「Romping Birdhouse(4)」
いづみ


 第四章  ― Sorry, … and thank you.


 目を開くと、見覚えのある天井が見えた。
「―?」
 瞬きを一つ。そして理解する。ここは確か神殿内の施療院だったはずだ。
 そのことに気づいて体を起こすと、自分がベッドに寝かされていることも分かった。
 それから何故か自分の足元の辺りでベッドに突っ伏しているヴィルの姿も。
「…せんぱい?」
 リィナが声をかけると、穏やかな寝息が聞こえた。…熟睡しているようだ。
 眠っているヴィルを起こさないように気を使いつつリィナは辺りをそっと見回した。
 間違いなくここは施療院だ。それも大部屋ではなく重病人などが使うような個室である。以前に何度か友人のお見舞いに来たからすぐに分かった。
 そこまで考えてようやく自分がここにいる理由も思い出した。
 同時に、思い出したことではっきりと感じた腹部の鈍い痛みに顔をしかめる。
「うっ…。」
 それでも当てた手には確かな自分の肉体の感触があった。
 あの時―森の奥、事件の真犯人である女性に従いつつ実質彼女を操っていた魔人との戦いの最中。
 暴走した魔人の刃から目の前のブラッドを守ろうとして、自分はほとんど何も考えずに突っ込んでいた。
 ただ彼を守りたくて。
 しかし、気づいたときにはその刃は自分の体に突き刺さっていた。
 目も眩むような激痛。
 …それから後の記憶はない。気がつけば、ここに寝ていた。
 果たしてあの戦いはどう終わったのか。
 リィナは目の前で寝こけているヴィルを見つめた。
 その表情は無防備なほどに穏やかだ。あちこちには傷を治療したのかテープやガーゼが張られているものの、それほどひどい怪我は見当たらない。更によく見るといつもの白衣の下の服が変わっていた。着替えたのだろう。
 つまり、治療をして服を着替えるだけの時間があったことになる。
 窓の外を見ると明るい空が見えた。差し込んでくる光はやや淡く、映し出される影は長い。だが方角が分からないので正確な時間は推測できそうになかった。
 あれから何日経ったのか。
 それにここにいないサークやレイ…そして、ブラッドはどうなったのだろうか。
 リィナはもう一度お腹に手を当てると深く呼吸をした。
 こちらも着替えさせられたらしい入院服の隙間から覗くと、お腹には包帯はなかった。もう基本的な治療は済んだらしい。
 ただ、中央にうっすらと広い傷跡があった。さすがに魔法を使っても完全な治癒はできなかったらしい。まあ腹部を貫かれるような大怪我をしたのなら当然だろう。今のところ内臓に関係するような気持ち悪さを感じないだけめっけものである。
 リィナは足元を見渡した。
 スリッパがすぐ脇に並んで置かれている。その隣で相変わらずヴィルは寝こけている。
 その姿に小さく笑うと、リィナは静かに体を覆うシーツをはがした。
「…ありがとうございます。」
 恐らくは自分の看病に来て、しかし戦いと怪我などでの疲労に負けてこんなところで眠ってしまったのだろう。
 そんなヴィルの姿に感謝と微笑を捧げて、リィナは外に出ようとした。
 その時ノックの音がした。
「…はい?」
 なるべくヴィルを起こさないよう小声で答え、ゆっくりと扉の前まで歩く。
「今、開けます。」
 一声かけてそっと開けると、そこにはびっくりした顔のレイが立っていた。

「目が覚めたんだ!…でもまだ寝てた方がいいよ。」
 レイによって慌ててまた寝させられたリィナは、素直にベッドに横たわりながら彼女に今の状況を尋ねた。
「あの、あれからいったい何があったんですか?」
「うん。それは説明するよ。…でもその前にこれを何とかしないと。」
 しかしレイは苦笑しつつ目の前のヴィルを指差した。
 彼女は相変わらず寝息を立てて突っ伏している。
 その肩に手をかけたのを見て、リィナは慌てて言った。
「いいですよ、そのままで。」
「え?でも邪魔でしょ。寝るんだったら自分の部屋に帰ってもらわなくちゃ。」
「平気ですよ。それに、せっかく気持ちよさそうに寝てるんですから無理に起こしてもかわいそうですし…。」
「そう?まあ、それならいいんだけど。」
 レイは首を捻りながらも、持参したポットから紅茶らしきものをカップに注いだ。
 薄い湯気と共に香りが漂う。
「飲む?多分これくらいなら問題ないはずだから。」
「いただきます。」
 差し出されたカップを受け取り口に運ぶ。
 思っていたよりもぬるかった紅茶は飲みやすかった。喉を通って、胃の方へと流れ落ちていくのがかすかに分かる。
「ぬるめですね。」
「熱いのはまだ体が受け付けないかもしれないからね。あらかじめ、ある程度冷ましておいたの。」
「おかわり頂けます?」
「どうぞ。」
