「Romping Birdhouse (2)」
いづみ


 第二章  ― Be not at mercy of your heart, please.


 早朝の光に照らされた廊下を歩くレイの表情は、ひどく重いものだった。
 ちらりと窓の外を見つめはしたものの、眩しさに負けたかのようにすぐさま手を目元にあてる。ひどくゆっくりとした足取り。
 口からかすかなため息とともに呟きが洩れた。
「…眠い。」
 少々腫れぼったい目をこすってレイは寝起きでぼんやりする頭を左右に振った。
 手には石鹸、肩には白いタオル、そして前髪をヘアバンドで上げている。澄んだ空気の中にブーツの足音はぺたぺたと響いた。
 不意に湧き出たあくびに手で口を覆う。涙がちょっとだけ滲んだ目を開けると、水道のところに人影がたまっているのが見えた。
 神殿住まいの巫女が数名。よく見れば見覚えのある顔ばかりだ。
「おはよう…。」
「あ、おはよう。」
 とりあえず挨拶だけして通してもらう。
 冷たい水を顔に当てたところで、隣のおしゃべりがレイの耳に聞こえてきた。
「―うん、びっくりした。夕べ突然神殿の前で呼び止められたから。」
 冷たい水がひどく気持ちいい。
「でもどうして?」
「宿舎に入れるかって聞いてきた。ほら、もう遅かったから。」
 汚れをきちんと落とすべく石鹸を念入りに泡立てる。
「で、それからどうしたの?」
「いや、そうだと答えたらすぐ神殿に入っていったよ。」
 しっかりと丁寧に顔を洗って再び冷水ですすぐ。
「えー、もったいない!どうしてもっと話とかを聞いてこないのよー!」
「だって、仕事で急いでたし…。」
 タオルを顔に押し当てる。ようやく、頭が冴えてきた。
「あーもう、仕事って言っても少しぐらい時間はあったでしょ。せめて帰ってきた理由とかいつまでいるのとか聞いてくれればよかったのにー!」
「だって、私はそんなに興味ないし…。」
 すぐ隣のおしゃべりはすっかり盛り上がっているようだった。
 レイは顔の水気を拭うと、振り返ってその場の知人たちに声をかけた。
「どうかしたの?」
 集まって円を描いていた彼女たちは声に合わせて一斉にこちらを振り向いた。
「ちょっとレイ、聞いてよっ。」
「…うん。」
 朝だというのにひどく高いテンションに少々押されつつも、うなづき答える。
 すると目の前の巫女は、まるで花を背に負った少女のように満面の笑顔を見せて言った。
「あのね、夕べ、ここにダザイフが帰ってきたんだって!」
「―え?」
 ろくに説明もなくただそれだけの短い言葉に、レイは思わず聞き返した。
 だが周りの巫女らはそれだけ告げると再び踵を返した。そして円の中央に向かってまた追求を始めた。
 ダザイフ…聞き覚えはあるが今一つ思い出せない名前に首を傾げつつも、一応もう少しだけ話を聞いてみるべくレイはその円陣に足を踏み入れた。
「だからぁ、他に何かなかったの!」
「何かって言われても…。」
 円の中央には、今までは人影にいたせいで気づかなかったがもう一人の巫女がいた。
 同期のシンだ。選択授業が同じになることが多かったため、とりあえず顔見知りよりはもう少し親しいぐらいの間柄ではあった。
 そして彼女は周囲に問い詰められてすっかり困っているようだった。
「おはよう、シン。いったいどうしたの?」
「あ、おはよう…。」
 レイが声をかけると案の定疲れたような声が返ってきた。
「話はちょっと聞いてたけど、夕べ、誰かに会ったんだって?」
「だからダザイフを見たって言ってんのよ、シンってば!」
 問いかけた答えは本人ではなく脇から飛んできた。思わず反射的に、レイは再び聞き返してしまった。
「ダザイフって誰だったっけ?」
 一瞬、その場に沈黙が落ちた。
 そして次の瞬間同時に三つほどの声が放たれた。
「…ああもう何言ってるのよこの娘はっ!ダザイフを忘れるなんて信じられない!」
「そうそう!かつて私たちのこの学び舎での日々に彩りと話題を振りまいてくれたあの人じゃないの!」
「ダザイフ様―ブラッド・ダザイフ様の名前を忘れたなんて言わせないわよっ!」
 女三人、かしましい。細かいところは聞こえなかったし最初から聞く気もあまりなかったが、最後に聞こえた名前のところでようやく内容が飲み込めた。
「…ああ、ブラッドのことか。」
 レイが一人納得してうなづくと、途端にまた場の空気の色が変わった。
「ブラッド、ですって~。」
「あの人の名前を呼び捨てにするなんてどういうことよ~。」
「もしかしてレイはあの方と知り合いだとでもいうの~っ?」
「…いや、あの、サークから話を聞いたことがあっただけなんだけどその時はブラッドって名前の方で聞いてたから…。」
 迫りくる三人に慌ててレイは理由を説明した。しかし、その答えを最後まで言い終わるかどうかのところで再び響いた叫びに残りの言葉はかき消されてしまった。
「サーク、ですって?」
「やっぱりあの二人ってただの友人じゃなかったのよ。名指しよ名指し!」
「あの噂はホントだったんだわ…間違いないわ!」
「…えーと。」
 レイがあきれつつも言葉を挟もうとする。しかし、謎の話で盛り上がり始めた三人はもはや自分たちだけの世界を作ってしまっていた。
 仕方なく隣に目をやると、そこには自分と同じように困った顔をしたシンの姿があった。
「……シンもお疲れ様。」
「…どうも。」
 お互いの顔に浮かんでいるのは呆れと疲れの半ば混ざったような表情だ。
 隣の三人娘を刺激しないようレイはそっと歩み寄り、シンに小声で話しかけた。
「―ええと、状況がまだよく分からないんだけど。とりあえず、シンは昨日ブラッドに会ったんだって?」
「うん、そう。」
 シンはうなづくと、レイに対し簡潔にその時の状況の説明をした。
 昨夜仕事で神殿の外に出たところを突然彼に呼び止められたという。そして宿舎に入れるかどうかを確認すると彼はすぐさま神殿へ入っていったそうだ。
 レイは納得してうなづきつつもその後に首をひねった。
「そうだったんだ。…でも、サークは特に何も言ってなかったけど。」
「さあ…。」
 シンもその辺りについては何も知らないらしい。まあここで考えて答えが出そうな問題でもなかったので、レイはとりあえず部屋に戻ることにした。
「まあいいや。後でサークに直接聞いてみるよ。」
「あ、うん。」
 その言葉にはシンも小さくうなづきを返した。苦笑が少し和らぐ。
 一歩下がったレイはそのまま目線だけで周囲を見回した。隣のおしゃべりはますます熱を増している。
「…よくやるねえ、まったく。」
「まあ、楽しんでるみたいだし…。」
 お互いに微妙な表情での呟き。とはいえ、二人ともそれなりには慣れているらしく多少呆れてはいるものの困っているというほどでもなかった。
 シンにとっては友人がたまに見せる行動ではあるし、レイにとっては親しい友人の中にたった一人でこれほどの勢いを出せる人物に心当たりがあるからだ。
 そんな友人の様子をちょっとだけ思い出しつつ、レイは空いている方の片手を小さく振った。
「じゃあまたね。…まあ、頑張ってね。」
「…うん。じゃあまた。」
 再び互いに苦笑を交わしつつ挨拶をすると、顔を洗い終えたレイはさっさと自分の部屋へと戻っていった。


 この日、早朝のうちからまた聞こえてきた足音にサークは顔を上げた。
「誰か来ますね。」
「ああ。」
 同じく扉を振り返ってのリィナの声に相槌を打つ。そしてめくりかけていた本のページを戻した。
 神殿でも奥の方にある図書室にわざわざ早朝からやってくる者はあまり多くない。だからこそサークはここで静かに読書にふけるのであり、リィナも気兼ねなく彼との密談をすることができるのだった。たまに自主的に仕事の調べ物をしようとしたりサークもしくはリィナに急ぎの用事があったりする者がやって来る以外の時は。
 近づいてくる足音は静かな廊下によく響いている。ただし慌てて走っている様子はなく、比較的落ち着いた足取りのようだ。特に心配する必要はなさそうだった。
 サークは本の上に片手を置いて扉を見つめた。隣のリィナもカウンターから身を起こして扉を振り返る。
 二人の見つめる前で、その扉は静かに開かれた。
「おはよう、サーク。」
「―ああ、おはよう。」
 外務に出る時の神官服にきちんと身を包んだレイは、図書室の扉をくぐったところで振り返り周囲の様子を伺いながら静かに扉を閉めた。
「…どうかしたのか?」
「ううん、別に大したことじゃないから。」
 そう答えるレイの表情にはかすかな疲れめいたものもあったが、本人がそう言っているのでサークはとりあえず放っておくことにした。
「あ、おはよう。」
「おはようございます。」
 顔見知り程度の知り合いではあるリィナにも気づいたらしく、レイが短く挨拶をする。
 そしてそのままサークの座るカウンターへと真っ直ぐに歩み寄った。
「サーク、ついさっき聞いたんだけど。」
「何だ?」
 顔を上げたサークは何の気なしに顎に手を添えると、あくまで静かな表情で目の前に立つレイを見つめ返した。
 それに対しレイは片手を腰に当てると一気に言い切った。
「ブラッドが帰ってきたんだって?」
 その瞬間、サークはすぐ隣のリィナの表情がかすかに変わったことに気づいたが、それを態度には欠片も見せずただ静かに答えを返した。
「ああ、そのようだな。」
 それだけ答えて口を閉ざす。
 レイは更に少し言葉を待った後、一人腕組みをすると再び尋ねた。
「何も聞いてないの?」
「…一昨日、宿泊書類の整理をしていた時に始めて気づいた。それから昨日顔を見せには来たな。」
「それから?」
「いや。用事があるらしくすぐにまた出ていってしまった。まあ街にでも出たんだろう。」
「…ふうん。」
 答えにレイはまだ不満を抱いているようだったが、サークはそれも放置しておいた。
 答えたことは全て事実だしそれ以上のことがあったわけでもない。ありのままを話した以上他に付け加えるべき言葉もなかった。
 そのまま黙っていると、レイは組んでいた腕を外してゆっくりとカウンターに背を預けた。サークのすぐ隣で彼に背を向けるようにして。
「何だ。それなら、まあいいんだけど。」
「…どうかしたのか?」
 ぼやきつつも一人納得するそぶりを見せるレイの様子に今度はサークの方が違和感を受けた。
 そもそもレイとブラッドは直接の面識がほとんどなかったはずだ。それを今回に限って珍しくもわざわざここにやってきたのは、どういうわけだろうか。
「別に何でもないんだけど。」
 このサークの問いにレイはいささか投げやりな言葉を返してきた。それにはサークも皮肉気に次の言葉を続ける。
「何でもないのにわざわざやってくるとは珍しいな。」
 その言葉の後、少々の間を置いてからレイの答えは背中越しに返ってきた。
「…単に疑問に思っただけだから。」
「ほう。」
 サークが短く相槌を打つ。レイは、おもむろに寄りかかっていたカウンターから片手を支えに身を起こしてサークの方を振り返った。
「今朝、その話で盛り上がってる知り合いがいてね。朝から巻き込まれて大変だったわけ。」
 そして生あくびを噛み殺した。改めてよく見れば、レイの気だるげそうな様子も単に寝不足気味のようにも見える。
「…そうか。しかし、盛り上がってるとはどういうことだ?」
 サークはうなづきつつも、気になる言葉に情報収集を始めた。
「夕べ、神殿前でブラッドのことを見た子がいて。その話が広まったみたい。」
「…なるほどな。それは知らなかった。」
 夕べは遅かったので挨拶もそこそこに彼とは別れたのだが、それもそういうことに時間を潰していたからであろうか。
 友人の相変わらずの行動にサークは小さくため息をつきかけた。
 同時に、その様子を見ていたらしいレイがこれまでの投げやりな表情を少し和らげて苦笑した。
「本当に知らなかったみたいだね。」
「ああ。昨日もろくに話はできなかったしな。せっかくここまで来てくれたのに悪いが、帰省の理由も予定も何も聞いてはいないぞ。」
「そうなんだ、まあ私は別にどうでもいいけどね。」
 レイは小さく数回うなづくと、カウンターに載せていた左手をそっと離した。
「じゃ、私は仕事があるから今日はこれで。またね。」
「ああ。」
 それだけ言ってレイは扉まで歩み寄ったが、そこでふと振り返った。
「あ、そうだ。今日あたりブラッドのことで何か探りを入れようとする人たちが大勢やってくるかもしれないから覚悟しといた方がいいかもね。」
「…やれやれ。あいつはまたトラブルの種をばら撒きに来たのか?」
 サークが首を左右に振って呟く。
 レイはその様子に笑みを見せると、そのまま静かに図書室から出ていった。

 足音が遠ざかって小さくなっていく。それを見送った後、サークは振り返った。
 その先ではさっきからずっと黙っていたリィナがこちらを睨みつけていた。
「先輩、本当ですか。」
「…何がだ?」
 主語を聞き返す。
 リィナは思いっきり疑わしそうな目でサークを睨みながら問いかけた。
「本当に何も聞いてないんですか?」
「生憎だが本当に何も聞いていない。…こんなことに嘘をついても仕方なかろう。」
 サークも、例え周りにはどう思われていようとも、彼自身はライセラヴィの教えを敬ってもいるしそれをなるべく守ろうともしていた。だから時には詭弁を弄しても直接嘘をつくことはそうめったにはなかった。
「…本当ですかー?」
 ただ、それを周りが信じているかどうかは微妙なところといえた。
「信用がないな。俺が今まで情報を言わなかったことがあったか?」
「…なかったですけど、隠されているものが分かるわけないじゃないですか。」
「…まあそうだな。」
 リィナの言い分ももっともではあるのだが、今回に限っていえば冤罪以外の何物でもない。そもそもそれを知りたいのは自分の方なのだが、肝心のブラッドは朝食の後に様子を見に行った時にはもういなくなっていた。もちろんこのこともきちんとリィナには話してある。
「しかし、ここで愚痴を言っていても仕方ないだろう。」
「だって…。」
 サークの言葉に、リィナはうなだれた。
 その拗ねた表情の中に本人は隠しているつもりの寂しさと哀しみがかすかに現れている。
 ―二年。繰り返される日常にその長さを忘れそうになるが、それは確かに長いものだった。ましてや、その日々をただ待つしかなかった者にとっては尚更だろう。
「…まあ、荷物を取りには少なくとも帰ってくるはずだ。幸いこちらの仕事を宿舎管理の方と交代できなくもない。それぐらいはしてみるさ。」
 サークは静かに告げた。その言葉を耳にしたリィナが顔を上げる。
「―!」
「こちらとしても今回の帰省の理由は聞いておきたいところだしな。分かったことがあればまたちゃんと教えてやるからそう嘆くな。」
 慰めの言葉は、冗談めかしてはいるものの優しかった。
「先輩…ありがとうございますっ!」
 リィナが喜びも露わに深く頭を下げた。いつもはサークの影響もあるのか冗談と軽口で本心を適度に隠している彼女だったが、今、この時ばかりはただ素直に本心からの言葉で答えていた。
「…そろそろ時間だな。出よう。」
「はいっ。」
 サークは開いたまま読む暇のあまりなかった本を閉じて立ち上がった。それに合わせてリィナも脇に置いた自分の荷物を手に取る。
 窓から差し込む朝日の中、二人は図書室を離れた。


