた。
「…何ですか。」
「いや。あのさ、今回の話で何かがありそうなのはあたしじゃなくてあなたでしょ。」
「…まあ、そうですけど。」
「だからあたしにばかり話をふらないで、そっちがどうするか教えてほしいんだけど。」
「えー、私ですかー?」
 どうやら完全には意識を逸らしきれてなかったらしい。だがリィナはあきらめるつもりはなかった。
「別に私は私なりにやっていくだけですよ。」
「何をだよ。」
「まあ、色々と。」
「色々と、って何やねん!ほら正直に白状する!」
「えー、それは秘密ですよ。」
「あたしはちゃんと話してるのにそっちだけ黙ってるなんてずるいぞー。」
「だってせんぱいが勝手に話してくれたんじゃないですか。」
「ってそれはそっちが聞いてきたから。」
「だから別に話したくなかったら言わなくてもよかったのに自分から話してくれたんじゃないですか。ありがとうございました。」
「卑怯だーっ!」
「そんなことないですよ。私は秘密にしておきたいから言わないだけですし。」
「ず、ずるい…そんなのってないよ。」
 そう呟き、ヴィルはとうとうがくりとうなだれてしまった。対するリィナはにっこりと微笑むだけだった。
 フライにフォークが刺さってさくりと音を立てる。
「で、せんぱいはこれからどうするつもりなんですか。」
「もう何も言うもんか。言いたくない。」
 問いかけに対し、フォークを皿の上に転がしたままふてくされた声でヴィルは答えた。
「へー、なるほど。分かりました。」
「だいたいさっきも言ったじゃん。あたしは今のままでいるって…。」
 だが拗ねたりいじけたりはしてみせているものの、結局は話したいのだろう。もう何も言いたくないと言いつつもやっぱりヴィルはぽつりと本音を洩らしていた。
「分かりました。覚えておきますね。」
「勝手にどうぞー。」
 背筋を曲げたまま投げやりに答える。が、ふと何かを思いついたらしく体を起こしてヴィルは言葉を続けた。
「…それにしても、サークはどうしてるのかね。」
「さあ…神殿の中にはいるんじゃないですかね。それとも迎えに行ってるのか。」
「だったら探さなくていいの?運がよければ迎えに行ってる先であの人に会えるかもよ。」
「場所の見当がつきませんし、今日はもう遅いですから。…一応この後で図書室は覗いてみますけど。」
 その言葉につられるようにしてリィナが窓の外に目をやると、そろそろ暗くなって星が目立ち始めていた。のんびり話しながらの食事は予想以上に時間がかかっていたらしい。
「確かにサークがいるとしたらとりあえずあそこだろうしね。―あらかじめ連絡があって待ち合わせとかをしてるんじゃない限りは。」
 ヴィルの首も横に捻られる。ただあいにくこの場所からは図書室を見ることはできなかった。代わりに見えるのは木が影を作る中庭と月の浮かんだ夜空だけだ。
 気づけば食堂内の人影もいつしか減っていて、辺りの喧騒も大人しいものになっていた。
「まあせんぱいこそ頑張って下さいね。私も応援してますから。」
 小さく笑いながらそう言うと、リィナは切ったフライを口へと放り込んだ。
「そっちもね。」
 ヴィルも椅子にきちんと座り直すとようやくフォークを手に取った。