 今までは意識しなかったが喉が渇いていたらしい。一杯目の紅茶を二息で飲み干したリィナは二杯目を受け取った。
 軽く飲んだところで、息を吐く。
 正面では自分の分も入れたレイが同じくカップを口に運んでいた。
「ところで、先輩。」
「何?」
 レイから聞き返される。
 その何気ない一言でふと気づいた。ヴィルを挟んでの形では時たまレイと会うことはあっても、こうやって直接二人で話すことはあまりなかった気がする。考えてみれば共通の知人であるヴィルまたはサークを介してしかお互いに接触することはなかったのだ。
 そんな相手と一対一でこうやって話すことに多少の戸惑いを感じながらも、リィナは言葉を続けた。
「ええと…あの、結局あの後どうなったのかを教えてほしいんですが。」
「そうだね。さっき起きたところみたいだし…一応説明するよ。」
 答えて、レイはあの後の状況を話し始めた。

 リィナが闇の刃に貫かれた後。
 ブラッドが女性から壷を奪取し、魔人をその内側に封じ込めた。
 そこまではよかった。
 倒れたリィナを助けにヴィルが魔法を全力で使って気を失い、その後の治療を引き継いで済ませたレイが気づいた時にはもうブラッドは壷と共に姿を消していた。
 黙って見逃したらしいサークいわく、彼は聖騎士の仕事を果たしたのであり壷は大神殿に再び戻されることになるらしい。
 そしてサークが放っていた合図でようやくやってきた自警団に女性の身柄は引き渡された。
 気絶していたヴィルは叩き起こして、サークと一緒にリィナを託した。そしてレイ自身は自警団と共に報告を済ませに行き、それからやっと神殿に戻ってきた。
 帰ってきた時点ではまだヴィルが起きていてここでリィナの面倒を見ていたので、レイはとりあえずこまごました片づけを済ませてからここに来ることにした。
 それで、こうやってやってくるとヴィルは寝こけていてリィナが目を覚ましていたという。

 一通りの説明を先に聞き終えたところでリィナは質問することにした。
「幾つか聞きたいことがあるんですけど、いいですか?」
「どうぞ。答えられる限りは答えるよ。」
 素直な微笑をしてレイも答える。
 リィナは今聞かされた話を考えながら順に尋ねた。
「えっと、まず最初は…ヴィルせんぱいが私の治療をしてくれたんですか?」
「まあそうなるかな。ほとんどコレが傷を治したから。」
 そう言ってレイは相変わらず寝こけているヴィルをつつく。
 かすかな違和感の残る腹部を無意識のうちに押さえつつリィナは続けた。
「ほとんど?」
「うん。…治しに行ったはいいけどこの子治療系の魔法はちょっと苦手らしくてね。怪我を治している最中に力尽きて気絶したのよ。」
「…はい。」
 魔力は無限ではない。使い果たすとまではいかなくてもある程度の限界を超えると自分の体を守るためかそれ以上の魔法を使わないよう基本的には意識を失ってしまう、ということは修道院でも習った。
 神妙そうな顔でうなづくリィナにレイは笑って言った。
「仕方ないから気づいた私が慌ててその後の治療をしたんだけど…体の方は問題ない?」
「あ、大丈夫です。」
「そう、よかった。でもまだ二日ぐらいは養生のためにも休んでいた方がいいと思うよ。」
 魔法で傷は治せても、その分消耗した体力を回復するには十分な休養を取る必要がある。
 リィナは自分のために気絶するまで魔法を使ってくれたヴィルを見つめた。今は静かに寝ているが…こうやって寝ているのも魔力の消耗のせいなのだろう。
 そうやって見つめているリィナの姿に気づきレイもその目をヴィルに向ける。
「でも、ヴィルは頑張ったと思うよ。」
「…はい。」
「気絶するまで魔法を使い、それでこっちに戻っても『あたしよりリィナの方が傷が深いんだから、きちんと世話してやらないと。』と言い張って甲斐甲斐しく世話をしてくれていたみたいだったから。」
「そうだったんですか。」
「さすがにサークに着替えとかさせるわけにもいかなかったからね。でもそれこそ後はここの院の人に任せて自分も休めばいいのに…何やってんだか。」
 そう言って笑うレイの眼差しは、からかうような言葉とは逆にひどく優しいものだった。リィナも感謝の意をこめて軽く頭を下げる。
 そしてその頭を起こして、次の疑問を尋ねた。
「ブラッド先輩が姿を消したとは?」
 何気なく問いかけた、だけど何よりも気になっていた疑問。
 するとその言葉を聞いたレイは複雑な表情を見せた。
「…言葉の通り。あの場ですぐにいなくなってた。」
「今はどこに…?」
「さあ。サークはさっき会った時には『もう帰った』とか言ってたし。どこまでホントか分からないけど。」
 首を振るレイから放たれた思わぬ言葉にリィナが目を丸くする。
 ブラッドは、もう帰ってしまったのか?