 それから数時間後、ヴィルは図書室の扉を開けた。
「失礼しまーす。」
 扉のがたつく音にわずかに頭を下げ、小声で挨拶をする。もちろん静けさを保つ図書室の中からそれに答える声はなかった。いや、別に人がいないわけではないがそんなものに誰もいちいち答えないだけのことであり、ヴィル自身も分かってはいるのだがつい癖で口に出してしまっただけのことに過ぎなかった。
 後ろ手でそっと扉を閉めて中へと入っていく。
 日中の図書室は窓から差し込む光のおかげでそれなりに明るかった。そこに漂うのは、かすかな古びた紙の臭いと細かな埃。数名の利用者が席に座って項を繰る以外には物音もない。
 そしておなじみのそれらを気に留めることもなく、ヴィルはさっさと並んだ本棚の方へと歩いていった。
 右手に握られているのは皺の寄った小さなメモ。それを参照に必要な本を探していく。
「…結界の素材と性質に関してでしょ、それから図形範例集に、詠法と、あと字書に……あれ?」
 左手に数冊の本を積み上げたところで、ヴィルはその人影に気づいた。
 本棚の前に立つ長身の男性。手にした大判の本を熱心に立ち読みしている。白をベースにした身なりから察するに僧の誰かだろう。
 ただ、その横顔にどことなく見覚えがあった。しかし誰かも分からないしそもそもどこで見た相手だったのかも思い出せない。
 窓からの光も本棚に遮られて薄暗い中、その目線は下に落とされて、うっすらと紅い瞳がかすかな動きを繰り返している。
 静かに本を見つめる横顔。
 ―それは少しだけ、サークに似ていた。
 デジャヴではない。サークが本を読んでいたのはいつもカウンターの中に腰掛けてだったし、彼の髪と瞳は青色を宿していた。だいたい顔が違う。むしろ顔立ちに関していえば目の前の男の方がサークよりもずっとかっこいいぐらいだった。
 だけど。毎朝、図書室で本を読んでいたサーク。彼のイメージはいつも本と共にあった。だから逆に、静かに本を読む人の姿はあの頃のサークを思い出させるのかもしれない…。
 不意に左手に重みを感じた。
 積み上げた本がバランスを崩しかけたらしい。ヴィルは慌てて乱れた本を整えた。
 ほんのわずかとはいえ回想の世界に入っていたらしい。我に返ってそのことに気づき、ヴィルはかすかな苦笑を唇に浮かべた。
 目の前では相変わらず男が本を読んでいる。見覚えのあることには変わりないのだが、未だにどんな相手なのかさっぱり思い出せない。
 ―まあ思い出せない程度の相手なら別にどうでもいいか。
 人の顔を覚えるのが苦手なヴィルはすぐに思い出すのをあきらめ、ちょうど通路に立っているその男に声をかけた。
「ちょっとごめんなさい。」
「―あ、すいません。」
 男はヴィルに気づくと本を手にしたまま棚に身を寄せた。
 ヴィルも左手の本を胸元に寄せ抱えながらその隙間をすり抜けようとした。しかし無理に持ち上げた数冊の本の重みにすぐさま左腕が悲鳴を上げる。
「よっ、と。」
 鋭い痛みを覚えて震え出す筋肉をなだめつつ、強引に狭い隙間を通り抜けた。広くはないがそこまで狭くもない通路に解放されて口からついため息が洩れる。
 少し乱れた本を抱え直しながら、ふとヴィルは振り返った。
 目の前の男は再び本に目を落としていた。さっきとはちょうど反対向きの横顔だ。
 本を読みたいのなら通路じゃなくて席に座ればいいのに。
 余計な苦労と腕の痛みにちょっとだけ嫌な気分を感じつつ、男の様子を伺う。だが男はもう読書に戻っておりヴィルのことなど全く気に留めてもいないようだった。ばさりとページがめくられるのは緑色をした厚い布張りの本。動いたページに彩色された図が一瞬見えた。
 本の重みが再び腕に伝わってくる。肩のこの鈍い痛みは肩凝りの前兆だ。
 ヴィルは少しばかりの嫌な気分を残しながらも、仕事の調べ物にいそしむべく次の本を探しに更に奥へと進んでいった。
 自分でもよく分からないまま、何となくすっきりしないものを嫌な気分の中に残したままで。


「―はあっ。」
 深々とため息をついてレイは椅子に背を預けた。
 背もたれに寄りかかるようにして深く腰掛ける。額には冷やした濡れタオルを押し当てていた。
 はあ、ともう一度レイはため息をついて目を閉じた。
 それでも閉じた目の中にまだ赤色が残っているような気がする。赤い、血の色。
 調査のために凄惨な光景を繰り返し見なくてはならないこととそれに反して一向に進まない調査とついでにそのせいでの寝不足と食欲不振による体調不良で、まだ二日目だというのに精神的にも体力的にも疲れ果てたレイはしばし休憩を取らせてもらっていた。
 窓からの日差しが休む横顔を照らす。絞り切れなかったタオルから滲み出した生ぬるい水が、椅子にへたり込んでいる彼女のこめかみを這うように伝って流れ落ちていった。

 連続惨殺事件の捜査のために今日も自警団の詰所に向かったレイを待っていたのは、よりにもよって三人目の死者の報告だった。
 そう。三日前と昨日に一人ずつ女性が殺されたこの事件。異常なその死体の様子から同一犯の犯行とは考えられていたが、被害者二人を結ぶ線は曖昧であり犯人の正体やその意図さえも未だ掴めてはいなかった。
 そして、自警団が危惧していた通り、第三の殺人は起きてしまった。
 被害者は武具屋の次女。年齢は十六歳、自室に一人でいるところを夜のうちに襲われたらしい。窓が割れていたことから犯人はここから侵入したと考えられるものの、通りの奥で灯りも乏しい場所のため目撃証言が得られそうにはなかった。なお両親と姉は商品の仕入れのために偶然揃って家を離れていたそうだ。
 今までの殺人と同様に、被害者の体は無残に引きちぎられ、鮮血が天井までも塗り尽くすかのように部屋中に広がっていた。
 というわけで、朝になって詰所にやってきたレイは早々にこの報告を聞かされ、すぐさま現場に行く羽目になったのだった。
 立場上は自警団の手伝いではあるもののレイは神官である。まだ乾いてもいない血の中での遺留品の捜査や魔力の痕跡の探査、それから死者への鎮魂の儀式に神殿への連絡などなど彼女がやらねばならぬ仕事は幾らでもあった。
 そこでとりあえず至急行わなければならない仕事だけは何とか終わらせてから、魔法の使用による体力の減少を口実にレイは午後のひと時をここでの一休みに当てることにしたのであった。

「失礼します。」
 声がして続いて足音が響き、それから何か物音が聞こえた。
 次の瞬間目の中の赤色が消えた。
「―日差しを防がないと、ここは暑いですよ。」
 目を開けたレイが見たのは、窓にかかったカーテンとその横に立つアッセルトの姿だった。
「…すみません、どうも。」
 体を起こす。生温かくなった濡れタオルを外してレイは軽く頭を振った。多少眩暈がするが、仕事には問題ない。
「無理はしないで下さい。捜査の方はこちらで続けていますから。」
「いえ、大丈夫です。」
 額をこすってべたつく汗と水滴を拭う。
 改めて見直すと、アッセルトもこの二日間あまり休めていないのか目の下にクマらしきものを作っていた。声にも最初の頃ほどの張りがない。
 そしてその右手にある資料の束に気づいた。
「そちらの資料は?」
「―ああ、今までの捜査内容を一通りまとめたものです。ご覧になられますか?」
「ええ。」
 渡された資料の厚みは、指一本を優に超えていた。

 一人目の死者…ステファ・デナイア。二十一歳。宿『刺草亭』を営むデナイア家の一人娘。自室にて死亡。
 二人目の死者…アートレイク・ニネフカス。二十八歳。娼館『山茶花』に勤める娼婦の一人。家主より借りた部屋の中で死亡。
 三人目の死者…レアム・ファーセ。十六歳。武具屋『赤手』を営むファーセ家の次女。自室にて死亡。
 共通点…犯行はいずれも夜間に行われたこと。三軒とも近傍にあり街のごく限られた地域であること。全て個人の部屋に一人でいるところを襲われたこと。家族などは誰一人殺人に気づかなかったこと。
 そして、死体はいずれも無残に引きちぎられ、投げ出されていたこと…。

 前半の要点をごく簡潔にまとめればどうにかこれだけになった。後半は主にステファやアートレイクの交友関係の洗い出しや目撃証言や死体の状況などのデータだが、捜査に煮詰まっていることが示すように有益な情報はなさそうだった。
 残りを流すように読んで、レイは資料を閉じた。
「…まったく、何でこんな事件が起きるわけ。」
 疲れで気が緩んでか、愚痴るように本音を洩らす。
 相変わらず座りもしないで立っていたアッセルトは、それに対しては表情を変えずいつもの口調で言った。
「レアム・ファーセの交友関係はあまり広くないようですから、ここから手がかりが得られるかもしれません。」
 これまでの捜査では顔見知りの犯行の可能性が高いことを考慮して被害者の交友関係に重点を置いて調べていたが、今までの二人に関していえばほとんど役には立たなかった。
 というのも宿の娘のステファは何人もの男性と交際があったらしく、周りの女性からのやっかみやら男性同士の黙秘などがあってなかなか正確な情報が得られずにいた。アートレイクに至っては馴染みの客が何人もいたことは間違いない。
 それに対してレアムは箱入り気味に育てられたらしく、特に男性との交際は非常に少ないと思われた。…もっとも家族が知らないだけで裏では付き合いがあった可能性だって十分にあるのだが。
「不幸中の幸い…とはさすがに言えないか。」
「…。」
 レイの呟きにはアッセルトはまたも反応を返さなかった。


「リィナ。」
 職場の扉を出たところで聞き覚えのある声に振り返ると、そこには見慣れたヴィルの姿があった。
「あ、こんばんわ。」
「これから帰り?」
「一応そうですね。」
 窓から見えるのは夕焼けの赤い空。仕事も終わって、開放感と少しの疲れを感じるひと時。
「一応?」
「今日は友達と外に夕飯を食べに行こうと思ってまして。」
 そんな窓の向こうをぼんやりと眺めながらリィナが答えると、ヴィルは一瞬迷ってからあっさりと答えた。
「そっかー…じゃあ、外まで一緒に行こうか。」
「あ、はい。」
 その言葉に、荷物をまとめた鞄を抱え直すとリィナは素直にヴィルの隣まで歩いた。
 相変わらずヴィルはところどころに焦げた跡のある白衣姿で大きな鞄を提げている。赤い髪が夕日を受けて少し輝いていた。
「…。」
 何となく、特に話すことも思いつかなくて黙ったまま、リィナは歩き始めたヴィルの横に並んだ。
 どうせこちらから話を振らなくても、今日も今日とてわざわざここで待っていたらしいヴィルのことだから自分から話し出してくれるだろう。少し投げやりな気分でそう思いながらただ歩く。
 沈黙が続いた中、最初の曲がり角に来たところでようやくヴィルが口を開いた。
「リィナ、どうしたの?」
「え?」
 思いもよらぬ言葉にリィナは少し戸惑う。
「何かテンション低くない?」
「そうですかね?」
 微妙な質問に対しては質問を返してみた。
 だが、ヴィルの表情がいつもよりは少しだけ真面目に心配しているように見えて、リィナはかすかな居心地の悪さを感じた。
「昨日はあんなに嬉しそうだったのにね。」
「…そうですかね?」
「そうだよ。」
「…。」
 きっぱりと答えられては言葉を返しようもない。
 迷っていると、再びヴィルが口を開いた。
「せっかく例の彼が帰ってきたってのに、どうしたのさ。」
「別にどうもしませんよ。」
 短く一言答える。
「嘘はダメだよ、何もないわけがないでしょ。」
「だって本当に何もないんだから仕方ないじゃないですか。」
 嘘ではない。文字通り、何もないのだから…。
「…ごめん、言い過ぎた。」
 ヴィルがすまなさげな顔でぽつりと言ったのを見て、リィナはようやく気づいた。知らず知らずのうちについ言葉がきつくなっていたらしい。
「別に、いいですよ。」
「悪かったね、気が利かなくて。」
 慌てて首を振ったリィナだが、ヴィルはいつになくしおらしく反省の様子を見せていた。それこそそちらの方に何かがあったのかというぐらいに。
 仕方なく、リィナは説明をすることにした。
「…本当に、何もなかったんですから。」
 ヴィルが顔を上げる。
 その頭越しに見えた夕日が、少し眩しかった。
「―昨日、ブラッド先輩がこっちに来たってことだけはサーク先輩から今朝聞いたんです。」
「うん。」
「だけど、夕べはちょっと挨拶しただけでろくに話もしてないらしくて。それで帰省の理由とか予定とかもまだ何も聞いてないんだそうです。」
「…へえ。」
「宿泊も一晩で、今日の正午にはもう宿舎を出ていったらしいんですよ。」
「そうなんだ…。」
「ついでにサーク先輩は今日残業があるらしくて、こっちも約束があるから仕事の後も会えそうにないし…。」
「なるほどね、…そっか。」
 茜色に染まる長い廊下。その中で隣のヴィルはただ一人静かに相槌を返してくれる。
 その暖かさに、少しだけ、本音を零した。
「せっかく、二年ぶりに帰ってきたっていうのに。なのに全然会うこともできないなんて…。」
「…うん。二年…寂しかったよね。」
 呟かれたヴィルの言葉は、いつもの明るいものとは違っていたけれど―彼女らしさを感じさせた。
 話すのに少し疲れたリィナはため息を一つつくと、黙って階段を下りた。
 足音が狭い階段に響く。
「…サークに何か言っておこうか?」
「別に、いいですよ。」
 背後から聞こえたヴィルの言葉。だけど、リィナは首を横に振った。
「今ならまだ間に合うかもしれないじゃない。昨日はろくに話をしなかったんでしょ、だったら今日あたりゆっくりと再会を語らうつもりじゃないの?」
「そうですかね。」
「幸い残業があるんなら、私が今から行けば済むじゃない。どうせヒマしてるんだしさ。」
「…。」
「まあお姉さんに任せときなさいって、悪いようにはしないからさ。」
 下りきったところで聞こえてきた明るい声に振り返ると、そこにはヴィルのあの楽しそうな笑い顔があった。
「…せんぱーい、あまり変なことはしないで下さいねー。」
 その表情に半ば反射的につっこみを入れる。
「大丈夫大丈夫。心配いらないって。」
「その言葉が心配なんじゃないですか。」
「…つっこみきついね。」
「そうですかね?」
 しれっと、質問を返す。
 ヴィルはぐう、とわざわざ言葉に出して黙り込んだ後、階段を下りて横に追いついたところで再びこちらに顔を向けて言った。
「ま、とりあえずやれるだけのことはやってみるよ。」
「そうですね。まあサーク先輩の所に行く口実にもなりますしね。」
 にっこりと、微笑んでみせるリィナ。
「…あのなあ。」
「いえいえ、お気になさらず。とりあえず変なことをしてまた反感を買わないようにだけはお気をつけ下さいね。」
「―多分、今度は大丈夫だよ。」
 その言葉が返ってくるまでには一瞬の間があった。
 それを知覚して、ようやくリィナはその意味に気づいた。
「せんぱい、じゃあ私からの伝言って形で伝えておいて下さいね。」
「ん。了解。」
 うなづく横顔はいつもとあまり変わらない。
 恋愛感情を隠すのはものすごく下手なくせに、こういう時だけは人並みに本音をごまかせるのはどうしてだろうか。
 …まあ、そこがヴィルらしいといえばらしいのだけれど。
「じゃあ…とりあえず、今回の帰省の理由と何をしていたのかと次に来るのはいつになるのかとそれから手紙とか出す時は一言教えて下さいね、ということで。」
「多いわ!」
 とりあえずつっこみはきちんとすかさず返ってきた。
「そういうわけでよろしくお願いしますね。」
「…流さないでくれ、頼むから。」
「え、大丈夫だって言ってたじゃないですか。」
「それとこれとは違う…。」
 しおれたヴィルの姿に、リィナはついくすっと笑った。
 再び顔を正面に向ければ、目の前には外への出口だ。神官が使うための小さな勝手口。
 リィナはここから神殿の外へ、ヴィルは…宿舎に戻る予定は今変更になったのだった。
「じゃ、私はこのまま友人のところに行きますんで。」
「―あ、ちょっと待って。」
 呼び止める声にリィナは足を止めた。
 振り返った先にはヴィルの顔がある。暮れた空の弱い光が、かすかな影をそこに落としているように見えた。
「…もしヘマしたら、適当にフォローだけはお願いするね。」
 ほんの少しだけ気弱な響き。
 その不安は感じ取れたけれど、リィナはそれにあえて笑顔で答えた。
「だったら下手に首を突っ込まない方がいいんじゃないんですかー?」
「そんなこと言ってくれるなって…。」
 呟く声が届く。そこに、きっぱりと言葉を返した。
「まあ、大丈夫ですよ。」
「え?」
 ヴィルが驚いたような顔を見せる。
「今回は、直接本人に関係あることじゃないですからね。」
「―そうだね。」
 わずかな間の後、ヴィルは苦笑した。
「付け加えるなら、今回は当事者の私がちゃんとお願いしましたし。」
「ああよかった。その言葉を覚えておくよ。」
「まあ信用されるかどうかは先輩次第ですけどね。」
「…おーい。」
 困ったような呆れたようなヴィルの言葉、それはいつもと同じものに戻っていた。
 それを見てリィナは微笑むと、そんな彼女に背を向けた。
「じゃあ、そろそろ時間なんでもう行きますね。」
「ああうん、付き合わせて悪かったね。」
「いえいえ。じゃあせんぱいは頑張って下さいね、それじゃ。」
「はーい。じゃあまた明日。」
 軽く手を振って開かれた扉を通り抜ける。
 見上げた空は、赤みを増していた。
 つい会話に夢中になってゆっくり歩きすぎていたらしい。思っていたより友人を待たせてしまったかもしれない。
 おわびをどうしようかと考えて走りかけたところで、ふと、リィナはたった今抜けた門を振り返った。
 意図があったわけではない。―だけど、そこにヴィルがいた。
 自分を見送るかのように立っているその姿。
 リィナは一人笑顔を浮かべると、その姿にもう一度手を振って走り出した。