 この日、たまたま街への夜間のお使いを命じられていた巫女のシン・リトルは、神殿の入り口にある階段を下りていた。
 幸いにして月も明るい。何も心配することはないだろう。
「…殺人事件なんてどうせ裏通りのことだし。」
 とはいえ、自分に言い聞かせるように呟いて、手にした杖を強く握りしめてはいたのだが。
 手提げの黒のケースを抱えるようにして地面へと踏み出す。足に伝わる感触がかすかに柔らかくなった。
 そしてシンは進むべき方角へと向き直った。
「嬢ちゃん、ちょっといいかな?」
「!」
 その瞬間、突然背後から男の声が聞こえた。
 さっき階段を下りていた時にはそんな気配はなかったのだが。それに、こんな時間に声をかけてくる時点で胡散臭くもある。―今、街には恐ろしい殺人鬼がいるというのに。
 それでも彼女は精一杯の努力を払って、ゆっくりと振り返ると何とか不自然ではない微笑を浮かべてみせた。
「何ですか?」
 そこにいたのは、一人の旅人だった。
 薄汚れて端の擦り切れたマントに、肩にかけた手には旅用らしき荷物。シン自身は神殿内でも特に小さな方だったから余計にそう感じるのかもしれないが、こうやって正面に立たれると相手の背がかなり高いことも分かる。
 不意に、その曲げた手の向こうに輝きが見えた。
「宿ってこの時間でも入れたっけ。いや、もちろん届は出してあるぜ。」
 男はそう言って神殿へと顔を向けた。その瞬間、胸元に光が落ちてそこにあるものが露わになった。
「―はい、大丈夫です。ただもう夜ですから静かにお願いしますね。」
 それを一目見て、シンは今度こそ本心からの微笑を見せると男に対してきちんと答えを返した。
「サンキュ。それじゃあ嬢ちゃんも気をつけてな。」
「おやすみなさい。」
 男も笑顔を返すと、軽く頭を下げてそのまま神殿入り口への階段を静かに上っていった。
 シンはそれをちょっとだけ見送った後、再び行くべき方向に振り返るとお使いのために歩き出した。


 サークはペンをインク壷に放り込むと、強張っていた右手を軽くほぐした。
 そして窓の外を見る。外はすっかり暗くなっていた。
「…遅いな。」
 小さく呟く。幸い、この事務室に残っている神官はもうほとんどいなかったからこの独り言が聞かれることもなかった。
 机の上には大量の書類が並んでいる。その三分の二ほどには既に処理済の印が押されていた。
 夜の事務室。サークは、夕飯もまだ食べずに、別にとりたてて急ぐ必要もない書類をわざわざ持ってきてまでここで残業をしていた。もちろん彼なりに理由があってのことだ。
 とはいえそろそろ仕事にも疲れてきた。空腹もかなり強まっている。
「まあ街をうろついてるのかもしれんしな…。」
 いい加減待ちくたびれたのと空腹のせいで少々苛立っているらしい。サークはまた独り言を呟くと舌打ちをした。
 インク壷からペンを取り出して右手に握る。が、次の瞬間思い直すと先を拭ってペン立てに片づけた。インク壷や朱肉の蓋も閉め、多少乱れていた書類も丁寧に揃える。
 それからもう一度だけ確認するように窓の外を見ると、そのまま薄暗い部屋全体を見回した。ここにいるのは仕事があってまだ残業をしている神官ばかりだ。
「…お疲れ様でした。」
 小声でそう言って、サークは席を立った。周囲からも幾つか同じ言葉が返ってくる。
 サークは書類と荷物を抱えると机の合間の通路からカウンター脇への出口に向かった。
 その時、部屋の向こう側を歩いている人影があるのに気づいた。窓口の向こうからこちらに向かってきている。
 だが窓口付近の明かりは全て落とされているためにその姿はよく見えなかった。まあ大方忘れ物を取りに来た神官の誰かだろう。
 サークは小さく会釈をしてその脇を通り過ぎようとした。
 が、不意に肩に力を感じた。思わず足を止めて振り返る。
「…おいおい、久しぶりすぎて親友の顔を忘れちまったのか?」
 その瞬間聞こえたのは、聞き覚えのある、忘れようもない声だった。
 サークは自分の口元に自然と微笑が浮かぶのを感じながらも、声だけは笑わないようにしてこう答えた。
「夕方と言っておいてこんな夜遅くに来るような相手など、いつまでも覚えていると思うか?」
 相手の顔にもにやりとした笑みが浮かぶ。
「冷たいなあ、二年ぶりに再会した相手への最初の言葉がそれかよ。」
 そう答えてから彼はおもむろに右手を掲げた。ふざけていた表情が静かな喜びをたたえたものに変わる。
「…それはともかくとしても、久しぶりだな、サーク。」
 サークも微笑しながらそっと自分の手を上げた。
「ああ。―久しぶりだな、ブラッド。」
 手を打つ音が小さく、だが確かに響いた。

 ―これが、サーク・ブーフェットとブラッド・ダザイフの実に二年ぶりの再会だった。



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