 しかしサークの言葉に偽りがないことはリィナ自身がよく分かっていた。
「…でもあの人、明らかな嘘はつかない人ですよ。」
 答えたリィナに対してレイが首を傾げる。
「そうかな。」
「はい。…じゃあ、もう帰ったんだ…。」
 視線を落として呟くリィナ。
 しかしレイはリィナのその姿には気づかず、自分の言葉を続けた。
「帰ったのはいいにしても、よりにもよってあの壷を持っていくことはないと思うけど。」
 珍しく苛立ちを見せての言葉にリィナも不安を覚える。
「そういえば…そうですね。」
「自警団の人がやってきた時にはサークが言ったのよ。事件はこの女性が魔物の力を使って行ったものであり、その魔物は自分たちで封じたってね。…確かにそれは嘘ではないけど。」
「…。」
「口裏を合わせたんだから、サークに聞けば詳しいことも分かると思う。私はすぐに自警団の方に行ったし、さっきは廊下でちょっと立ち話しただけだったから。」
「そう…ですか。」
 リィナはため息をついた。
 その姿勢のまま小さな呟きが洩れる。
「…そうか、帰っちゃったんだ。」
 先ほどの説明で聞かされた、思わぬ事実。
 そのことがようやく実感として自分の中に染み入ってくる。
 リィナは静かに手元を見つめていた。―今はまだ、ここではまだ何も見せるわけにはいかないから。
「ええ。まったく、せめて最後に一声ぐらいかけていけばいいのに…だいたい自分を庇って大怪我した子の見舞いにも来ないなんてどういう神経してるんだか。」
「…そうですねえ。」
 そういえばそうだった。レイの話によるならば、ブラッドはあの森で壷を回収してから姿を消してしまったことになる。そしてサークの言い分を信じるならそのまますぐに帰ってしまったことになってしまう。
 言葉には苦笑を返したものの、その事実にリィナは寂しさを感じた。
 悲しさよりも、寂しさを。
 結局ブラッドにとって自分はその程度の存在でしかなかったのだろう。サークの後輩の一人という。
「…どうしたの?」
 レイが尋ねてくる。
 リィナは慌てて首を振ると、切り替えた。
「いいえ。それよりも、聖騎士の仕事って?」
 その言葉にレイはブラッドに対する苛立ちを思い出したらしく、心配そうだった表情が消えた。
「ああ。それもサークの言い分。何でもブラッドがここに来たのは聖騎士としての任務を果たすためだったんだって。それが壷の回収でしょ。」
「そうですか…そういえば、『大神殿に再び戻す』とか言ってましたね。」
「うん。」
「じゃ、きっとあの壷はリーヴェランスの大神殿から流れた品じゃないんですか?それを回収すべく聖騎士のブラッド先輩がここに派遣されたっていう。」
 リィナの結論にレイが納得の表情を見せる。
「…そう考えると辻褄が合うね。まったく、大神殿つきの神官はもっとしっかりしてほしいわ!おかげでこっちが迷惑するんだから!」
「ええ…。」
 苛立つレイに小さくうなづきを返すリィナ。
 だが続く次の言葉にリィナははっとした。
「そのせいで、ここの人が何人も犠牲になったんだから!」
 ―彼女の怒りは自分たちが迷惑したからだというものではない。犠牲になった人々のことを思っての言葉だった。
 つい忘れそうになっていた大事なことを思い出させられて、リィナも深くうなづく。
「そう…だと思います。」
 レイが見せた義憤を感じリィナは深くうなづいた。
 ふぅ、とレイの息が吐かれたところで話題をまた切り替える。
「ところでサーク先輩は今どこに?」
「さあ。」
 即答が返ってきた。
 鼻白んだリィナにレイが慌てて説明を加える。
「私はあの後すぐに自警団に行ったから。で、ついさっき戻ってきた時に廊下で見かけてちょっと話したんだけれど、それからすぐにこっちに来たし。だから今はどこにいるのやら…部屋に帰ってるんじゃないかな。」
「そうですか。」
 つい体を起こすリィナ。それも慌ててレイは止めた。
「わざわざこっちから行くことなんかないって。とりあえず部屋と図書室と職場ぐらいは見てくるからここで待ってればいいよ。呼んでくるから。」
「ありがとうございます。」
「そんなこと言わなくてもいいよ。それに、捕まらないかもしれないし。」
「はい。」
 とりあえずこの話はここであきらめることにした。
 それから肝心な質問をまだしてなかったことにも気づき、リィナは尋ねた。
「ところで、今はいったい何時なんですか?」
 その言葉にレイは一瞬きょとんとした後、すぐに理解して答えた。
「そっか。今まで寝てたからね。…今は午後の四時半ぐらいかな。」
「あの、日付は…。」
「ごめん。エメラルドの十八日。まだあれから半日もたってないよ。」
 眠っていたのはわずか数時間のことだったらしい。
 …つまりブラッドはすぐさま姿を消してしまった、ということだ。日数が経ったわけではないからこれから姿を見せる可能性もゼロではないが…。
 リィナは小さく首を横に振った。
 儚すぎる期待にすがっても仕方ない。悲しさを覚えるだけだ。
 自分の想像を打ち切って目線を正面に戻した。話を切り替えなくちゃ、いけない。
 すると目の前でのんきに寝ているヴィルの姿が目に入った。
「…でも、ヴィルせんぱい、どうしてここにわざわざ来てるんでしょうね。」
 言葉はふと口をついて出た。
「さあ…さっき言った通り、あなたのことが心配だったからだと思うけれど。」
「でも私は眠っていたわけですし、することなんかなかったと思うんですが。」
 当然ともいえるリィナの言葉に、お互い顔を見合わせる。