 窓を開けると、星の輝く黒い空が見えた。
 すっかり夜になっている。その空を見つめたまま椅子に座って、サークは小さなため息をついた。
「…。」
 急に加わった二つの用事のせいで、予定が大幅に狂わされていた。
 一つは残業。まあこれは仕事であるから仕方がない。どうせ昨日も意図は違えどやったことではある。
 ただそこにもう一つ加わったのまでは完全に予定外だった。まあ大したことではなかったのだが。
 リィナに何を吹き込んだのかあるいは逆に吹き込まれたのか、仕事を終えて職場を出た先にはなぜかヴィルが待っていた。
 本人いわく、「リィナからの伝言」らしい。しかし答えようがないものをしつこく聞かれてはいい加減返事をするのも疲れてくる。
 ―友人の恋路に、面白半分とおせっかい半分で首をつっこもうとするあの悪い癖だけは、未だに直っていないようだ。いや、変わってないのはあの癖だけでもないのだが。
 机の上に借りてきた本を広げる。
 残業は無事に片付けたから今日はもうやらねばならぬこともない。せめてこのひと時ぐらいは、穏やかに過ごさせてもらおう。
 …ああ、明日の朝になったらリィナに話をしなくては。
 結局ブラッドは予定通り正午には宿舎を離れたらしい。その後の足取りについては全く不明だが、わざわざ宿舎を出たということはもうこの街を出るつもりだったのだろう。
 昨日、もう少しでいいから話をしておくべきだったとサークは彼には珍しくも後悔の感情を抱いていた。
 …リィナに説明をするとしても、その後のフォローが大変になりそうだ。それとは別に今日のヴィルのことも聞かねばなるまいし。
 ただしそれは、あくまで自分の苦労を考えてのことではあったのだが。
 内心の考えはともかくとして、サークはすぐに灯りの光球をつくって机上へと浮かべた。栞を頼りに本を繰る。昨日読んだのは、確か第七章の概説までだった…。
「―はい、どなたですか?」
 そうしたささやかな安らぎは、ノックの音とそれに答える同室者の声であっという間に崩壊した。
 サークは再び洩れそうになったため息を抑えて、扉の方を振り返った。
 扉の向こうからの返事は聞こえてこない。
「あの…。」
 後輩は戸惑いの声を浮かべながらも、とりあえず扉のノブに手を伸ばした。
 その瞬間、勢いよく扉が開かれた。
「―よ、まだこの部屋に…。」
 がつ。
 同時に響いた鈍い音に、ブラッドの言葉は途中で止まった。

 とりあえず頭を抱える後輩には自分の椅子に座ってもらって、サークは現れたブラッドを部屋の中まで案内すると扉を閉めた。
 ノブを回して完全に閉まったのを確認してから、振り返る。
「…で、何の用だ。」
 懐かしそうに部屋を見回していたブラッドは、その言葉を耳にするとおもむろに提げた鞄の中に手を突っ込んだ。
「ああ。今晩、付き合えよ。」
 その言葉と同時に見せられたのは、一本の酒瓶だった。
「―。」
 サークは一瞬絶句した後、迷いを断ち切ったかのように真っ直ぐ歩くとその手から酒瓶を奪い取った。
「お、早速とは話が早…。」
「ふざけるのもいい加減にしろ。」
 氷点下を思わせる声だった。
 だが、ブラッドはそれを全く意にすることなく変わらぬ調子で言葉を返してきた。
「まあいいじゃないか、せっかくなんだ。二年ぶりに会うんだしつもる話もあるだろう。」
「ここは酒場ではない。」
「固いこと言うなよ、オレとお前の仲じゃないか。」
「神官の宿舎は外部の者を入れないのが原則だ。泊まるんだったら専用の宿舎なり街の宿なりあるだろう。」
「いや、ちょっと昼間に羽目を外しすぎてな。懐が寂しいんだよ。」
「…だったらこの酒は何なんだ!」
 サークは手にした酒瓶をブラッドの目の前に勢いよく振り下ろした。
 一応、かつてはブラッドとも一緒に飲んだことがあるから酒についても多少は分かる。今回持ち込まれてきたこの酒は、かつて値段の高さに二の足を踏んだ記憶のあるヴィネ特産の果実酒だった。―懐が寂しくなったのはこのせいだとでも言うのだろうか。
 ぱしゃり、と瓶の中からかすかな水音が響く。
「せっかくだからお前とゆっくり飲みたくてよ。ああ、これならリーヴェランスで飲んできたぜ。味の良さは保障するさ。」
「だからそういう問題ではなくてな…。」
「…あの。」
 天然のフリをした確信犯といささか疲れ気味のつっこみという和やかな会話の中に突然聞こえてきた声に、サークとブラッドは振り返った。
 そこには、明らかに戸惑いの表情をしているサークの同室者の姿があった。
 向けられた二人の目に更なる戸惑いを通り越して半ばうろたえを見せながらも、彼はどことなく精一杯さを感じさせる声で何とブラッドに声をかけてきた。
「あの、ブラッド先輩ですよね。」
「―ああ、そうだ。何だ知ってたのか。」
 うなづくと、ブラッドは嬉しそうな笑みを見せて彼の方に改めて向き直った。
「はい。確か、前にこの部屋に入っていたって。」
「ああ。オレがまだここの院にいた時は、こいつとこの部屋で二人っきりで毎晩過ごしてたからな。まあ無愛想なヤツだがそこまで悪人ではないから悪く思わないでやってくれ。」
「…おい。」
「まあそれはともかくとしてだ。」
 背後から聞こえたサークの声を完全に無視して、ブラッドは唐突に立ち上がるとまるで親しい友人であるかのように彼の肩に手を置いた。
「街でさ、いい店を見つけたんだよ。最近できたらしいんだがいい酒を揃えててな。」
「…え?」
「あんまり広めたくはないんだが、まあサークのヤツの面倒を見てもらってるお礼ってことで教えてやるよ。西の紅花通りにある老木の洞って名前の店だ。」
「あの…?」
「まあせっかくだ、楽しんでこいよ。損はさせないからな。」
 そう言って更にその体を引き寄せる。
 そして胸元に当てられた手を空いた片手で掴むと、その掌を指で押し広げた。
「気にするな、オレのおごりだ。」
 有無を言わさず強引に硬貨を滑り込ませる。
「え、えと…。」
「何なら一晩楽しんできたって構わないぜ。こんな狭い部屋にこもってないで、たまにはいい思いの一つもしてこいよ。」
「あの…。」
「ああ、悪かった。そうだよな、確かにこれだけじゃ物足りないか。うーん意外に遊び人なんだなあお前。じゃあもう少しオマケしてやるよ。」
 更に強引に手の中に何かを押し込んでいく。
「ええと、その…。」
「さ、いつまでもこんなところで油売ってないで、店が満員になる前に急いだ急いだ!ほら早く行かねえと席がなくなるぞっ!」
「あの、ちょっと!」
「じゃあ楽しんでこいよ、ごゆっくりーっ!」
「まっ…!」
 バタリ、ガチャ。
 ブラッドは哀れな後輩を無理やり扉の外に押し出すと、すかさずその扉を閉めておまけに鍵までかけてやった。
 …。
「おい。」
 それまで沈黙を保っていたサークが、ついに口を開いた。
 その声は地を這うように低いものだったが、ブラッドは軽やかに振り返ると床に置かれた酒瓶を拾い上げてあくまで陽気にこう答えた。
「さーて邪魔者はいなくなった。さあ飲もうじゃないか。」
「…お前は、いい加減にしろーっ!」
 次の瞬間、絶叫と共に、いつの間に準備していたのか先ほどの光球が真っ直ぐにブラッドめがけて放たれた。
「―光よ我が手に集え(イ・アセ・リト・ト・ミャ・ヒス)、っと。」
 だが、すかさずブラッドは早口で呪文を唱えると、その光球をまるで普通のボールのようにその手で受け止めた。
 握った掌の中で光球は少し暴れたが、すぐに元のように静かになった。
「残念。これくらいのことは聖騎士団で訓練済みだったりするんだよね。」
「…それはよかったな。」
 サークはそう答えると、とうとうあきらめたのか椅子まで戻って腰を下ろし、そして額に手をやって深くため息をついた。
 その様子を見ていたブラッドもまた、光球を頭上に放り投げるとあたかも勝手知ったる我が家のようにあの後輩の椅子を机の下から引っ張り出し、背もたれを正面に回して腰を下ろした。
「まあ気にするなよ。こっちは鍛え方が違うからな。」
「ああご苦労様だ。」
 サークはうんざりとした口調で答えると、ようやく再び顔を上げた。
「で、いったい何の用なんだ。」
「だから言っただろ、まあゆっくり話をしたかったんだよ。」
「…。」
 しれっと言われた言葉にサークは疑いの目を向ける。
 だが、ブラッドはあくまで不敵な表情を崩さないまま、握ったままの酒瓶を目の前に再度持ち上げた。
「あまり置いておくとぬるくなっちまう。とりあえず、美味いうちにまず飲まないか?」
「…これ以上騒ぎを広げるよりはその方がまだましのようだな。」
 サークはそう答えると、立ち上がりコップを二つ棚から取り出した。
「相変わらず賢明だな。」
「誰かさんとは鍛え方が違うからな。」
「なるほどな。」
 鋭い切り返しに、ブラッドは声を上げて笑った。
 その前では相変わらずの仏頂面を保ちつつも、瓶の栓を外して酒を注ぐサークの姿があった。
 ひとしきり笑ったところで、背もたれに体重をかけつつブラッドが口にした。
「まあ色々と聞いてみたいこともある…例えば、その腕輪についてとかな。」
 サークが一瞬眉をひそめる。
 ぎしり、と椅子がきしんだ音を立てた。
「…この話ならお前だって知ってるだろう?」
 そう答えると、サークは乱れた服を整えてそのついでと言わんばかりに手元の袖もしっかりと伸ばした。
 腕につけられていた色鮮やかな組み紐は、その下に隠れた。
「確かセイン、とか言ってたな。可愛い娘だったのならよく覚えてるぜ。…でもまだここにいるんじゃないのか?」
「彼女ならあの時、お前と一緒にリーヴェランスまで留学に行っただろうが。」
「ああ、そういえばそうだったかもしれないな。」
「…まあ、覚えてないんなら別にいいんだがな。」
 サークがまた小さなため息をつく。
 だがおもむろに、ブラッドはうつむいたその顔の前に酒の入ったグラスを差し出した。
「ま、細かいことは気にするなよ。夜は長いんだ、ゆっくりと楽しもうじゃないか。」
「…ああ。」
 サークは顔を上げた。同時に、不意に吹いてきた風にその髪が揺れる。
 振り返った先には先ほどから開かれたままの窓があった。かすかな音を立ててめくられる本の向こうに、星空がよく見える。
「今夜は寝かさないからな。」
「先に潰れるのは勝手だが、部屋を汚すことだけはするなよ。あいつが迷惑する。」
 互いに交わす言葉。そして、グラスが掲げられる。
「―じゃ、この再会を祝って、乾杯。」
「乾杯。」
 澄んだ音は、静かな夜の空気によく響いた。


 早朝、朝日に照らされた食堂の中。
 窓の向こうから響くのは鳥の声。目に鮮やかな新緑が陽に照らされて輝いている。
「―ここ、いいですか?」
 そんな広い食堂の片隅で一人静かに朝食を取っていたサークは、聞き慣れた声に顔を上げた。
 目の前でお盆を手にしていたのはリィナだった。
「…ああ。」
 小さくうなづくと、彼女はすぐに正面の席に腰掛けた。
「おはようございます。」
「おはよう。」
 短い挨拶。
「―あの、」「―そうだ、」
 次いで同時に放たれた言葉に、二人は思わず互いの目を見合わせた。
 わずかな沈黙。
「…お先にどうぞ。」
 先に冷静さを取り戻したのは、サークの方だった。
「あ、すみません…。」
 反射的にリィナは頭を下げた。
 そしてとりあえずフォークを手にする。
 が、そのまま動きが止まる。
「…?」
 長い沈黙に訝しんだサークは顔を上げた。
 リィナは心ここにあらずといった風情でぼんやりと虚空を見ている。
「―リィナ、どうした?」
「え?あ、えと、何でしたっけ。」
 声をかけてようやく我に返ったようだ。
 サークはその珍しくも大人しいといえるリィナの様子に内心で首を傾げつつ、あくまで態度は平常のまま言葉を続けた。
「何か話したいことがあったんじゃないのか?」
「え、それは、その…。」
 口ごもりうつむくリィナ。ひどく歯切れが悪い。
 サークは静かに告げた。
「…まあ、何もないのならいいんだがな。」
「いえ。…あ、そんなことないですけど。」
 肯定とも否定とも取れない中途半端な言葉が返ってくる。
 そっと見た先では、リィナは相変わらず心ここにあらずといった様子でゆっくりと食事を始めていた。
 こちらからの話がないわけではないが、この様子ではさてどうしたものか。
 普段よりはどこかのんびりとした調子で考えながらサークもまた静かに食事を再開した。
 しばらく無言のまま、食器の触れ合うかちゃかちゃといった音だけが響く。
「―ええと。」
 唐突に、リィナが口を開いた。
「何だ?」
 顔を上げて答えるサーク。
 リィナは視線を手元に落としたまま、いつもよりゆっくりと言葉を口にした。
「今日は、どうしてこんな時間に朝ごはんを食べてるんですか?」
 サークの眉が一瞬動く。
 そう。いつもなら彼はもっと早い時間に朝食を済ませている…はずだった。
 ただ今朝は、ちょっとした事情があって起床が大幅に遅れてしまったのだ。とはいえその理由をどこまで話したものか。
 …特に、リィナに対しては。
「夕べはちょっと遅くなってな。」
 嘘はつかない範囲でできるだけぼかしつつ答える。
「あ、そうだったんですか…。」
 リィナはそう答えると、誰かとは違って納得したらしくそのまま素直にうなづいた。
 そして再び沈黙。
 黙ったまま、食事は続く。
 サークはもう一度そっとリィナの様子を伺った。
 うつむき加減のまま、黙々と食事を口に運んでいる。普段の食事の様を見慣れているわけではないので何とも言えないが、その様子はひどくゆっくりとしたものに見えた。
 食事だけでなく会話も含めて全体的に生気がない。
 理由を考え出したところで、ようやくサークは昨日の出来事に思い当たった。
 『リィナからの伝言』と称してブラッドのことを色々と尋ねてきたヴィル。その裏事情や行動はどうあれ、リィナからの伝言だということは本当のようだった。
 つまりはそうしたことをリィナが尋ねたいと思っていたということ。
 どうもいつもより頭の回転が鈍くなっているらしい、そう自分に注意を入れつつサークは手を止めた。
「リィナ。」
「―あ、はい。」
 返事まではわずかな間があった。
「ブラッドのことだがな。」
「え、何かあったんですか?」
 次の返事は早かった。が、微妙におかしかった。
「…昨日ヴィルに頼んだのはお前なんだろう?」
「あ、そういえばそうでした。」
 思い出したかのようにぽんと手を打つ。…たぶん演技ではないだろう。
「まあ帰省の理由とか今後の予定とかそういったことはよく分からないがな。」
 大量にあった質問は適当に要約して答えておく。
「はい。」
 当然のようにリィナもうなづく。
「…とりあえず、今日はまだこっちにいるつもりらしい。」
「え、そうなんですか?」
 驚く返事の声は弾んでいた。
「ああ。まあ、明日以降はさすがに分からないと言っていたが…。」
「そうなんだ…あれ、でも宿舎での宿泊予定は一昨日の夜だけじゃなかったんですか?」
 生気を取り戻したらしいリィナが、その頭をきちんと働かせて鋭く言葉を挟む。
 サークは一瞬黙ったあと、再びこれまでと同じ口調で淡々と答えた。
「ああ。昨日は別の所に泊まったからな。」
 嘘ではない。神官の住む宿舎は確かに外来者用の宿舎ではない。
「そうだったんですか…でも、どうしてですかね?」
「さあな。本人は予定の都合とか何とか言っていたが。」
 これも嘘ではない。懐の問題も都合の一つには違いない。
「…まあ、それはともかくとしてだ。」
「?」
 会話を遮るようなサークの言葉にリィナが首を傾げる。
 サークは穏やかに告げた。
「とりあえず今夜はこっちの仕事も早く終わりそうだから、外で一緒に夕食を食べようかという話になったんだ。」
「え、ホントですか?」
 これだけしか言っていないにもかかわらず、リィナの目はその後の展開に何の疑いもないかのごとくキラキラと輝いている。
 サークは小さく苦笑しつつ、その後の言葉を付け加えてやった。
「というわけでだ。リィナも来るといい、三人で食事会をしよう。」
「わーい。」
 手を合わせて喜ぶリィナ。
 が、その表情がはたと止まった。
「…どうした?」
「いえ何でもありません、喜んで参加させていただきます。」
 慌てたように頭を振るリィナの仕草に、彼女が内心で昨夜の出費を悔やんでいるとはさすがに見当もつかないサークだった。
「喜んでくれて何よりだ。じゃあ仕事の後に一階の…」
 どごごごご。
 サークが集合場所を告げようとしたその時、振動と共に轟音がその場を襲った。