「…起こして聞いてみようか?」
「いえいえいえ。」
 笑顔で言われたレイの言葉をリィナは丁重に断った。
 そこはかとなく残念そうな顔をしてレイが手を引く。
「この子が何考えてるかなんてよく分からないことが多いからねー。」
「…そうですねえ。」
「あ、でも。」
 ここでおもむろにレイは手を打った。
「そういえば、サークと帰る前に話してたわ。後は任せろとサークが言ったのに、リィナの面倒は自分が見るって言い張って。」
「そうだったんですか?」
 意外な事実にリィナが再度聞き返す。
「うん。…何故かは知らないけれど、妙に意地を張ってるみたいだった。何があったのやら。」
「…妙ですね。」
「え?」
 顎に手をやって呟くリィナ、それに対しレイが不思議そうな表情を見せる。
 リィナはきっぱりと言った。
「ヴィルせんぱいが、直接自分に関係のないことでサーク先輩の言葉を素直に聞かないだなんて。」
 ヴィルは自身の気持ちに関することではさすがにサークが相手だからこそ彼の言葉に従わないことがあっても、それ以外のところでは軽いやりとりやポーズを別としては彼の言うことにわざわざ逆らったりはあまりしなかったはずだったが。
「確かに言われてみればそうかもしれないけれど…気にすることはないんじゃないの?」
 レイは相変わらず首をひねっている。
 …そう。だからこそ、今回ヴィルがそう言い張ったことに多少ながら違和感を受けるのだ。
 自分の面倒を見るという、それこそサークに託してもおかしくないことなのに。
「……あ。」
 そこまで考えた時、リィナは一つの可能性を思いついた。
「何かあった?」
 無意識に出た呟きにレイが尋ねてくる。
 最近あったトラブルならあれしかない。自分に関することでの、ヴィルとサークの食い違い…自意識過剰といわれたら否定しきれないが可能性としてはありえなくもない。
 しかし目の前のレイに全てを話すわけにもいかず、仕方なくなるべく言葉を選びながらリィナは答えた。
「ひょっとしたらですが…ちょっとしたことなんですが、ある人間関係の中で私やその他の人をどう扱うかについて、ヴィルせんぱいとサーク先輩が少々もめていたからそれと関係あるんじゃないんですかね?」
 曖昧な上にかえって余計な興味をかきたてかねない言い方だったが、とっさに適当な言い回しが出てこなかったのだから仕方がない。
 するとレイは少し考え込んだ後おもむろにこう言った。
「…それって、あの飲み会の場のこと?」
「……。」
 さすがに気づいたらしい。
 リィナはしばらく沈黙していたが、首をこくりと縦に振った。
 するとレイは横で眠るヴィルを見つめ、静かに呟いた。
「…なるほど。相変わらず、か。」
 眠るヴィルの横顔は変わらず穏やかだった。
 少しの沈黙の後、リィナが口を挟む。
「それって…。」
「…。」
 言葉に対するレイからの返答はない。
「それ、やっぱり昔の…二年前のことですね。」
 もう一度具体的に聞き直すと、レイの表情にかすかなためらいに似たものが浮かんだ。
「…どこまで話を聞いてるの?」
「一通りは。特にサーク先輩に関することでは、よく相談を受けてましたし。」
 ヴィルの言葉を聞く限り、恐らく彼女の知人の中でサークと最も親しくしているのは自分のようだった。だからこそ彼に関することで自分はよく相談された。…同時にサークに対しても取引として情報提供をしていたが。
 そのリィナの答えを聞くと、レイは再度しばらく考え込んだ。
 ややあってから静かに答える。
「なら、余計な説明もいらないよね。…多分そうだと思う。」
「そうだと、って…。」
「そのこと、今のあなたのことで、あの時と同じようにサークと意見が食い違ったんじゃないかな。」
 自分を真っ直ぐに見つめてのレイの言葉に、リィナは小さく戸惑いながらもうなづきを返した。
「そう…ですね。」
「まだ気にはしてるようだけど…やっぱり懲りてなかったのか。」
「…。」
 レイが視線をそっとヴィルに向ける。リィナもそれに合わせ彼女を見つめた。
 穏やかな寝顔を見せるヴィル。そこには作為的な表情は何もない。
 強がりも、知らないふりも、いじめられての泣き真似も、そして―知られていてもなお自分の感情を隠そうとするそぶりも。
「…二年前。」
「ん?」
 リィナの呟きにレイが言葉を挟む。
「あの時、せんぱいが首をつっこんで、それでサーク先輩に本気で怒られて…しばらく口もきかなかったとか。」
「そう。ヴィルの方は何とかそれを元に戻そうと頑張って挨拶とかしてたけどね。一月ぐらいかな、サークが無視してたのは。」
 二年前。ちょうど、ヴィルが今の自分と同じ年齢だった頃。
 こういうところだけは平気で嘘もごまかしもできるヴィルが露わにした、その悲しげな表情。
「一ヶ月ですか。」
 ぽつりと言ったリィナに対し、レイは一人苦笑をした。
「おかげで間に挟まれたこっちは大変だったけれどね。」
「え?」
 初耳の言葉にリィナが目を向ける。
「あれ、サークやヴィルから聞いてなかった?あの頃…二年ぐらい前でまだ私たちが修道院にいた頃、毎朝のようにあの図書室で集まってたんだよ。三人で。」
 毎朝の図書室通い。
 ―それはまるで、今の自分のように。
「そういえば…確か、ヴィルせんぱいが言っていた気がします。」
「やっぱり。…まあ、一月でぎくしゃくは収まったものの、結局院を出た後はみんなそれぞれの仕事で忙しくなったから集まらなくなったんだけどね。」
 それから数ヵ月後だろうか、今度はリィナ自身がサークのいる図書室に通い出したのは。
 きっかけはもう覚えていない。しかし記憶にある図書室の光景は常にサークがいたような気がする。
「せんぱいたちが通うのを止めたんですか?」
「そうだね…特に私が外務になってあまりこちらにいなくなったから。」
「ヴィルせんぱいは?」
「ヴィルの方はいつまでいたのかは知らないけれど…そっちもあまり長くはなかったと思う。」
 あの頃、自分がヴィルから受けていた相談は何だっただろうか。サークとの仲直りができたことに喜んでいたような覚えはある。だけど、その後は…。
「そうですね、遅くとも夏ぐらいにはもう行ってなかったと思います。」
 ヴィルがサークの近況報告を自分から話すのじゃなくてリィナに聞くようになったのは、自分が図書室に通い出した前だったのか後だったのか。その正確な時期さえも記憶には残っていない。
 いつの間にかヴィルは普通にサークのことを尋ねるようになっていた。そして自分も答えつつサークへの情報提供も行っていた。
 ごく自然に、変化を忘れそうになるほど当たり前のように。
「やっぱり二人でサシで話すのはやり辛かったのかな…さすがにあの後だったし。」
「でも今は平気みたいですけれどね。」
「そりゃもう二年も経ったから。どちらも大人になったと思うよ。」
 その一言はごく当たり前のようにレイの口から放たれた。
 しかし、リィナはそこで聞いた言葉を一瞬理解できず、思わず繰り返していた。
「…どちらも?」
 ヴィルは相変わらずいつまでたっても少女というよりは小娘のような子供っぽさを残してはいるが、多少は成長したといえなくもない。だけど、サークはあの頃からずっと、ひどく大人びて見えていたのだが。
「確かにヴィルの方はまだガキ臭さが抜けてないけれどね。」
「いえ、そうではなくて。」
「…ひょっとしてサークの方?」
「はい。」
 リィナが真面目にうなづくと、何故かそれまでは静かに話していたレイが薄く笑った。
 しかし、同時にその表情に混じるかすかな影の存在をリィナも辛うじてではあるが気づくことができた。
「…サークも大人げないと思うけれどね。」
「え?」
 自分が見るサークの姿は、時にはこちらの言葉に従ったふりをしつつも結局は自分の都合よく相手を手玉に取るという常に冷静な策士のような姿だ。それは昔から変わっていない、そう思ってきたのだが。
「ヴィルだって悪気があったわけじゃないはずなのに。…あそこまで言うことはないと思う。」
「それは…。」
 リィナは口ごもった。
 あの時。―ヴィルが、サークのことを、表立って追いかけるのはやめにすると言ったあの時。
 その気持ちの変化についての話は聞かされていない。それだけは、どれだけ聞いても答えようとはしなかった。ヴィルが保とうとした唯一の秘密。
 分かっているのはその時の事実だけだ。ヴィルが何をしたのか。そして、今につながるその結果のみ。
「…ですが、ヴィルせんぱいもやりすぎだったんじゃないんでしょうか。」
「そうかもしれない。だけど、この子の気持ちを考えたら、仕方ない部分もあったとは思えない?」
「―好きだったから、だからこそじゃないんですか?」
 リィナがその言葉を答えた瞬間、その場の空気が止まった。
 レイの表情から微笑が一瞬消える。
 しかしそれでもリィナは続けた。…止めることはできなかった。
「好きだったからって、全てが許されるわけないじゃないですか。」
 何故止められなかったのか、それは自分でも分からなかった。少なくともサークを庇うつもりでは決してなかったし今ここでヴィルを責めるつもりもなかったのだけれども。
「悪意がなかったから、それは本人の自覚の問題です。そのせいで誰かが苦しみを感じたのならそれはもう無罪じゃないです。」
 思っていたのは幾つかのこと。ヴィルの行動がもたらした結末。そこで生まれた罪と悲しみ。聞かされた言葉と思い。
「好きという感情は何よりも優先するなんて…。」
 ―そして、言葉にせざるを得なかった行き場のない感情。
「…そんなの、傲慢ですよ。」
 そこまで小声で、だが叫ぶように言って、リィナは言葉を切った。
「…。」
 不意に訪れる静寂。
 レイからの答えは返ってこなかった。
 沈黙する表情は元のようなかすかな微笑を見せている。その真意を見せないような曖昧な影を宿して。
 わずかにうつむいていたその目が、やがてゆっくりとリィナに向けられた。
「…『分かっていた、だからこそ許せなかった』。」
「え?」
 それは聞こえるか聞こえないかの呟き。
 しかし聞き直そうとしたリィナが見たのは、最初のように困ったような微笑で自分を見つめているレイの姿だった。
「なるほど、そちらの立場から見ればそう思って当然かもしれない。」
「私は…別にサーク先輩の味方じゃないですよ。ヴィルせんぱいだって応援してます。」
 慌てて首を横に振るリィナ。しかしレイの微笑は変わらなかった。
「だけどね。…ヴィルだって、同じように傷ついたことを忘れないんでほしいんだ。」
「分かってますよ!」
「リィナはそうだろうね。…じゃあ、サークは?」
 そのレイの問いかけに対して答えようとした時、一瞬、空白が生まれた。
「分かって―います。」
 断言しようとした。だけどわずかなためらいがあった。
 サークだってそれぐらい分からないわけがない。未だに懲りてないのもヴィルの方だ。
 だけど。つい昨日の飲み会での一幕が脳裏をよぎった。
 あの時背を向けたヴィルの声は。
「先輩だって、」
 …震えていなかっただろうか?