 収まるまでたっぷり数瞬。
 最初は慌てて身構える周囲だったが、その動きはすぐに治まった。
 窓の向こうに見えるのは黒煙。それは神殿のとある一室の窓から盛大に立ち上っている。
 もう慣れきったサークとリィナはそれを確認することすらなく、静かに食器を片づけていた。
「…とりあえず、最初の仕事ができたようだな。」
「話のついでなんで私もご一緒します。」
 昨夜の酒をわずかに残して微妙に機嫌と気分ののらない二人はため息混じりに席を立った。


「…ごめんなさい。」
 そしてそれから数時間後。
 煤まみれの白衣を身に着けたまま神殿内の一室で正座するヴィルの姿があった。
「謝罪はいい。」
 その正面では仏頂面のサークが腕組みして椅子に腰掛けていた。
「それよりも反省をしろ。」
「…はい。」
 大人しく首を縦に振るヴィル。
「こないだのがつい三日前でしたっけ。」
 サークの隣に立つリィナが口を挟む。
「そうだ。…一週間で二度目。いくら何でもこれはひどいだろう。」
「…はい。」
 さすがに状況のまずさを自覚しているらしい。ヴィルは反論も言い訳もなくただ大人しくうなづいている。
 と、その手がそっとお腹に押し当てられた。
 時刻はただ今正午を過ぎたばかり。
 朝早くの爆破事故の後、すぐさま実験室に到着したサークはまず事故を起こしたのがヴィルであることを確認した上で(通常の勤務時間なら他の人間の場合も多々ある)彼女にとりあえず片づけをするように命じておいた。
 そして現在昼食後の昼休みの時間。
 ようやく片づけを終えたヴィルは言われた通りにすぐさまサークの元にやってきた。片づけの直後、すなわち昼食を食べる暇もないままに。
 もちろんサークは通常の勤務の後きちんと昼食を食べており、他で仕事があるはずのリィナもここにいるのはそういったわけだった。
 お腹を押さえたヴィルが切なそうな表情を見せる。
 だが、椅子の上から見下ろしているサークにはその表情が見えることはなかった。
「どうして勤務時間外まで実験をやりたがるんだお前は。」
 ヴィルの気持ちを知ってか知らずか延々と説教を続ける。…分かってやっているのかもしれない。
「…すいませんでした。」
「規定の時間内ならそちらで処理も対応もできるのを、どうしてこう余計な仕事を増やそうとする?」
「ごめんなさい。」
「時間外の作業をするならせめてもう少し安全に気を使ってくれないか。」
「反省してます。」
 ……。
 尚も続く長い説教。
 まあ実験室の片づけはもう済んでいるし昼休みはまだまだある。研究部の仕事はそれほど時間に束縛されていないはずだからその後でも昼食を食べに行く時間もあるだろう。
 こうしたことを考えた上で、サークはおしおきの意味も込めてわざと長々と説教をしていたのだった。
 が、その予定は唐突に崩れた。
「―サーク、いる?」
 扉が開く音と共に姿を見せたのは、レイだった。

「ああ。どうかしたのか?」
 サークは席を立って答えた。足元でヴィルも振り返ったようだがそれは放っておく。
「よかった、ちょうどいい所にいてくれた。サークって今は人事の手伝いもしてるんだよね。」
「ああ。」
 サークは神殿内務の総務部に所属しており普段は宿舎管理などを担当しているが、先日人事の方で急な退職者が出たらしくその後の仕事の手伝いもしていた。
「で、それがどうしたんだ?」
 だが、外務で働いているレイがそれを尋ねてくる理由まではさすがに分からない。
「うん。ちょっと仕事の都合で、人手を借りたくて。二、三人でいいんだけどそれなりに腕の立つ人を。」
「―何かあったの?」
 レイの言葉に割り込んだのはヴィルだった。正座を崩してレイを見つめている。
 ただその表情は単なる興味だけではなく、訝しむ様子もあった。
「…仕事のことだけど、人事なら説明も必要だよね。」
「じゃあ、私たちはちょっと移動しましょうか?」
 レイの呟きにリィナが答えた。一つの迷いもなくヴィルの腕を掴んで引きずり上げる。
「あ、でもまあ…とりあえず黙っててくれればいいよ。どうせすぐ分かることだから。」
 レイは一瞬迷うそぶりを見せたものの首を横に振った。その視線の先には、彼女をじーっと見つめるヴィルの顔がある。
「それは構わないが、俺を通すより担当の所に行った方が早くないか?」
「だから腕の立つ人を急いで回してほしいんだって。できれば手続きとかも全部後にしてほしいの。」
 サークの問いかけには法と規則を重んずるライセラヴィの神官らしくない台詞を答えるレイ。
「…分かった。とりあえず目的は何なんだ?」
 その台詞は一旦無視することにして、サークは話を進めた。
 レイは微笑みを見せたが、その表情はすぐに真面目なものへと変わった。かすかに視線を落とす。
 一瞬の間を挟んで、胸元に当てた手を握りしめると真っ直ぐに顔を上げて言った。
「街の連続殺人事件の容疑者の居場所をつきとめたの。強襲をかけるから、高い力のある人が必要になって。」
「…そりゃ面白そうな話だな。」
 その言葉は、レイの背後から聞こえた。

「―ブラッド!」
 サークは思わず大声を上げていた。
「そんな面白い話を聞けるとはわざわざ神殿まで来た甲斐があったってもんだ。」
 だがブラッドは驚くサークに対して平然とそう言ってのけた。
 開いたままだった扉からひょいと四人が佇む部屋の中に入ってくる。
「…あ、あの……。」
 その扉を閉め忘れていたのはレイだった。完全な不注意だ。しかも、守秘義務のある仕事内容を神殿外の人間に知られてしまった。
「ああ、心配するな。無駄なお喋りはしないさ。」
 青ざめたレイに対して安心させるようにブラッドは笑いかける。その言葉に彼女はわずかに安堵の表情を見せた。
 が、同じ笑顔のままブラッドは続けた。
「その代わり、その仕事にオレも交ぜてくれよ。」
「何考えているんだっ!」
 すかさず反論したのはサークだ。
 冗談や余裕もなく、真剣な表情でブラッドの目の前に歩み寄る。
「これはこのガーテの街の神殿の仕事だ。聖騎士団所属のお前には関係がないだろう。」
「同じライセラヴィの神官同士、そう固いこと言うなよ。」
「部外者は関わるなと言っているんだ!」
 平然と言うブラッドに対し、サークは声を荒げた。互いに数歩の距離を挟んで見つめあう。
 沈黙の後、先に答えたのはブラッドだった。
「まあいい。そういう気持ちも分からんでもないからな。」
 降参と言わんばかりに両手を挙げる。サークが詰めていた息を吐いた。
 そこに、ブラッドは次の言葉を続けた。
「…だが、オレはもう話を聞いちまったぜ。そのことはどうするんだ。」
「なっ…!」
 絶句するサーク。
 それに構わず、ブラッドはくるりと振り返るとレイに向き直った。
「お嬢ちゃん、部外者に事件のことを知られるのはまずいんだったよな。」
「え、ええ。」
 レイはブラッドと全く面識がないわけではない。が、彼の唐突な言葉にただうなづくしかできなかった。
「だったら簡単だ。話を聞いちまったオレを部外者じゃなくすればいいんだ。」
「冗談も休み休み言え!」
 雄弁に語るブラッドに背後から厳しいサークの声が飛ぶ。
 だが再度振り返ったブラッドは飄々とした態度を崩さないまま答えた。
「いや、オレは本気だぜ?それが一番手っ取り早い解決法だろうが。」
「お前が大人しく黙っていれば何も問題なく収まるんだ!」
 澄まして答えるブラッドと半ば激昂したサーク。周囲の女性三人は口を挟むこともできずにただ困った表情でそれらを見つめている。
「聖騎士に嘘をつけって言うのか?」
「余計なことを口にするな、と言っているだけだ。それもたった数時間の間だけな。」
「詭弁だな。」
「問題はそこじゃないだろう!」
 怒鳴りつけるサーク。
 ブラッドは一瞬眉をひそめたが、すぐに相変わらずの平然としたポーカーフェイスを取り戻して答える。
「…オレがその仕事を手伝って、何が問題なんだ?」
「部外者が神殿の仕事に関わるのは困るんだ。」
「外務の仕事なら別に冒険者の連中を雇うこともあるだろう?それと何が違う。」
「冒険者と聖騎士団じゃ立場が全然違うのを分かってるのか?」
「今のオレは帰省中だ。聖騎士団員じゃなくて、ただの善意の協力者にすぎないぜ。」
「それこそ詭弁じゃないのか。」
「詭弁で何が悪い。偽りよりはよっぽどましだ。」
「……。」
 沈黙の中、互いに睨み合う。
 更に長い間の後、ついに、サークは肩を落として答えた。
「―分かった。ブラッド、お前にも手伝ってもらおう。」
「やりぃ。」
 にやり、とブラッドの口に笑みが浮かぶ。
 それを無視してサークはレイに向き直った。
「ここにいるのはブラッドという名の善意の協力者だ。その素性は聞いていない。」
「え、あ、はい。」
「まあ少なくとも腕が立つことだけは俺が保障する。その点だけなら心配いらないだろう。」
「ひどい言い分だな。」
 脇からのブラッドの言葉は無視してサークは続けた。
「それで、人手は複数必要なんだな。」
「ええ。最低でも二人は欲しいけれど…。」
「多い分には問題はないか?」
「あ、それは大丈夫。」
「なら都合がいいな。」
 レイの言葉にうなづくと、サークはまた振り返りその場にいるブラッド、そしてリィナとヴィルに向き直った。
「俺もその仕事を手伝う。責任もあるしな。」
 ブラッドを警告するように睨みつける。が、当のブラッドは相変わらず平然とした笑い顔を浮かべているだけだった。
 そちらにはそれきり構わず、更に二人に目を移す。
「それから、ここで話を聞いたヴィルとリィナ。二人にも来てもらう。」
「分かりました。」
「え、そんな急に…。」
 一瞬のためらいもなくうなづくリィナと困ったような顔を見せるヴィル。
 だが、睨みつけるサークの鋭い目にヴィルも首を縦に振った。
「手伝わさせていただきます。」
「…じゃあ、これで問題ないな。」
 返事を待つことなく再びレイに向き直るサーク。レイも、こくりとうなづいた。
「こちらは構わないよ。じゃあ、急いで来てくれる?あまり時間がないから。」
「分かった。」
 早足に歩き出すレイとその後をついていくサーク、ブラッド、そしてリィナとヴィル。
 五つの人影は足早にその場を離れた。


 昼なお暗い裏通り。積み重なる家々の影は、道を照らすはずの光をも遮る。
 そんな一角にこの場所にはいささか似つかわしくない集団があった。
 街並みに埋もれたごく普通の小さな宿。しかしそこにいるのは午後のひと時をゆったりと過ごす人々ではない。こぢんまりとした食堂に並ぶのは五つのテーブルと三十の椅子。だが腰を下ろす者は一人としていない。
 皆、一様に緊張した面持ちを見せている。彼らが着ているのはこざっぱりとした制服であり、その手には長物や鞘に収めた大小の剣がある。
 中央に立つのは一人の男性。大柄かつ肉付きのよい体で腰に提げているのは恐らく両手剣。鋭い眼光にはその場の空気を制するような威圧感がある。
 視線の先には古びた木製の扉があり―今、かすかな音と共にその端に光の線が走った。
「三位巫女、レイ・ピーネ。ただ今まいりました。」
 挨拶と共に小柄な女性が姿を見せる。そして、その後ろから続けて現れたのは四つの人影。
「ご苦労様です。―皆様のご協力に感謝します。私は、本事件の捜査班リーダーのローグル・アッセルトです。」
 部屋で待っていたアッセルトは、レイに挨拶を返して後ろの人影らに頭を下げた。
「…よろしくお願いします。」
 扉を閉める音の直後、丁寧な男性の声が返る。
 サークの言葉と共に、ブラッド、リィナ、ヴィルもまた頭を下げた。

 仮の待機所として貸切にした宿の一階にて、最後の確認が行われた。
 事件の概要は移動中にレイが四人にも伝えておいた。
 ここガーテの街での連続殺人事件。共通点は被害者が女性であることとその異常な死に様。
 ―そして、三人と共に親しくしていた男性の存在。
 その男性は三人とそれぞれ交渉をもっていた。あたかも恋人であるかのような形での。
 だが男性の素性については不明な部分も多かった。普段の仕事や行動についての証言はほとんど得られていない。乏しい情報から推測されたのは、何らかの犯罪組織とのつながりだった。
 彼が事件の犯人という確証があるわけではない。だが、少なくとも現時点で重要な参考人であることは間違いないだろう。ばらばらだった被害者を結びつける唯一ともいえる手がかり。…あるいは、彼こそが事件の犯人そのもの。
 容疑者の確実な確保、そして事件のもつ危険性の高さゆえに、過剰とも思えるほどの厳戒態勢をとってこの作戦は行われることとなった。
 場所はここからすぐ近くの、男性の家。直接この宿から視認することはできないが、家を囲むようにして見張り役の自警団員を張り込ませてある。
 男が帰宅したのは今朝の明け方だった。それ以来、彼が外に出た様子はない。
 付近の被害の軽減と自警団員ら自身の身の安全のために、可能な限りの戦力を投入しての強襲が選択された。目的の家を完全に包囲し、特に力のある者で家に突入を仕掛ける。真っ昼間からの強襲など目立つことおびただしいが一刻も早い事件の解決のためにはやむをえまい。
 相手が魔物などの力を得ている可能性も考慮し、神官の半数はこの突入人員に組み込まれることになった。アッセルトを含めた四人の自警団員と共に突入するのが、レイ、ブラッド、そしてリィナの三人。包囲陣としてサポートに回るのがサークとヴィルの二人になった。
 なおこのメンバーの最終的な決定をしたのはサークだった。突入側にレイとブラッドが入ることは確定だったが、万が一犯人が家から外に脱出したことを考えてサーク自身が外に残ることを選んだのだ。…多少は、リィナのじーっと見つめる目線を考慮に入れたのかもしれなかったが。そしてこの決定に対する反論ももちろん出なかった。サークの判断そのものに間違いがあるわけではないし、組み合わせとしても感謝こそあれ迷惑を覚える者はサーク以外にはいなかった。
 そして、それぞれの部隊に指示と厳重な注意がなされた。
 確実に容疑者を押さえるように―そして可能な限り、街と自らの命を守るようにと。


 家々の立ち並ぶ光景は何の異常もない。所々に修理の跡のある、薄汚れた建物たち。
 その斜め正面、曲がり角に隠れるようにして立つ七つの影があった。
 武器を手にした自警団員と、杖、あるいはやはり武器を手にした神官たち。
 角から頭一つを乗り出せば問題の家を目にすることはできる。―それは同時に向こうからも見えるということ。
 小さく暗い窓からはその内側をうかがうことはできない。中にいるのは一人の男性のはずだったが…その男性こそが、あの連続殺人事件を起こした異常な犯人かもしれなかった。
「…先輩。大丈夫、ですよね。」
 壁から向こうを覗いた後、慌ててまた角の陰に身を隠したリィナはそう言った。その顔にはさすがに緊張と少々の恐怖が浮かんでいる。
 無理もない。遺体の状況を考えれば、犯人は相当な力を持つ魔物の類の可能性が十分にあった。色鮮やかな白銀の髪をもつリィナの魔力は神殿内でも比較的強い方だったが、彼女自身はこれまで内務の仕事を行ってきた。修道院では授業としてそれなりの戦闘訓練も受けていたとはいえ実戦経験は皆無だ。
 着ている服は動きやすさを考慮して院時代の運動着と私服を組み合わせている。その白手袋で掴んだ長杖(ロッド)が、彼女の恐れを反映して小さく震えていた。
「心配するな。先頭に立つのはオレたちだろう、後ろでのサポートに回ってくれれば十分だ。」
 リィナの問いに答えたのは、ブラッドだった。不安を感じさせない堂々とした物言いでリィナに告げる。
 七人の突入部隊。レイはアッセルトと作戦その他について話し込んでいる。自警団員の三人は何も言わずただ静かに突入の指示を待っている。恐怖を覚えるリィナに気づきそれをフォローできるのは、ここでは彼以外にいなかった。
「そう…ですね。」
 ブラッドの言葉に静かにうなづくリィナ。だが、その表情はまだ固い。呟く口調も普段よりも大人しいほどだ。
 その姿を見たブラッドは、あくまで堂々とした態度を崩さないまままた次の言葉を口にした。
「安心しろ。聖騎士団員の誇りにかけて、これ以上の被害者は出させないからな。」
 不敵ともいえるほどに力強い表情。それはこれまで見せていた冗談めいたものとは異なり、真剣なものでもあった。
 その姿に強張っていたリィナの表情が少しほころぶ。ブラッドもまた、唇に笑みを乗せて言葉を続けた。
「それに、こんな可愛い女の子の応援があれば百万力さ。」
「もー、先輩ったらー!」
 すかさず言葉を返すリィナ。その顔は何気ない言葉に照れたようにほんのりと頬を赤らめている。あくまで、冗談にちょっとだけ照れたという表情。
 向かい合うブラッドは、相変わらずの笑いを見せながらじっとリィナを見ている。
「まあそれはともかく。リィナも元気そうでよかったよ。」
「よく覚えてましたね。どーせ今まで忘れていたくせにー。」
 今更ながらの再会の挨拶には拗ねた表情で答える。ブラッドは苦笑した。
「悪い悪い、色々とこっちも忙しくてな。サークの所に顔だけは出したんだが、夕べまではあいつとゆっくり会ってる暇もなかったんだ。」
「ほんとですかー?」
「…そんなに信用ないのか、オレ?」
「え、そんなことないとは思いますよー。―サーク先輩と同じぐらいには。」
「…それって全然信用がないってことじゃないのか?」
「さあどうでしょうね。」
 笑った次には軽く謝って、うなだれたかと思いきや首を捻る。目まぐるしく変わるその表情は俳優のように豊かだ。答えるリィナも、拗ねたり素直そうに答えたりさらりとかわしたりと巧みに本音とフェイクを織り交ぜる。
「…まあいいけどな、少々信用が低くたって。」
「へえ、そうなんですか。」
「なーに、多少は怪しい男の方が女性を引きつけるってもんさ。」
「へー、聖騎士サマとあろうお方がそういうこと言うんですか。」
 楽しげな会話は続く。緊張を下地に、いささかの狂騒めいた明るさをはらみつつ。
「いや待て。別にオレは恥じるようなことは何もしてないぞ。」
「確かあの頃相談を受けた友人は、アイとジェードとサウ…」
「まあそんな昔のことは忘れよう、というか覚えていたのかそんなところまで。」
「そりゃ、私は誰かさんと違って記憶力は人並みにありますから。」
「いや、別にリィナのことも忘れていたわけじゃないぜ。ちゃんと覚えていたさ。」
「…へえ。」
 答えるのに、一瞬遅れてしまったかもしれない。だけどその不安や躊躇など決して見せないようにしてリィナは笑う。
 他愛のない会話。
 だからもちろん、続けてのブラッドの言葉もあくまで冗談めいたものだった。
「その噴水頭。一目で覚えたな。」
 その目を見つめる、真紅の瞳と共に。

 ―それは全ての始まりだった言葉。二年前のあの時も同じように何気ない会話の中で告げられたもの。他愛もない、そんな一言。

「…もーっ、噴水って言うのはやめて下さいよー!」
 次の瞬間、リィナは膨れっ面で怒った。頬には興奮の真っ赤な色を乗せて。
「ははは、だってそれはどう見たって噴水だろ。」
 笑いながらブラッドが指差すのはリィナの頭だ。頭上でまとめられた白銀の髪は、頭から飛び出すようにして広がっている。
 小さな風に揺れて、銀色に輝きながら。
「先輩、ひどい…。」
「あー泣くな泣くな、オレが悪かった。」
 うつむいてあからさまな泣き真似を始めるリィナ。だけどそれに合わせてきちんと慌てた様子を見せるブラッド。
「口だけなら何とでも言えますよねー。」
「分かった。後で何かおごってやるから。」
「…やった。」
 上げた顔にあるのは、小悪魔めいた笑みだった。ブラッドもどこか陽気なため息をつきつつ同じく笑う。
「まったく、さすがアイツの後輩だな。」
「それはもう、日々鍛えられてますから。」
「違いないな。」
 なおも続く明るい会話。
 だが、ブラッドの目はおもむろに真面目なものへと変わった。
「それに、それだけ口が立つんなら呪文につっかえる心配もなさそうだな。」
 相変わらず表情は笑っている。だけど、言葉に乗せられた意思の重みはもう違っていた。
「…はい。」
 リィナは素直にうなづいた。
 今までの冗談めいた会話のどこまでが緊張ほぐしと励ましで、どこからがただの悪ノリだったのかは判断できそうにない。恐らくはその両方だろう。
 それでもリィナは感謝した。前者だけではなく、両方の意味を含めて。
「さて。そろそろ、かな。」
 正面に視線を移したブラッドが呟いた。
 無造作に立つ姿。左手で背に抱えた荷袋の肩紐を支えている。着ている服もごく普通の町服であり、それらの格好だけ見れば買い物に出かけた一般市民以外の何者でもない。
 ただ腰に提げられた剣が異なっていた。しかしそれ以上に異質なものは、正面を見定めるあまりにも鋭い眼差しだった。
 聖騎士。『天使』の代理人たる教皇の下その手足となって働く、ライセラヴィの誇る精鋭部隊。
 彼が夢を掴んでこの地を発ったのは二年前だった。自分にとってはあまりにも遠かった二年間。だけどそれは、彼にとっては大きな糧となった。
 頼れるその姿はひどく大人びたものだ。二つという歳の差だけでは、多分埋めきれないほどに。
 憧れと、今も胸の奥で震えているこの思いと―そして、かすかな壁と。
 一瞬にして脳裏をよぎった全ての思いを飲み込んで、リィナも振り返った。その先にはレイと自警団のリーダーの姿がある。
 打ち合わせが済んだのだろう、レイが厳しい表情のままこちらへと歩いてきた。
 両手で抱えた杖を握りしめ、リィナは最後の指示を待った。
 ―今はただ、この任務を果たすだけだ。


 抜けるような青空は裏通りにあっても建物の隙間から見ることができた。
 真っ青な空は輝かんばかりに鮮やかで、目を灼く。
「…大丈夫かなー。」
 空を見上げながら、ヴィルはぽつりと呟いた。
「他人の心配をするよりきちんと用心しろ。空を見ててどうするんだ。」
 すかさず隣から声が返ってきた。
 促されて視線を戻すと、すぐ近くでサークが立っていた。半ば呆れた表情でヴィルを睨んでいる。
「いや、そうなんだけどね。ちょっと気になって。」
 独り言のつもりだった言葉に鋭いつっこみを入れられて、つい言葉を濁しつつの言い訳が出てしまう。
「何がだ。」
 聞き返すサークの表情は厳しい。もともとヴィルに対しての言葉は厳しいものが多いが、今は状況もあって更にその厳しさを増していた。
 とはいえそれなりには慣れているので、ヴィルはそれを気にする様子もなくあっさりと質問に答えた。
「リィナ、大丈夫かな。」
「…そこまで心配することはないだろう。」
 不安の色を交えたヴィルの言葉に対し、サークの口調はいつもの冷静さを保っていた。
 だが一見厳しいだけのその表情に苦々しさが混じっている。
「だってあの子、外務の経験なんてゼロでしょ。」
 再びぽつりと呟いた。
 ヴィルも彼女なりに後輩の身を案じてはいたのだ。二つ下、今年院を出たばかりの新人であるリィナ。内務で働き始めたばかりだというのにいきなりこんな危険な仕事に巻き込まれて、果たして彼女がきちんと働けるのか心配せずにはいられない。―自分の身を守るという仕事をこなせるのは結局自分自身でしかないのだから。
「分かってはいたが、仕方がなかったんだ。」
 答えるサークの口調は苦々しさを増していた。
 無論、サークだって後輩の身を案じていないわけがない。成り行き上とはいえ巻き込んでしまったのはある意味自分のせいであるために余計にその責任を感じていた。
「でも突入部隊はさすがに危険すぎたかもしれない…。」
 今更ながらだが、正直なところをヴィルは口にした。
 部隊への振り分けの時点では単純にサークの選択を喜んだ。これならリィナはブラッドといられるし、ついでに自分とサークも組める。まさに一石二鳥だと思ったのだ。
 しかし、こうやって突入を待つばかりになってようやく、この仕事が持つ危険性を強く感じた。いくら都合のいい組み合わせでも、それで万が一命を落としたら全く意味がない。
「…まあな。だが誰かが行かなくてはならないことに変わりはないだろう。」
 全ての決定後になっての、わがままともいえるヴィルの言葉。だが対するサークの言葉にそれをとがめる様子はあまり強くなかった。
 サーク自身もその点に関しての不安がないわけではなかったからだ。だが、人員と仕事内容を考えるとこれがまだ最善と思われる選択だった。
 ブラッドは、性格その他はともかくとしてもこうした仕事の能力は一番高いだろう。聖騎士となれたのだから実戦的な魔力と武芸はこのメンバーの中で一番優れていることは間違いない。それからレイも、外務で働いているのだから実戦経験は十分に豊富といえた。
 しかし残りのメンバーは微妙だった。サーク自身は、今までの実技試験などの成績から考えればそれなりに力はある方だと思える。だがヴィルとリィナの力量に関しては疑いがあった。ヴィルは何せ実験でしょっちゅう事故を起こしているほどだから魔法の制御などが非常に怪しい。リィナは力量はあるはずだが、まだ若すぎた。院を出たばかりの内務の人員では実戦に立たせる方が間違っているだろう。
 作戦としては突入側に最高の戦力を投入するとあったが、そこから逃げられる可能性がないとはいえない。例え力量的には十分押さえられる相手だったとしてもだ。ここで外にヴィルとリィナの二人を残しておいては、家から逃れた容疑者をちゃんと押さえられないかもしれなかった。―だったら自分が残るしかない。
 あとは代わりにどちらを突入部隊に入れるかだが…どちらでも大差ないのなら、リィナの願いを叶えてやった方がいいだろう。
 それが結論だった。
「それとブラッドを信じるしかないな。」
「それでホントに大丈夫なの?」
 続けてのサークの呟きにヴィルが口を挟む。サークは小さくうなづくと説明を一言追加した。
「仮にも聖騎士だ。そうそう遅れをとることはあるまいし、犠牲者など出させないだろう。」
 その力量が優れていることは飲み会前の一幕でもある程度は確認できた。そして彼の任務に対する真剣さはよく知っている。
「…まあ、サークがそこまで言うんなら大丈夫かな。」
 ヴィルはうなづくと、おもむろに抱えた荷袋を地面へと下ろした。どさり、と重めの音にまじって金属らしいものが触れ合う音が聞こえる。
 かすかに嫌な予感を感じたサークは尋ねた。
「…ところでその荷物は何だ。」
「あ、コレ?試作品を幾つか持ち出してきたの。実戦で使ってみようと思って。」
「試作品の許可無き持ち出しは禁止だ。」
「先輩に聞いたらいいよって言って…」
「任務の危険性を分かっているなら不安定な試作品など使うな。」
「…はい。」
 ヴィルはあきらめたようにうなづいた。
 それには構わず正面を見据えるサーク。その視界にあるのは容疑者のいるとされた家だ。突入部隊からの合図はまだ来ない。
 緊張を高めるだけの時間はひどくゆっくりと流れていく。
「…ねえ。」
 再びヴィルの声が聞こえた。
「突入はもうすぐだぞ。」
「これで最後にするから。」
 サークは少し迷った後その言葉を信じることにした。
「…何だ。」
「やっぱ私じゃなくリィナを行かせたのは親心?」
「…何で親心なんだ。」
「え、だって保護者でしょ。」
 違う、と言いかけたがサークはなぜか結局それを口にできなかった。
「まあサークにも優しい心があって安心した。」
「…。」
「リィナも二年間ろくに連絡も取れずに寂しかっただろうしね。せめてこういう時ぐらいはゆっくり会わせてあげたくなるよ。」
「…。」
 サークは沈黙のままだが、ヴィルは一人で話し続けている。互いの視線は正面の家に向けられており全く噛みあっていない。
「レイもいるけど、まああの子は目ざといから多分二人をそっとしといてくれるんじゃないかな。よかったよかった。」
「…。」
「知ってる?リィナ、ブラッドがこっちに帰ってきたってのに全然会えなくてほんとにがっかりしてたんだよ。少しは考えてやらなきゃ。」
「…。」
「あーもうじれったい。私が一肌脱いでやろうかしら。」
 それまで黙っていたサークだったが、ここで言葉に割りこんだ。
「……ヴィル。」
「え?」
 ヴィルが戸惑ったような声を出す。
 サークは視線を正面に向けたまま言った。
「…他人のことに首を突っ込むのはいい加減にしておけ。」
「でも…。」
「相手の気持ちも考えろ。」
 その言葉は、厳しい。冷たささえもはらんで。
「…。」
 ヴィルは何も答えず、ただ黙り込んだ。
 さっきまでの会話の跡形もないような静寂。お互いに相手の顔も見ていない。
 ―そして、見つめる空に閃光が走った。
「行ったか。」
 それが打ち合わせておいた部隊の突入合図。
 待機側もまた、それぞれの武器を手に緊張と共に身構えた。


「自警団だ!ビライン・アファイル、連続殺人事件の容疑者として逮捕する!」
 空へと放たれた光。そしてアッセルトの叫びと共に、七人は蹴破った扉から家の中へと突入した。
 外とは異なり暗い室内に一瞬視界が悪くなる。だがそれでも、小さな悲鳴と共に奥へと走り去る人影を誰一人として見落とすことはなかった。
「抵抗はやめて大人しく出てこいっ!」
 気合を入れるように一際大きな声を上げてアッセルトは奥へと踏み込んだ。残りの人員もその後を走る。
 裏通りの小さな家は七人も入ればひどく狭い。走り抜ける体にぶつかった品が音を立てて床へと転がり落ちる。
 目の前の二つ目の扉を押し開けると、そこはもう最後の部屋だった。
「ひっ…!」
 聞こえたのは、男のか細い悲鳴。
「…ビラインだな。大人しくしてもらおう。」
 正面に剣をかざしてアッセルトは言った。―目の前で、腰を抜かしたように座り込む男に対して。
 誰一人として油断はしていない。おびえた姿を見せるこの男が、いつ、その身を魔物に変えて襲い掛かってくるかもしれないからだ。それぞれに構えた武器を男に向けつつ周囲にも警戒する。
「…な、何だよあんたら…。」
 座り込んだ男、すなわち容疑者であるビラインは息を詰まらせつつそれだけ答えた。
「自警団だ。連続殺人事件の容疑者として、お前を逮捕する。」
「―は、はぁっ?知らねえ、オレは無関係だ!」
 反射的にビラインが叫ぶ。ひどく怯えたようなその姿は、どう見ても残虐な殺人犯には見えない。
「…言い訳は後でいくらでも聞いてやる。大人しくしろ。」
「なあ、冗談だろ?容疑者って何だよ、オレが犯人だって言うのかぁ?」
 慌てたように早口で喋りだす男の姿に、アッセルトは正直戸惑いを覚えた。…ここにいるのは凶悪な殺人犯ではなかったのだろうか。
「犯人かどうかまでは知らんが、とにかくお前がこの事件に関わっていることは間違いないんだ。」
 戸惑いのあまりについ、言わなくてもいいことまで口に出してしまう。
 だがすっかり気が動転したらしいビラインはそのことにすら気づかなかった。
「何だよそれ、あいつらが殺されたからってどうしてオレがそんな犯人扱いされなきゃいけないんだよ!」
「…詳しいことは詰所でゆっくり聞いてやる。さあ、立って両手を出せ!」
 それでもアッセルトは手にした長剣で脅しつつビラインを逮捕しようとした。
 当のビラインは、驚きと戸惑いの表情を浮かべたまま呆然としているだけだ。
「何かの間違いだろ、冗談じゃねえよ…。」
「―立たないのか?」
「た、立ちます立ちますっ!」
 だが、アッセルトが再度長剣を近づけると慌てて言葉に従った。素直に両手を前に出す。
「…大人しくしてれば、危害は加えない。」
 アッセルトはもう一度ビラインを睨みつけると、その長剣を鞘に収めた。無論周囲にはまだ身構えたままの六人がいる。
 ロープを取り出し、腕を縛る。その間、うなだれたビラインは完全に大人しくただされるがままに従っていた。その顔色は生気を失ったかのように青ざめているばかりだ。
「じゃあ、詰所まで来てもらおう。」
「…はい。」
 アッセルトが腕を縛ったロープを引くと、ビラインは素直に歩き出した。
 それを取り囲むようにした残りの六人は相変わらず武器を手にしたままだが、その顔に浮かんだ戸惑いの色は隠せずにいる。
 …こうしてほんの数分で連続殺人事件の容疑者は捕まった。
 あまりにも、あっけない幕切れだった。