「…きっと。」
 リィナは、答えることはできた。
 しかし、答えながらレイの瞳を見ることはできなかった。うつむかずにいるのが精一杯だった。
 確かにヴィルを責めるつもりはなかったが、同時に彼女を無条件で許すつもりだってない。その点に関しては、ヴィルとサークのどちらとも今も親しくしている自分は中立の立場にいるつもりだ。…つもりだったのに。
「……。」
 それ以上言うべき言葉を思いつくことができずにリィナは口をつぐんだ。
 レイは黙ってその姿を見つめているだけだ。
 沈黙の狭間に静寂が降りてくる。
 静けさの中聞こえるのは、窓と扉の向こうの遠い物音。止まることのない人々の営み。
 そして―。

 寝息が聞こえた。
 二人の目が、その主に向けられる。
 ヴィルはまだベッドの脇で眠っていた。
 邪気のない無防備な表情。今までの話をまるで何も知らないかのように―いや、その通り彼女は今の会話を何一つ聞いていない。
「…。」
「…。」
「……ぷっ。」
 先に笑ったのはどっちだっただろうか。
 だけど次の瞬間、レイとリィナはお互い顔を見合わせて笑い合った。
 今までの重い空気がなかったかのように、それを吹き飛ばすかのように明るい笑い声が聞こえる。
 朗らかな影のない笑い。
 …やがてそれも徐々に薄れていった。
 ひとしきり笑って、疲れての休息。だけどそこには不快感も圧迫感もなくてあるのはただ穏やかな感情。
「…のんきなもんだね。」
「そうですね。」
 四つの瞳はその閉じた目を見つめる。
「やっぱり起こしてやろうか。」
「いえいえかわいそうですって。」
 すると、レイの手がヴィルの赤い髪の上にぽむ、と置かれた。もちろんヴィルが目を覚ます気配はない。
「何にせよ、周りがあれこれ言っても仕方ないかもね。結局は本人の問題だし。」
「そうですね。…周りに迷惑をかけない範囲でならですけど。」
「それはもう少し注意させてやらないといけないか。」
 そう答えると同時に、レイの手が弾むようにヴィルの頭の上を離れた。
 リィナが顔を上げる。
「じゃあ、私はそろそろ戻るよ。」
 レイはそう言って脇に置いた自分のカップだけを手に取った。リィナも軽く頭を下げる。
「紅茶、ありがとうございました。」
「まだそっちのポットに入ってるから。飲みすぎないようにだけは気をつけてね。」
「あ、はい。」
 うなづくリィナに優しく微笑みかける。
「とりあえずサークを探してみるけれど、捕まらなかったらごめんね。」
「いえ。どうせ二、三日もすればまた会いますから。」
「そう…そうだよね、それならいいか。」
 ついこないだの朝も、図書室にレイが入ってきて挨拶を交わしたのをリィナも覚えている。
 ―つまりはそういうことも知っていた、のだろう。
 納得して苦笑するリィナの前でレイの目が再びヴィルに落とされた。
「じゃ、何かあったらコレを起こしてくれればいいから。それか院の人を呼べばいいし。」
「はい。」
 コレ、呼ばわりされたヴィルの相変わらず幸せそうに眠る姿につい笑いが生まれる。
 レイが一歩下がって最後の言葉をかけた。
「それじゃお大事に。」
 リィナもうなづき、そっと頭を下げる。
「先輩、色々とありがとうございました。」
「こちらこそ。これからも、この子の面倒をよろしくね。」
「先輩こそ頑張って下さいね。」
「まあ長い付き合いだからもう慣れたよ。」
 何も気づいていないヴィルを挟んでお互いに笑い合う。
 そして、レイは軽く手を上げ別れの挨拶を告げた。
「…それじゃまた。」
「それでは。」
 ゆっくりと閉まっていく扉の向こうにその姿が消えた。
 かすかな足音もすぐに遠ざかっていく。
 それを見送ってから、リィナはそっと体を前に倒して左手を伸ばした。
 眠るヴィルの額に指先で触れる。
「…ん……。」
 小さな寝言と共に身じろぎをするヴィル。
 リィナは静かにその手を戻すと微笑んだ。
「…お疲れ様でした、せんぱい。」
 そう呟き、そして、ゆっくりと膝を立てた。
 瞳を閉じて自分の顔をそこにうずめる。
 再び訪れた静寂の中、動かぬ二つの影はただ静かに午後の光に照らされていた。


 治療院での会話がなされていたのとほぼ同時刻。
 ライセラヴィの神殿入り口付近に佇む、また二つの影があった。旅服に身を包んで荷袋を背負った紅の髪の青年と、神官服に身を包み両手は空けている青髪の青年。二人は言葉を交わすかのように向き合っている。
 西より照らされる陽光がその横顔を映し出していた。
 ―サークとブラッドだった。
「それじゃ、色々とサンキュな。」
 来た時と同じように古びたマントをまとったブラッドは、そう言って軽く礼をした。
「ああ。もう二度とお前が来なくてすむようしっかりしてもらいたいものだな。」
 汚れた服を新しいものに着替えたサークも言葉を返す。
「何だよ。せっかく人が帰省してきてしかもその帰り際にそういう冷たい台詞を言うか普通?」
「大神殿には管理をしっかりしてほしいと言っているだけだ。」
「そんなこと言われてもあそこの警備はオレたちの管轄じゃないぞ。」
「だったら現地の神官からの要請としてでも言っておいてくれ。」
「はいはい。」
 いつものようにそっけないサークの言葉にブラッドはやれやれと言わんばかりの表情で首を縦に振った。
 そして肩にかけた荷袋を背負い直す。
 来た時と一見何も変わらないようなその荷袋は、揺れた拍子にがたがたと物がぶつかり合うような音を立てた。
 …あの戦いが済んでから数時間が経過していた。
 そう。まだたったの数時間しか経っていなかった。

 遡ること約一時間。
 自室で今回の事件の報告書などをまとめていたサークは、突然響いた扉を叩く音に席を立った。
 出迎えてやるとそこにいたのは案の定ブラッドだった。
 森で一人姿を消してから今までの間に一通りの始末を済ませたらしい。手にはもう壷もなく、あちこちに負っていた傷もあらかた治療は終わっているようだ。
「荷物を取りに来たぜ。入れてくれるか?」
「ああ。」
 サークがうなづくと、ブラッドはこれまで同様この部屋がさも自室であるかのようにさっさと入ってベッドの上に座り込んだ。スプリングがわずかにきしみながら弾む。
 そんなベッドの脇の床には荷物が小さくまとめられていた。それに気づいたブラッドがサークの方を振り返る。
「お、これサークがやっといてくれたのか?」
「散らかされていては迷惑だからな。」
「…どーも。」
 サークの言葉にブラッドは一拍の間を置いてから深々と頭を下げると、自分のものであるその荷物を拾い上げてまとめ始めた。
 しばらく無言の作業が続く。自分の椅子に腰掛けてその光景を見ながら、おもむろにサークは尋ねた。
「ところでこれからどうするんだ?」
「…これから?」
 その問いに対してブラッドは片づけの手を止めて顔を上げた。思わぬ質問をされたかのようにきょとんとした表情さえ見せている。
 そんなブラッドの態度に問いかけた側のサークも内心首を半分捻ったが、態度には微塵も出さずにもう一度改めて聞いてみた。
「壷の回収は済んだだろう。明日にはここを出て帰るのか?」
 そう聞くと、何故かブラッドの表情が曇った。
 思わぬ反応にサークも怪訝な顔を見せる。
 視線を逸らせたブラッドは、短い沈黙の後少し困ったような声で答えを返した。
「それなんだが、もう今日のうちにはここを出ようかと思ってな。」
「―今日?」
 聞かされた言葉にサークが驚きの声を上げる。
「ああ。まあ一応上司に荷物の回収後はすぐに帰ってこいと言われているしな。幸い、夕方に出るあっち方面の馬車が見つかったから護衛を兼ねて同乗させてもらうことにした。」
「これからの馬車か?隣町に着くのも夜になるだろうに。」
「もともと今日中に着かなきゃいけないんだが何かのトラブルで品の準備が遅れているらしい。仕方なく夜の森を抜けることにしたんだそうだ。」
「そうか。」
 言葉自体に嘘は感じられない。サークはとりあえずその状況は信じることにした。
 だが、だからといってそのまま全てを納得したわけではない。
「しかし急いで帰ることもないだろう。一日ぐらい泊まっていけばいい。」
「万が一があるからな。いつまでもこの街に残っていては自警団にバレる可能性だってあるだろ。」
「……。」
 ブラッドのその一言にはあえてサークは答えなかった。
 引き渡す直前の女性の様子を見る限り、彼女の言葉を自警団が深く追求することはないだろう。やろうとしてもまともな話が聞けるとは思えない。
 しかし、事件の真相を知るレイがそれを見過ごすかどうかは…何とも言えなかった。背景の事情を詳しく説明していない以上彼女はこの結末を納得しきってはいないはずだ。
 ―自分自身全てを納得したわけではないのだから。
 サークはため息を一つ吐いて言った。
「まあそれなら仕方ないが…一泊ぐらいならどうにかしてやれたのにな。」
「お、サークが自分からこの部屋を提供してくれるとは珍しくも気前がいいじゃないか。さすが…」
「宿泊所の当日受付をしてやろうと思ったんだが?」
「…ちぇ。やっぱそうだと思ったよ。」
 他愛ないやりとりにブラッドが口を尖らせてそっぽを向いた。サークも唇にかすかな微笑を浮かべる。
 それはいつものようなごく普通の会話だ。その背後にどこかうっすらと寂しさにも似た空気があっても、どちらもわざわざ表には出さない。
 代わりにサークは席を立った。
 何の気なしに窓枠に手をかけ、外に広がる青空と白く光る神殿の一角を眺めて言葉にする。
「ブラッド。帰るのはお前の勝手だから止めないが。」
「あ?」
 唐突な言葉にブラッドが聞き返すと、サークはその場で振り返った。
 光を背にした影の中で青色の瞳がブラッドを真っ直ぐ見つめた。
「―リィナの見舞いには行ったか?」
 光に照らされて不敵な笑みを浮かべた表情の中で、紅色の目はそれを真っ向から受け止める。
 一瞬その色が消えた。―瞬き一つ。
「いや。」
 そう答えてブラッドは首を左右に振った。
「今までは後始末で神殿を出ていたからな。それに、治療はもう済んだんじゃないのか?」
「治療自体は終わっても体力の消耗が激しい。今日明日ぐらいは休ませておく必要があるだろう。」
「ああ、そういやそうだな。何せか弱い女の子だし。」
「…ここの神官はどこぞの聖騎士のようにムダな体力の塊ではないからな。」
 本心から納得のそぶりを見せたブラッドにサークもつい一言を返す。
 そうしてから話が微妙に逸らされかけていることに気づいて方向を強引に戻した。
「それはともかくとしても。まだなら、一度ぐらい行っておいてやれ。」
 だが、ブラッドの表情は冴えない。
「…。」
「…どうした?」
 いつもなら何らかの返事がくるはずの場面での沈黙。
 その不審さと、それ以上にきちんと返事をもらう必要性を感じてサークは彼に歩み寄った。
 ブラッドはまとめる途中の荷を膝の上に乗せその上にもたれるようにして視線を漂わせている。
「おい。」
 少し語調を強めてサークが呼びかけると、ようやくブラッドは口を開いた。
「…本当に会いに行ってやった方がいいのか。」
「あ?」
 呟くような小声。
 そしてその内容にサークは目を丸くした。
 だがブラッドからのそれ以上の言葉はない。
「どういう意味だ?」
 説明を求めると、それまでは正面の何もない空間に目を向けていたブラッドがサークの方を振り向いた。
 何かに悩むかのような難しい表情。
「オレが会いに行くのが、あいつのためになるのかってことだよ。」
「ブラッド…?」