「…じゃあ、この容疑者はとりあえず詰所に連れていき尋問をしますので。後はよろしく。」
「了解しました。」
 周囲を包囲していた人員が家の前まで呼び出された後。
 異常も見られない、容疑者が暴れる気配もない。ということでアッセルトらはとりあえず現場を離れることになった。何にせよ容疑者を詰所に連れていかなくてはならない。
 一応容疑者の逃亡の可能性を考えて、レイはアッセルトと共に自警団の詰所に向かうことになった。ここに集まった自警団員の大半も一緒に戻ることになる。
 残りの団員は容疑者の自宅の捜索を行うことになった。凶器などの存在は不明だが、ひょっとしたら何らかの証拠物件が見つかる可能性がないわけではない。
 そして、善意の協力者であるサークら神官たちは、もう仕事はなかった。
「…とりあえず、協力してくれてありがとうね。何にもすることなかったけど。」
「…ああ。」
 お互いに多少の戸惑いを感じつつ、レイは感謝の言葉を述べてサークもそれに答える。
 何はともあれ、これで彼らがするべきことは終わった。
 サークは複雑な表情を浮かべつつ辺りを見回した。
「…あれ。」
 一人、二人。一緒に戻る数が一人足りない。
「おい、ブラッドはどうした?」
 同行していたはずのリィナに尋ねる。
「先輩なら、さっき自警団の人と一緒に家の中の最後の見回りに行きましたよ。」
「…妙なところで律儀なやつだな。まあいい、少し待とう」
 かすかな違和感を覚えつつも、心配していた任務のあっけない幕切れにやや脱力していたサークはそのことを深く気にはとめずにいた。

「じゃ、オレはこっちの台所見てきますんで。」
「あー、頼んだ。」
 ちょうどその頃。
 リィナの言葉通り家の中の見回りを始めていたブラッドは、同行していた自警団員と二手に分かれた。
 一応さっきしっかりと隠れている者がいないかなどを調べてはあるし、この後また改めて証拠物件などの捜索もある。とりあえずの確認程度だからそこまで念入りにやることもないだろう、ということで本来なら組で行うはずの仕事を分担することをブラッドは提案した。
 同行していたこの団員もそれに関しては同意見だったらしく、話はすんなりとまとまった。
 にこやかな顔でブラッドが小さく手を振る。団員はそれに構わず、さっさと部屋の中のチェックを始めた。
 そうして団員が背中を向けた瞬間、ブラッドの表情から笑みが消えた。
 これまで以上に厳しい表情を見せて台所へと踏み込む。
 辺りに並んでいるのは、雑多な食器類や食材、大型の容器や壷、そしてかまどや流しだ。
「―アレか。」
 辺りを見回していたブラッドの目線が、一箇所で止まった。
 部屋に突入した時に、『それ』がないことは確認しておいた。ならば、木を隠すなら森の中辺りだろう。そう思った自分の考えが正しかったことにほっとする。
 ブラッドはもう一度辺りをそっとうかがった。ここからは直接見えないが、団員が捜索しているらしい物音は遠くから聞こえる。
 それを確認するとブラッドは肩に提げていた荷袋を下ろした。かがんでその場で口を開く。
 中から取り出したのは一つの箱だった。大きさは人の胴ほどで正方形に近い。一見、どこにでもあるようなありふれた鉄の箱だ。
 だがその表面には魔方陣らしき文様が刻み込まれていた。
「―光は我が側にあり(リト・ベ・ウィツフ・メ)。」
 早口でブラッドが呟く。すると、彼が手を触れていないにもかかわらずその蓋が開いた。弾かれたかのように勢いよく板の端が持ち上がる。
 しかしその中には何もなかった。バネの仕掛けもなく、中に収められた品もない。
 ブラッドはすかさずその端を受け止めると、立ち上がり側の棚へと手を伸ばした。
 棚から、並んだ小型の壷の一つを持ち出す。
 それはありふれた壷だ。表面に幾つかの飾り模様が刻まれて同じ素材の蓋がついているだけのもの。
 ブラッドはもう一度確認するようにその表面を見つめた後、すぐさま箱へとしまい蓋を閉じた。そのまま荷袋に放り込み肩へと引っ掛ける。
 そして辺りを見回した。
「…?」
 捜索する物音は相変わらず隣の部屋から聞こえてくる。だが、ブラッドが目を止めたのは外の光景だった。
 こちらを見ていたらしい人影が、彼が目線を向けると同時に目を逸らしてそのまま歩き去っていった。
 その姿はすぐさま窓枠の向こうに消える。そもそも、建物の隙間の向こうだったのかかなり遠くにいたようでその顔を判別することもできなかった。長い黒髪から辛うじて女性と判断できそうなぐらいだ。
「…まずったかな。」
 ブラッドは舌打ちしたが、それ以上は何も言わずもう一度辺りを見回した。
 小さな台所には誰かが隠れられそうなスペースも無い。見回りとしては十分だろう。
「―こっちは終わりましたよー。」
 そう声を出して、ブラッドは台所から隣の部屋へと歩き出した。


「それじゃ、かーんぱーい!」
「かんぱーい!」
 陽気な宣言と共に、幾つかのグラスが高々と掲げられた。
 器の当たる澄んだ音と勢いに合わせて跳ねる水。もちろんそれは無色透明ではなくて、赤なり淡い琥珀色なりに染まった香り高い液体だ。
 …ただし、机の上で勢いよくぶつけられたのはその内の二つきり。残る三つのグラスはとりあえず言葉に合わせはするかのように軽く当てられただけだった。
「いやー、何はともあれ仕事が無事に終わってよかったよかった。さあ飲もう。」
 店の中にはアルコールの香りと料理の匂いが漂い、酔っ払いたちの騒ぐ大声が耳を覆わんばかりに響く。
「そうねー。これで事件が解決したと思えばめでたいめでたい。よし飲もう。」
 机の上には豪勢な品々が並び、その脇には数本の酒瓶までもが立てられている。
「いや、一応捕まえたのは重要参考人であって…。」
「何言ってるの、被害者と密接な関係を持っていた男なんでしょ。きっと犯人に間違いないって!」
「そうそう。これで連続殺人事件も決着がつくんだ。いやあめでたいな。祝い酒をぜひ楽しみたいところだ。…さあそこでぐいっと。」
「ぐ、ぐい?」
「まあとりあえず飲みなさい。飲めば分かるから。ささぐいっと。」
 どこからどう見ても、宴会の風景。
「…お前ら、盛り上がり過ぎだ。少しは落ち着け。」
「「えー。」」
「そこでわざわざ声を揃えて膨れるな!」
 そしてそれを囲んでいるのは五人の神官たちであった。
 もちろん私服に着替えているためこの街中の居酒屋にあってもその姿はそれほど違和感がない。さっきからグラスを手に元気よく喋っているブラッドとヴィルの二人組などは文句のつけようがないほどに典型的な酒場の客と化している。
 ただし。同席するレイとサークとリィナの三人は、それぞれ微妙な表情を浮かべつつこの光景を傍観者のように眺めていた。

 そもそも事の起こりはつい三時間ほど前に遡る。
 サークらがレイの依頼を済ませて神殿に戻った直後だ。昼食を食べ損ねていたヴィルが一人急いで食堂に向かった後、リィナはおもむろにサークに向かって言った。
「それで、夕食はどこにするんですか?」
 顔を向けたサークの動きが一瞬止まった。
「……ああ、まだ決めていないが適当に考えてはいる。」
 微妙というにはいささか長すぎる間だったが、リィナはとりあえず余計な言葉はあまり挟まないことにした。
「まさか先輩が忘れてるなんてことはありえませんからね。楽しみにしてますよ。」
「…ああ。」
 そしてサークが短く返事らしきものを口にしたところで、にっこりと笑ってもう一言付け加えた。
「先輩が言った言葉はきちんと覚えていますからね。嘘をついたら承知しませんよ。」
「…。」
 突然割り込んだこの仕事のせいで当初の予定とは異なり残業もしなくてはならないと思っていたサークは、その言葉に再び沈黙した後ただこう答えるしかできなかった。
「…勤務時間が終わったら、着替えて正面入り口で待っていろ。」
「はーい。」
 リィナは笑顔で去っていった。

 そしてそれからしばらく後。
 上司に一言連絡を入れてサークは今日の残りの仕事を休むことにした。普段は真面目に仕事をこなしていた努力がこういう時には生きてくる。
 ただしその代わりかのように今回のレイの依頼についての書類を製作するはめにはなった。当の本人のレイは何も提出していないので、依頼書を一から作って説明やら承諾のサインやらを記していく。本人がこっちに帰ってくるのがいつになるか分からない以上、今日引き受けて完了までした仕事の依頼書を今日中に提出するためには急いで作業をしなくてはならなかった。
 そういうわけでサークが自室でペンを走らせているそんな時、出し抜けにノックもなく扉が開いた。
「おお、サークじゃないか。扉が開いてるから驚いたぜ。」
「…ようやく帰ってきたか、ブラッド。」
 何の遠慮も無く自室にやってきた男に対して、サークは一瞬だけ目を向けてそう言った。
 もちろん自室に荷物の一部を今朝から置き去りにしていたことを考えれば当然のことである。だからこそサークもわざわざ仕事を休んで自室で作業していたのだ。
「ああ。それともオレの帰りを待っていてくれたのか?嬉しいね。」
「好きで待っていたわけではないがな。」
 机に向いたままそっけなくそう答えると、サークは止まっていたペンを再び動かし始めた。
 ブラッドは相変わらずここが自室であるかのように荷物を放り出してベッドに腰掛ける。
「ほう…わざわざ意に反して仕事をサボってまでとは、一体どのような用件でございますか。」
 慇懃無礼を装ったその言葉に、サークはもう一度手を止めた。
 そのままの姿勢でしばし考え込んだ後、ペンをインク壷に放り込むと彼はゆっくりと体ごと振り返った。
「…どうしてこんなことになったのかは分からないがな。ブラッド、今夜は暇か。」
「ヒマというわけでもないが、他ならぬお前の頼みならこの身体を一晩貸してやってもいいぜ。」
「ならば夕食を一緒に食べに来てもらおう。」
 誇らしげにことさら反らせた胸を叩いたブラッドに対しサークは間髪入れずにただ要点だけを伝えた。
「夕飯だけか?夜は長いんだ、二人で過ごすにはぴったりだぜ?」
「あと、後輩のリィナも一緒だ。」
「ああ、噴水頭か。」
 ブラッドの思わぬ言葉にサークは一瞬目を丸くしたが、すぐにリィナの髪型を思い出して納得した。
「そうだが、名前ぐらい覚えてやれ。」
「オトした相手ならきちんと覚えてるんだがなー。」
「…ほう。」
「何せお前の後輩だ。下手すると後が怖い。」
 その言葉には色々と思うところがないわけではなかったが、サークはそれについてはとりあえず適当に流すことにした。
「修道院の卒業生なら全員後輩だろう、お前の後輩でもあるんだがな。」
「まあそうとも言えるけどよ。…でもどうしてだ?」
「今更になるが、久しぶりの帰省だから歓迎会をしたいというようなことだと思う。」
 サークは全く間を挟むことなく答えていた。…嘘ではない。推測表現であるし、リィナとしてもそういう建前ぐらいは考えているだろう。
 偽りを忌むはずのライセラヴィの教義はとりあえず頭の片隅に押しやることにした。今回はリィナの幸せ―あるいは不幸の免除優先だ。
「そうか。時間や場所は?」
 幸い何も疑問に思わなかったらしく、ブラッドは当然のように参加を前提にして話を進めた。
「とりあえず就業後だ。場所についてはまだ決めてないが…。」
「ああ、ならオレが適当に探してきてやるよ。どうせ暇なんだ。」
 今夜はヒマじゃないと言っていたのは誰だった、と一瞬サークの脳裏に言葉がよぎった―がこれ以上のまぜっ返しを抑えるために飲み込んでおいた。
「…そうか。なら、任せておく。一応なりたて神官の給料のことも考えて選んでやってくれ。」
「心配するな。どうせこの街のことなんて神官になる前の時の記憶しかないんだ。」
「分かった。後は頼む。」
「おお。じゃ、行ってくる。」
 そしておもむろに立ち上がり歩き出すブラッド。
「―ちょっと待て、この荷物はどうす…」
 だが、サークの呼びかけた言葉は扉の閉まる音の前に空しく消え失せてしまった。
 後に残されたのは、夕べより更に増えたブラッドの私物だけ。
「……宿代ぐらいならまだ出せるか。」
 ため息を一つつくと、サークは今夜もこの部屋では眠れそうにない哀れな後輩のために街の宿に泊まるためのお金を用意してやるべく財布を取り出した。

 更にそのおよそ二時間後。
 勤務時間も終わって私服に着替えて神殿の正面入り口階段下で待つサークとリィナの前に現れたのは、何故か同行者を二人ほど連れたブラッドだった。
「待たせたな。」
 あっけに取られるサークら二人に対して全く悪びれもせず挨拶をする。
「いやそれほど待ってはいないが…何故この二人がいる?」
「ああ。見かけたから声をかけたんだ。」
「…。」
「ごめん、もしかして予定外だったかな…。」
「あ、あたしはレイが行くからじゃあ同行してもいいかなと思って…。」
 ブラッドの後ろに身を隠すようにして喋っているのは、レイとヴィルの二人だった。
 すまなさそうに縮こまる二人を一旦無視してサークはブラッドに尋ねる。
「見かけた、とは?」
「店を物色した後神殿に戻った所でちょうど詰所帰りのこの子に会ってな。話しながら歩いてたらもう一人も見つけたんだ。」
 そう言って指差したのは、レイ、ヴィルの順。
 サークは頭を抱えたくなるのを抑えてもう一度二人を見た。
 レイはこの微妙な空気を感じ取ったのか戸惑いながら居心地悪そうにしている。事情は知らないはずだから(ヴィルが洩らしてない限り)、まあ妥当な反応だろう。
 そしてヴィルは、思わぬ展開にすっかり怯えているようだった。その視線は自分のすぐ隣に向けられている。
「まあオレとしてはどちらでも構わないが…」
 そう言いながらサークはその方向に振り返った。
「…どうする。」
 ―そこには、無表情なリィナの顔があった。
 このサークの声が最初から最後まで同じだったことは賞賛に値するかもしれない。
 全員の目が集まる中、リィナは口を開いた。
「ええ。構いませんよ、大勢の方が楽しいですから。予約した店さえ大丈夫ならですけれどね。」
 にっこり、と擬音を思わせるような笑顔。ただし内容を聞けば喜んでいるはずの言葉を放つその声音は普段と同じ高さでしかない。
 サークは内心で祈りを捧げずにはいられなかった。…仕える光にそんなことを祈っていいのかどうかははなはだ怪しかったが。
 だが次の瞬間、あっけらかんと答えるブラッドの言葉が空しくも響いた。
「ああ。店には席の確保を頼んだだけだから、これくらいの人数が増えても大丈夫だろう。」
 サークの祈りは残念ながら届かなかったようだった。
「じゃ、行こうか。」
 続けてブラッドが一声かけて歩き出すと、四人もその後を歩き出した。
 ただし。その四人のうち誰一人として何も言おうとはしなかった。

 ―そして、この飲み会に至る。
「あー、このお酒おいしいねー!」
「そだろ。先輩に教えてもらったお勧めの一品だ。このキレがいいんだよな。ささこっちも飲んだ飲んだ。」
「の、飲むからそれ以上注がないで…あああ多いって!」
 早々と最初の一杯を飲み干したブラッドとヴィルはあっという間に杯を重ねてすっかり出来上がっていた。
 ブラッドはごく当たり前のように楽しげに飲み続け、ヴィルは何かふっきれたのかあるいは自棄になったのかとにかく無茶ともいえる勢いでグラスをあおっていた。
 哀れなのはその間に座ってしまったレイ。酔っ払い二人にからまれて、慣れない酒をハイペースで飲まされていた。
 …とまあ、机の片側ではすっかり盛り上がっていたのだが。一方の端には、沈んだムードが漂っていた。
「先輩。どういうことですかこれは。」
「…すまん。」
「三人で夕食会をするって言ったじゃありませんか。」
「ああ。」
「なのに何で五人で飲み会になってるんですか!」
 こちらも自棄になったのか一気に酒をあおったリィナが、普段の敬いの態度はどこへやらの勢いでサークにからんでいた。
「ひどいじゃないですか、私とっても楽しみにしていたんですよ。」
「そうだろうな。」
 いつもなら冷静に返して相手がぐうの音も出ないようにするサークだが、今夜ばかりはさすがにリィナの勢いに負けたのかただただ相槌を打っていた。
「久しぶりだからゆっくり話もしたかったしついでにおいしいご飯も食べたかったしできたらおみやげの一つも欲しかったのに。」
「…そうなのか。」
「なのに何でこんな飲み屋にいるんですか我々はっ!」
 色々と予定が狂ったことにリィナはショックを受けているらしい。彼女の気持ちを考えれば、まあ無理もないことではある。
「店を選んだのはあいつなんだがな。」
「ううう。確かにお酒おいしいですけど…あ、次これお願いします。おかわり。」
「…懐は大丈夫なのか。」
「え、先輩責任とって酒代はおごってくれるんでしょう?」
「そんなことを言った記憶はないが。」
「でしょう?」
「……考えておこう。」
「おじさーん、こっち来てー。」
 …ショックはショックだがそれなりに満喫してはいるようだった。
 店員を呼び止めて注文を始めるリィナ。その姿を見ながら、サークは静かにグラスを傾ける。
「よ、飲んでるみたいだな。」
 そこに声をかけてきたのはブラッドだった。
「ああ。…向こうはどうした?」
「見ての通りだ。」
 言葉に促されて視線を向けると、そこにはもう酔い潰れたのか机にもたれるようにしてレイにからんでいるヴィルの姿があった。
「…なるほどな。」
「あ、せんぱーい。ありがとうございまーす!」
 そうやって二人が話している中に、注文を終えたらしいリィナも割り込んできた。ブラッドが爽やかな笑顔で答える。
「ああ。お前も飲んでるみたいだな。」
「はい。何せサーク先輩のおごりですから。」
 こちらも爽やかな笑顔で言い切るリィナ。ブラッドは思わず振り返った。
「…そうなのか?」
「…そうらしい。」
 ため息混じりでサークが首を縦に振る。その姿に、ブラッドは何かを悟ったらしく深くうなづいたが次の瞬間声を上げて笑い出した。
「ははは。まあかわいい後輩におごってやるのも先輩の仕事のうちだ。どうせなら食事もおごってやればいいのにな。」
「何言ってるんですかー、ご飯はブラッド先輩もちですよ。」
「…え?」
 ここでブラッドの笑いもはたと止まった。
「先輩、昼間の仕事の時言ったじゃないですか。おごってくれるって。」
「ちょっと待て、これはオレの歓迎会じゃないのか?どうしてオレがおごる側にならなきゃいけないんだ?」
「えー、聖騎士様とあろうお方が嘘をついたんですかー?」
「いや待て。品物の選択権は普通おごる側にもあるもんじゃ…」
「あきらめろ、ブラッド。」
 今度は、声をかけるのはサークの番だった。
「リィナに約束したんなら守らなくてはいけないからな、必ず。」
 語尾に妙に力のこもった言葉。ブラッドは呆然としてしばらく口をぱくぱくさせた後、ついに吹っ切れたかのように机を叩いて宣言した。
「ああもう分かったよ!男に二言はない、リィナの食事代ぐらいオレが出してやるよ!」
「わーい、先輩さっすがー!―あ、じゃあついでだから料理ももっと頼んじゃお。すいませーん!」
 リィナは嬉しそうにそう言った。
 宣言した姿勢のまま、停止するブラッド。
「…まあそういうことだ。」
 そこにかけられたサークの言葉はどこか親近感をもった優しげなものだった。
 がくりとうなだれてから、ブラッドはグラスの酒を一気にあおるとサークに向かって再び口を開いた。
「何だかなー…なあ、リィナってああいうヤツだったか?」
「…まあ色々とあってな。」
「そうか。苦労してるんだな。」
 何気なく呟かれたブラッドの言葉にサークは一瞬全ての真実をみっちりと説教してやりたくなったが、何とか喉元でとどめて別の言葉を答えた。
「…そう思うんなら、せめて相手でもしてやってくれ。喜ぶだろう。」
「それはお前の役目じゃないのか?」
「歓迎会を言い出したのは一応あいつだ。再会を喜んでいたのは本当だから、お前の方が適任だろう。」
「そうか。」
 納得したのかうなづくブラッド。
 その様子に、これなら多少はリィナの不満も収まるだろうと安堵しつつも、サークはこの飲み会の裏に漂う不穏な空気にそこはかとない不安を覚えていた。

 それから約二時間後。
 そこには五つの酔っ払いの姿があった。
「うー。ねえ、次はこれ飲みたい。」
「だから飲み過ぎだってば、もうやめなさいって。」
 机にだらしなくもたれかかってメニューを見ているのはヴィル。ハイペースで酒をあけ続けた結果、その顔色は赤を通り越してもはや黒ずんでいた。しかしそれでもなお本人は飲むつもりらしい。
 それを必死でとどめているのがレイだった。彼女は薦められた酒を明日も仕事があることを理由に断り続けたおかげでそれほどひどく酔ってはいない。ただしその分、酔っ払いの面倒を見るという余計な苦労を背負い込んでいた。
「まあせっかくの飲み会なんだ。もう一つぐらいいいだろう。」
「そうですよー、せっかく先輩がこう言ってるんだしー。」
 しかしそれをまたまぜっ返すのがブラッドだ。間違いなくこの中では一番多く酒を飲んだはずだが、態度にはほとんど変化がない。だからといって酔っていないというわけでもなさそうではあるが。
 加えてリィナがそれに同調していた。こちらも少々無理に飲んでいたらしく、真っ赤な顔で言葉の端を妙に伸ばしている。すっかりテンションも上がって完全な酔っ払いになっていた。
「―お前ら二人もいい加減にしろ。」
 その中でただ一人、サークだけが冷静さを保っていた。実はマイペースでかなりの酒を飲んでいたはずだが本人は平然としている。調子に乗ったブラッドとリィナの言葉にもすかさずつっこみを入れていた。
 机の上には無数の空き皿と空の酒瓶が並んでいる。異様なほどの盛り上がりもようやく落ち着いてきて、そろそろ解散しようかというところだ。
 だがそんな理性的な判断ができない者もいた。
「ねー、あと一本だけだからー。」
「ダメ。だいたい、酒代大丈夫なの?今月やばいんじゃなかった?」
「…う。」
「ほら。だからこのグラスで最後にしときなさい。」
「はーい。」
 レイの説得で、泥酔しているヴィルもようやくこの終わりを認識するようになった。ただし残りの酒をことさらちびりちびりと舐めるようにして飲み始めたが。
 更にそのまま机に突っ伏すようにして愚痴り出す。
「ちぇ。ひどいの。酒ぐらい思う存分飲ませてくれてもいいじゃない。」
「あのねぇ。」
「レイの意地悪。けち。」
「後で困るのはあんたでしょ。」
「ふーんだ。もうレイは敵だもん。―でもリィナは味方だよね。」
「…え?」
 唐突な言葉に、戸惑うリィナ。
 その様子にヴィルは不満そうに口を尖らせた。
「何さ。まさかあんたまで私を見捨てるっていうの?ひどいわっ!」
「いえ私はせんぱいの味方ですよ?」
 悲劇のヒロインか何かの真似をし出したヴィルに対して慌ててリィナが答える。ただしその答えは半疑問形だったがすっかり酔っ払っている彼女がそれに気づくわけもなく、ヴィルは満足そうににやりと笑った。
「ああよかった。よし、お姉さんは君の恋路を応援してやるからなー!」
「―あの?」
 不穏な発言にリィナの顔が強張る。同時にサークもまたその空気を感じ取ったが、止めようとするよりも先にヴィルが口走っていた。
「それでは邪魔な年寄りは失礼して後は若いモンが二人っき」
「やっだーせんぱいったらー!」
 その瞬間、リィナの平手は的確にヴィルの側頭部にヒットした。
 大きく、しかし何故かゆっくりと仰け反るヴィル。
「帰りたいのなら無理しなくとも帰ってくれて構わないぞ、一人で。」
 そしてすかさずサークも言い放った。
 一呼吸の間空気が止まる。
 それから、ヴィルは斜めに傾いた首を戻すと再びこう言った。
「何を照れてるんだよー。だから協力しようとしただけじゃん、この機会を逃したら次はいつになるか分からない…」
「ヴィル。」
 その時サークの鋭い言葉が飛んだ。
 ヴィルが、身を強張らせる。話しかけた姿勢のまま硬直し―だが表情だけは保ちきれずに。
 それを見たにもかかわらず、サークは言葉を続けた。
「いい加減にしろ。…もう、やめておけ。」
 それは短い一言に過ぎなかったが、氷の欠片のように鋭くまた冷たい響きを宿していた。

「―あー、それじゃ、あたしそろそろ帰ろうかな!」
 生まれた沈黙をすぐに破ったのは、ヴィルの明るい言葉だった。
 これまで同様、いやそれ以上に陽気な響きをもって言い放つ。
「結構飲んだしもういいや。お金ここ置いとくね。」
 突然の言葉に戸惑う周囲をよそに、誰とも目を合わせないようにして立ち上がり、財布を取り出した。
「あの、せんぱい…。」
「あたし夜は弱いんだよ。このままだとここで寝ちゃいそうだから今のうちに帰っとくわ。金額、これで足りると思うけど足りなかったら後で請求して。お釣りはサービス。」
 早口で、誰も口を挟めないように一気にまくし立てる。そしておもむろに隣に声をかけた。
「あ、レイも帰った方がよくない?明日仕事あるんでしょ。」
「え?」
 戸惑う彼女に対して手を合わせて頼み込む。
「一人で帰るのはさすがに危ないしさ。付き合ってよ、ね?」
「ええと…ちょっと、」
「何よー、それともあたしに一人で夜道を歩けって言うの?うわーひどい、レイってそういう子だったんだー。」
「そうじゃなくてっ!―ああもう分かったよ、じゃあ一緒に帰ろう!」
「うわーいありがと、さすがレイだ!」
 喜びの笑顔を浮かべると、ヴィルは次の瞬間素早く荷物を手にした。
「じゃ、あたし外で待ってるから。先に出てるね。」
「―せんぱいっ!」
 その背にリィナが腰を浮かして呼びかける。
「ああごめんね、変なところで帰るなんて言って場を崩しちゃって。あとはごゆっくり。―じゃあね。」
 だがヴィルは、振り返ることなくそう言うと肩越しに手を振った。
 そしてすぐさま席を離れた。
 明るい声のままで。―だけど、最後の語尾だけは少し震えていた。


 そして、そこには三人と冷めた空気だけが残された。
「…せんぱい。」
 席から立ち上がった状態のまま、リィナは呟いた。
 次の瞬間その手も引いて静かに腰を下ろす。
 それから少し沈黙した後、顔を上げた。
「サーク先輩…。」
「…。」
 サークは何も答えなかった。無言で視線を自分の手元に向けたままだ。
 その様子にリィナもそれきり口をつぐんだ。…気圧されたかのように。
 周囲の喧騒が再び耳に響いてくる。
 沈黙が生じた中、それに逆らう次の声が放たれた。
「サーク。ヴィルって確か二年前の…」
「昔の話だ。」
 言葉はブラッドからサークに向けてのものだった。しかしサークはそれをも途中で遮った。それも、ただ一言だけで。
 だがブラッドはそれにもひるまなかった。
「まあ気持ちは分からんでもないがな。そう責めることもないんじゃないのか?」
「……。」
「黙秘権は認めてやらんぜ。それとも、答えられないってのか?」
 逃げを封じるかのようなブラッドの強い言葉。その紅の瞳も真っ直ぐにサークに向けられている。
 沈黙の後、サークは視線は落としたまま静かに答えた。
「…同じようなことを繰り返すのが、許せなかっただけだ。」
 その言葉を聞いたリィナが弾かれたかのように顔を上げた。しかしそこで見たサークの表情は、先ほどまでと何一つ変わらなく冷淡なままだった。
 ぎしり、と木の軋む音が響く。
 椅子にもたれ直したブラッドは頭を振った。
「許せなかった、か。―まあいい。どうせオレが首をつっこんでも何もできそうにないしな。余計なことはもうしないでおくよ。」
 そして両手をお手上げの形に小さく挙げると、そのまま置かれたメニューに手を伸ばした。
 無造作に取り上げて眺める。
「…何か頼むか。何がいい、リィナ?」
「―え?」
 突然ブラッドに呼ばれて、リィナは一瞬答えられなかった。そもそも最初は自分に向けての言葉だとは思わなかったからだ。
「グラスが空だろう、次のものを頼まなくていいのか?」
「ええと、でも…。」
 口ごもるリィナ。明らかな迷いのそぶりを見せている。
 それを見たブラッドは、かすかに微笑むとあやすかのような優しさを少しだけ乗せた声でリィナに言った。
「とりあえずしばらくは店にいた方がいいだろう。だったら、何か頼まないとな。」
「あ…。」
 一言だったが、その意味するものを理解してリィナは顔を上げた。
 ブラッドを見つめる。気づいた彼は、いつもの自信に満ちた笑顔を見せた。
「何がいい。お薦めはこれかな。」
「―そうですね。じゃあそれと、ついでにこの料理も肴に…。」
 リィナもようやく笑顔を返す。そして二人は揃ってまたメニューを覗き込んだ。
 ほっとしたような空気がゆっくりと流れ出す。
 だが、サークだけは無言のまま相変わらず手元を見つめていた。
 ―袖口から、組み紐の端を覗かせて。


 小さな足音はせわしなかった。
 それを追うようにして、もう一つ。
 二つの人影が深夜の人通りの少ない通りを歩いている。
 大きな月のおかげで、彼女らは灯りを用意することもなく真っ直ぐに歩けていた。
「―ヴィル、待ってよ!」
 その二人のうち後ろにいて前を行く相手に声をかけたのは、レイだった。
 歩いていたもう一つの人影が、静止する。
 レイは急いで駆け寄るとその正面に回りこんだ。
「ちょっとヴィル―。」
 続けて声をかけようとしたレイだったが、その先の言葉が出なかった。
 見上げた先には彼女より背の高いヴィルの顔がある。
 その表情は、あまりにも静かなものだった。
 一見穏やかにも見える顔…しかし、彼女と長い付き合いのあるレイにはそれが単に穏やかなものでないことが分かった。
 そこにあるのは諦め。無力感と共に、何かを諦めた者の顔だった。
「…どうしたのよ、レイってば。」
 ヴィルは、自分の腕を掴んだレイを見て苦笑した。その声音は普段と大差ない。多少落ち着いている程度の違いしかなかった。
 たったの、それだけ。
 レイはしばらくその顔をじっと見つめていたが、ついに耐えかねたかのようにうつむいた。
 困ったようにそれを見下ろすヴィル。しかし、少しして自分の腕を掴む手が震えていることに気づいた。
「…レイ。」
「おかしいよ…こんなのおかしいよ!」
 ヴィルが名を呼んだ瞬間、レイが顔を上げた。
 その目は潤んでいた。
「何でサークはあんなこと言うわけ!いくら何でも、あんな言い方ってないじゃない!」
「落ち着いて、レイ。」
「どうしてよ!ひどいよ、こんなのってない!」
 叫ぶように吐き出される言葉。そして我慢できないかのように激しく首を横に振る。
 それから、言葉さえも出なくなったかのように嗚咽が聞こえた。時折しゃくり上げながらうつむいた姿勢のままで泣き続ける。
 その全てをヴィルはそれ以上何も言わずただ静かに見つめていた。
 無言のまま、立ち尽くしたまま。だがその瞳にだけは、レイの涙よりもなお深い哀しみを宿して。
 ―やがて、気持ちが収まったのかレイの声がやんだ。
 それまで待っていたヴィルは自分の腕を握りしめていたその両手をそっと外した。
「…とりあえず、帰ろう。」
 叫んだ言葉については何一つ触れず、ただそれだけを言う。
 再び顔を上げたレイは一瞬呆けたような表情を浮かべた後、苦笑した。
「…そうだね。」

 二つの足音は小さく重なる。
 街の喧騒もあるはずだけど、今夜は少し遠く聞こえる気がする。
「覚えてる?」
 静けさの中で最初に口を開いたのは、ヴィルだった。
「何?」
「…二年前のこと。」
 言葉の後、少し間があった。
「ああ、あの夜…か。」
「そう。あの時も、こんなんじゃなかった?」
「そうかな?」
「そうだよ。」
 足音は一定のリズムで繰り返される。
「―あたしがバカやって。それでサークにこっぴどく怒られて。それを全部話したよね。」
「そうだったね。夜遅くだってのに急に呼び出してくるから、何かと思った。」
 その足音が一つ、遅れる。
「…悪かったってば。」
「別に怒ってないって。」
「…まあそれはともかくとして。」
「うん。」
「それで話してたら、レイってば。」
 クスリ、と小さく微笑する声。
「―泣き出すんだもん。」
「うるさいわね。」
 地面を蹴る音。
「ホント、泣きたいのはこっちだったはずなのに。レイの方が泣き出すから逆に落ち着いてきちゃって。」
「仕方ないでしょ。あの時は…さんざん話を聞いてたから。」
「うん。…おかげで、助かった。」
 見上げた空で、星が滲む。
「そうならいいんだけど。」
「そうだよ。」
 再び、視線を前へ。
「―でも、また同じものを見る羽目になるとは思わなかったけどね。」
「それは私だって。」
「泣き虫。」
「うるさい。」
 ぶつかるような音。そして乱れる足音。
「悪かったってば。」
「…。」
 再び、リズムが戻る。
「…あの子、セインだったかな。悪いことしちゃったかもしれない。」
「そんなことはないよ。」
「…ホント?」
「多分ね。…大丈夫だと、思う。」
 よぎるのは過去の記憶。
「…じゃあリィナも大丈夫かな。」
「…それはよく知らないけれど、まあ大丈夫じゃないかな。」
「根拠は?」
「だから知らないってば。」
 そして今の記憶。
「…そっか。」
「でも、まだ今なら間に合うから。」
「そうかな?」
「そうだって。」
 小さな微笑が、聞こえる。
「…でもさ。」
「何。」
「どうして泣いたの?」
「え?」
「あの時も思ったんだけどね。別にあたしのことなのに、何でレイが泣き出したりするのかって。」
 視線を動かす。
「…何でだろうね。」
「聞き返してどうするのよ。あたしは分からないから聞いてるのに。」
「私だって、分からないよ。」
「自分のことなのに?」
「自分のことでも。…そうじゃない?」
 考える間。
「…そう、だね。」
「でしょ。」
 小さな吐息。
「―ただね。」
「ん?」
「どうしてかな。…何故か、勝手に涙が出てきたんだ。」
「勝手に?」
「悲しかったんだとは思うけど…それだけじゃなかった。」
「じゃあ他には何?」
「…そこまでは分からない。」
「全然答えになってないよ、それ。」
「うるさいなあ。」
 二人分の笑い声。
「…でも。」
「でも?」
 再び、静かになる。
「ありがとね、レイ。」
 夜の空が余計な音を吸い込んで。
「…私は何もしてないよ。」
「…そうかもしれないけど。でも…。」
 正面を見つめる。
「―やっぱりありがと。」
 光が、視界に広がる。
「…うん。」
 帰りついたそこは夜なお明るい場所。
 住み慣れた神殿―我が巣立ちの場所、遊び騒いだ箱。
 ヴィルは、片手で目を拭うと真っ直ぐに歩き出した。


「あー、よく飲んだ飲んだっ。」
 そう呟き、ブラッドは大きく背を反らした。
 神殿内…正確には神官の宿舎内の一室。一通り時間を潰してようやく彼らも神殿へと戻ってきた。
 開け放たれた窓からは今日もよく月が見えている。
 ブラッドは十分背を伸ばすとわざと音を立てるようにしてベッドに座り込んだ。柔らかい音と共にシーツが揺れる。
 それから、視線を向けた。
「…まーだ引きずってんのか。」
 サークは無言のまま椅子に座っていた。
 あの後、ヴィルとレイが出ていった後。主にブラッドの努力にもかかわらず、サークは必要最低限の会話以外では沈黙を保っていた。それは宿舎に戻ってリィナと別れてからもなお変わらない。
 サークは今も無言のまま、窓の外を見つめていた。
「やれやれ。」
 ブラッドはやおら立ち上がると、足音を隠そうともせずサークの元に近づいた。
 聞こえていないはずもないだろうがサークは振り向こうとしない。
 その様を見つめてため息を一つつくと、ブラッドはおもむろにサークの右腕を掴んだ。
「―何をっ。」
 驚きと戸惑いの入り混じった顔でサークが振り返る。だが、ブラッドはその目を見つめ返してきっぱりと告げた。
「昔の話と言ったのはお前だろう?そっちこそ、いいかげんにしてやったらどうだ。」
「―。」
 サークは答えようと口を開きかけたが、急に思い直したかのようにその口は閉ざされた。
 そして視線をブラッドの顔から逸らす。その先にあるのは、掴まれたままの右腕―組み紐のある場所だ。
 しばらくその状態のまま微動だにせずサークは沈黙を保っていたが、突然、その腕の力を抜くと静かに言った。
「―そうだな。」
 左手で自分を掴んでいるブラッドの腕に軽く触れる。
 ブラッドは素直にその手を離した。
「だいたい、お前は気にしすぎなんだよ。」
 またベッドまで戻り、勢いよく腰を下ろす。
「あの子…ヴィルだって分かってるんじゃないのか?」
「何をだ?」
 サークが顔を上げた。静かなその表情にはわずかに疑問と意外さが混じっている。
 ブラッドはベッドについていた手を上げて答えた。
「お前がそう苛立ってるってことをな。」
「…どうだか。」
 指差されたサークは再びため息をついて視線を戻した。
「そう思うんなら、きっぱり言ってやった方がいいんじゃないかと思うがね。」
「何度も言わなきゃ分からないような奴には言っても無駄だ。」
「だったら今日のも流してやればいいだろうに。」
「…。」
 窓の外の闇を眺める横顔に向かって、ブラッドは語る。
「まあ、相変わらず、と言えばそうなんだけどな。」
「成長がないんだろう。」
「手厳しいな。」
「事実を述べただけだ。…それがよいか悪いかはまた別問題だ。」
「―なぜならオレには関係ないことだから、だろ?」
 すかさず放たれたブラッドの一言に、淡々と呟いていたサークの表情がかすかに変わった。見せないよう、目立たないように隠してはいるがその内の動揺を抑え切れてはいない。
 顔の方向は変えずに目線だけをゆっくりと向けたサークが見つめる前で、ブラッドはにやりと笑って言った。
「意地っ張りだねえ。もう少し肩の力を抜けば楽に生きられるのにな。」
 サークはこれまで同様静かに答えた。
「これが性分でな。」
「損な性格だな。…近寄ってくる女の子には優しくしてやらなきゃダメだぜ。」
「よく言う。」
 そう答えると、サークもまた立ち上がった。
 面白そうな顔でそれを眺めるブラッドには全く構わずに歩き出し、床の片隅にまとめられた彼の荷物の一つを手に取る。
 それは厚手の背負い袋だ。つい昼間にも背負っていた荷袋をブラッドの目の前に突きつけて、サークは言った。
「そんなことより。お前がわざわざここに来た本当の理由は、一体何だったんだ?」
 そのサークの鋭い目線にさらされながらも、ブラッドは不敵な笑いを浮かべたままだった。

 ―昨夜の酒盛り。
 サークは、ブラッドにこの帰省の理由を問いかけた。
 あまりにも唐突だった。月に一度来るか来ないかの短い手紙が最後に届いたのは三週間ほど前。そこには帰省のことなど一言も記されてはいなかった。
 聖都リーヴェランスは遠い。馬車などを乗り継いできても、このガーテの街に来るのに二週間以上はかかるだろうというのに。
 手紙にも記さず、突然やってきたのは何のためなのか。
 そのサークの問いかけに対してブラッドはこう答えた。
「ちょっとした仕事さ。…調べ物をすることになってね。」
 それが聖騎士団での任務であり、また地元だから自分がここガーテに来ることになったということ以外には、サークがどれほど尋ねようと他に何も語ろうとはしなかった。
 ただいつもの笑みを崩さないままで。

 今もなお、ブラッドは同じ笑みを見せていた。
「本当の理由って、何だ?」
 逆に問い返す。
 サークはそんなブラッドをじっと見つめた後、無言でブラッドの荷袋に手をつっこんだ。
 ブラッドの目に一瞬鋭い光が宿る。
 しかし、サークがそこからあるものを取り出して見せた時には元の表情に戻っていた。
「わざわざ封印の箱まで持参して来るとはな。」
 サークの手にあるのは、一つの箱だった。飾りのない鉄の箱。だがよく見るとその表面には細かな文様がびっしりと刻み込まれている。
 ブラッドは笑いながら言った。
「人の荷物を漁るとはひどい男だな。」
「お前が置いていった荷物を片づけてたら見つかったんだ。文句は荷物を散らかしてかつ袋の口もしっかりと閉じなかったお前自身に言え。」
 サークは真面目な表情のままきっぱりと言い放つ。ブラッドは手で顔を覆うようにして笑った。
 声に合わせて肩が大きく揺れる。
「なるほど…確かに自業自得か。」
 しかし、再び上げた顔からは笑みが消えていた。
 サークは静かにまた問いかける。
「教える気はあるのか?」
「聞いておいてよく言うな。」
「任務なら守秘義務もあるだろう。昨日の時点では語らなかったぐらいだしな。」
「よく分かってるじゃないか。」
 そこまでブラッドが言ったところでサークは荷袋と箱を彼に向かって放り投げた。
 抱えるようにして受け止めた相手を見下ろしながら、ただ静かに一言問う。
「話せるのか?」
 その言葉にはブラッドは再び笑みを見せることで答えた。
「―守秘義務の適用範囲は個人に委ねられている。」
「ほう。」
「だが、知られなければ存在しないのと同じことじゃないか?」
 唇の端を歪めた笑み。返された質問に、最初に問うたサーク自身がため息と共に感想を述べた。
「光の教えに忠実たるべき聖騎士の言葉とは思えないな。」
「処世術さ。奇麗事ばかりじゃ、できないこともあるんでね。」
 言葉とは裏腹に、そう答えるブラッドの顔には嫌悪の情らしきものは一切なくただ面白そうな笑みを浮かべているばかりだ。
「なるほど。…つまりは、話す気があるということだな。」
「さすがにこんな時間に部屋を追い出されたら寝る場所を探すのも一苦労だからな。」
「よく分かっているじゃないか。」
 何のためらいもなく真顔のままでサークも答える。
 ブラッドはやれやれと笑うと、片手で持ったままだった箱を袋に放り込んだ。
 短い沈黙の間が空く。
 そして、ブラッドは再び顔を上げた。唇には笑みを乗せて、だがその瞳には鋭い光をたたえて。
「ちょっとした探し物だったのさ。―とある危険な魔道具(マジックアイテム)の行方を追いかけていたんだ。」


 薄明かりが照らす灰色の部屋。
 湿った石壁に覆われた部屋はその一面を鉄格子で塞がれている。
 物音はない。耳を澄ましても辛うじて聞こえるのはかすかな呼吸音や時折訪れる足音ぐらいだ。
 詰所の地下牢。その一室で、ベッドの上に横たわる一人の男がいた。
「―くそっ!」
 呟きに答えはない。独り言は冷たい壁に吸い込まれて消えた。
 男は寝返りをうって横を向くと、苛立たしげに壁を拳で殴りつけた。
「何で、オレが犯人扱いされなきゃいけねえんだ…!」
 ビライン・アファイルはそう毒づいたが、それを聞く者はこの場に誰一人としていなかった。

 重要参考人として詰所まで連行された彼だったが、その扱いは実質的には犯人と変わらないであろうものだった。
 …無理もない。連続殺人事件の調査の中でようやく見つかった、唯一ともいえる手がかりだった。
 被害者の女性三人と同時に交際をしていた男性。その意図はどうあれ、状況的には犯人である可能性が最も高い人物。
 彼は取り調べの間中否定し続けたが、自警団は彼が犯人であるという疑いを確信と等しいほどの強さで持っていた。

 そうした状況での取調べを一日受けて、深夜になってようやく案内されたのがこの地下牢だった。
 抵抗などできるわけがなかった。過酷な取調べで疲れきったビラインは、引きずられるようにしてこの牢へと入った。
 何もない部屋。簡素なベッドと備え付けの便器がある以外には何もない。床に座る気もせずに仕方なくそのベッドに横になり…そして今に至る。
「何でなんだよ、畜生…。」
 淀んだ空気と重々しいまでの静寂に包まれた部屋の中で、彼はただ一人誰に向けてでもない言葉を繰り返していた。
 状況に困惑し、自分の不幸を呪い、自警団を憎む言葉ばかりを。
 それでも長く呟いているうちに、言葉は徐々になくなっていった。疲れと空しさがその心を覆っていく。
 やがて沈黙が訪れた。
 呆然と闇に包まれた天井を見上げて横たわるビライン。
 自分の鼓動さえも聞こえてくるほどの暗い静寂。
 ―その鼓動に重なるようにして、もう一つの音がいつしか聞こえてきていた。
 ビラインは一瞬驚き、虚空を睨んで耳を澄ませた。
 だが次の瞬間その表情は力のないものに戻った。
 聞き慣れた音だった。これは巡回する自警団員の足音だ。
 徐々に近づき大きくなってくる足音に、あきらめと重苦しい苛立ちが募る。
 ―カツリ。
 石の床は足音を高く響かせる。耳障りなほどに高らかに。
 ―カツリ。
 ほら、単調な音が段々と強まってくる。
 ―カツリ、カツリ。
 早く消えてくれ。出ていってくれ。
 ―カツリ。
 早く…!
 ―。

 不意に、高まった音がその頂点で止まった。
 不自然なまでの静寂が突然に訪れる。
 ビラインは思わぬ状況に鉄格子の向こうへと顔を向けた。
 そこには、ひどく小さな影があった。
「…ビライン。」

 自分の名を呼ぶ聞き覚えのある声に、ビラインは飛び起きて駆け寄った。
 鉄格子を掴んで身を乗り出す。
「―エネヴィ、どうしてお前がここに!」
 驚愕の声が上がった。
 ビラインが驚きに見開いた目を向けた先―そこに立っていたのは、一人の女性だった。
「…あなたを探して、来たの。」
 エネヴィと呼ばれた女性は、ただ一言、静かにそう答えた。
 ビラインは驚きの表情を浮かべてそれを見つめていたが、急に我に返ると女性に対してこう言い放った。
「ああそうか。それよりも、なあ、ここから出させてくれよ!」
「…え?」
 女性は一言そう聞き返した。
 だがビラインはそのかすかに間延びしたような言葉に苛立ち、乱暴な口調で続けただけだった。
「だから見りゃ分かるだろ!例の連続殺人事件の犯人扱いされてこんなとこに入れられたんだ!証言してくれよ!」
「証言…。」
 女性は短く答える。しかしその様子にビラインは更に苛立ちを増したようだった。
「馬鹿かお前は!オレとずっと一緒にいたから殺しなんかしていないって嘘をつけばいいじゃねえか。あの女たちとは会ってもいないって。」
「女たち…。」
 罵りの言葉を叫びつつ命令するように言うビライン。一方の女性は、ただ静かにごく短い相槌を打つだけだ。
「ここまで来れたってことはどうせ自警団の奴に適当に金でも掴ませたんだろ?だったら後はそいつに証言すればいいじゃねえか。」
「自警団…。」
 だが、苛立ち口汚く喋り続けているビラインは気づかなかった。
 女性の言葉に全く抑揚がないことに。
「ほら、何やってるんだよ!こんな所でもたもたしてねえでさっさと行けよこのグズが!とっとと何とかしろよ!」
「…。」
「どうしたんだよ、今言っただろ!さっさと自警団の奴の所に行って何とかしろよ!」
「…。」
「おい早くしろっ!」
 そこまで言って、ふとビラインは気づいた。
 何故、エネヴィは一人でここにいるのだろうか。普通なら付き添いの団員がいるだろうに。…いやそれは金を掴ませてどうにかしたのかもしれない。
 では手に抱えているものは何だろうか。鞄ではない。両手で抱えているがあまり大きくもなさそうだ。だが弱いランプの光が逆光になっているためによく見えない。
 それともう一つ。ここに近寄った時からかすかに感じた、この生臭いような匂いは…。
「ビライン。」
 その時もう一度同じ声が聞こえた。
「何だよ、もたもたしてねえで早くしろよ。」
 ちっともこの場から動こうとしないエネヴィに対して、ビラインは苛立ちを超えて半ば怒りすら覚えつつも答えた。
 短い沈黙の後、彼女は一言尋ねた。
「…あの女の人たちって、何なの?」
「ああ?」
 今までの自分の話を全く理解していないかのような言葉に、ビラインは一瞬絶句した後もう怒りを隠そうともせずに言った。
「―そんなのお前には関係ないだろう!いいからさっさとオレを出しに行けよ!この馬鹿が!」
「そう…。」
 女性は静かにそう言った。だが、その場から歩き出そうとはしなかった。
 ビラインが眉をひそめる。
 立ち尽くしたままの女性はただ静かに、片手を動かした。
 その動きにランプの光がかすかに届く。
 ―不意に光を反射したのは何だろうか。濡れたような艶めいた輝き。
 反対の手が支えている物がおぼろげに見える。同じく濡れたような艶を宿した、この丸いシルエットは何だろうか。
 これは…。

 ―かぱり、と蓋の開く軽い音がした。


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