 思わぬ唐突な台詞にサークがかすかに戸惑いの表情を見せる。
 しかしブラッドはそれには何も言葉を挟まず、ただ彼が理解しきれていないことだけは認識して淡々と話を続けた。
「見舞いに行く…会いに行ってやるのは簡単だよな。それで様子を見て、ちょっと話して、じゃあお大事に。これでオシマイだ。」
「…。」
「それで何が残る?―何も変わらないよな。また、今までと同じだろう。」
 真っ向からサークの目を見つめる紅の瞳。口元の笑みは消えている。
 彼がそう言いきったところで、サークは尋ねた。
「…だったらどうするつもりだ。」
「だから、オレはこのまま帰ろうと思ってるんだよ。ここで会わずにおいてな。」
「それで何が変わるというんだ。」
 サークが質問を重ねる。
 しかしブラッドは、しばしの黙考の後に両の掌を天井に向けた。
「…さあな。」
 一瞬の空白。
 それを挟んだ後すぐさまサークが言葉を発した。
「何だと?…冗談も休み休み言え。」
「冗談なんかじゃねえよ。」
 ブラッドが鋭い目でサークを睨みつける。その眼差しでサークも彼の言葉が本気であることをようやく悟った。
 そのまま沈黙するサーク。
 また少しの間を置いて、ブラッドは話を再開した。
「ここで会わないのもある意味大したことじゃない、それこそ何も変わらない可能性だってあるさ。」
「…。」
「ただ、今のままで本当にいいのか…何となくだがそう思ったんだよ。」
「……。」
 サークは何も答えない。
 ブラッドは小さく苦笑すると、そんなサークに尋ねた。
「なあ。オレがリーヴェランスに行ってもう何年経つ?」
「…二年だ。」
「そう。二年も経ってるんだ。それなのに久しぶりに再会したアイツ…リィナは、相変わらずだった。」
 あくまでどこまでも穏やかに話すブラッド。
 だがその時、彼の目にかすかな哀れみが宿ったことにサークは気づいた。
 隠し切れない驚きを見せながらも静かにサークが聞く。
「ブラッド、お前…気づいていたのか。」
 その一言にブラッドは黙って首を縦に振ってから、改めて口にした。
「…ああ。さすがに分からないわけがないだろう。」
「…そうか。」
 小さく笑って答えるブラッドに、サークもかすかな苦笑いを見せた。

 ―何てことない、告白。それはあっけなく。

 軽く息を継ぐと、ブラッドは再び真剣な表情に戻って言葉を続けた。
「今まで二年あって、それでもアイツは変わってなかった。もし今のままでいればこれからもずっと変わらない可能性だってある。」
「会わない方が変わらないんじゃないのか?」
「いや。ここでちょっとは冷たくしといた方が向こうもやる気を出すだろう。」
「…中途半端に親切な奴だな。」
「お前には言われたくないね。」
 サークの言葉にブラッドは素早く切り返すと、すかさず立ち上がって目の前のサークに迫った。
「何を―!」
 一瞬戸惑ったサークの隙をついてその右腕を掴み捻り上げる。
 わずか一呼吸の間。サークは抵抗する間もなく腕を引っ張り上げられていた。
 服の袖は届かず腕の先がむき出しとなる。
 そこにあるのは―一つの組み紐。
「お前こそ優しいんだかそうじゃないんだか微妙な態度を示しやがって。」
「…。」
 余裕をもって皮肉げな微笑を見せるブラッドに対し、サークは苦々しげな表情を隠そうともしなかった。
「なあ。あの子…セインが今どうしてると思う?」
「…真面目に大神殿で修行中、じゃないのか。」
「お前分かってて白を切るなよ。…まあおおむね間違いじゃない。ああ真面目に頑張ってるよ、もう十六になるのに彼氏の一人も作らずにな。」
「それは彼女の勝手だろう。」
「で、実はここに来ることが決まった時に偶然会ったんだよ。まあ任務のことはさすがに言えないがちょっとした用事でガーテの街に出張になったと教えてやった。そしたらあの子、何て言ったと思う。」
「…さあな。」
「サーク先輩によろしく、だとよ。他に友人だっているだろうにそっちが先に出た。」
「それは俺とお前がそれなりに親しかったからだろう、それだけのことだ。」
 ただ淡々と、冷たく言葉を返すサーク。
 しかしブラッドは余裕の態度を崩さないまま告げた。
「それと、お前がその腕の組み紐をまだ着けているかどうか、それもできれば見てきてほしいと言ってたぞ。」
「―っ。」
 サークは反論しようとしたがとっさに言葉が出なかった。
 この組み紐の理由はそういうものじゃない、ただ単に卒業の記念にと幸運を祈ってのものだと彼女は言っていた。だからこそ今もそのままにしてある、それだけのことにすぎないのに。
 …だがそれを話そうという気には何故かなれなかった。
「まあセインのことはこれぐらいなんだが。」
「…。」
 サークは無言で自分の腕を掴むブラッドの手を振り解いた。
 それを無抵抗で見送ったブラッドは自由になった手で腕組みをすると、再びいつもの不敵な笑みを浮かべたまま喋り続けた。
「ヴィルだったかな、あっちの方も相変わらずのようだな。」
「…ああ。相変わらず反省してないようだ。」
 苦々しげな表情のままサークも返事を重ねる。
「ダメだと分かってるのになお近くにいようとする。凄まじいな、女ってのは。」
「…あれはある意味特殊なタイプだろう。」
「ロクに誰かと付き合ったことのないお前に女のことが分かるとは思えないがな。」
「……。」
 言い回しや意図はどうあれその言葉自体は事実だったのでサークはまたも否定できなかった。
「まあとにかく。いつまでも彼女が懲りないのは、お前にだって責任があるんじゃないのか?」
「何で俺が。」
「はっきり拒絶なり叱責なりどちらかしてやったらどうなんだよ。」
「もうしてやった。それで理解できないのはあいつの怠慢だ。そこまで面倒をみてやる必要はない。」
「それがいい加減で中途半端なんだよ。」
「…。」
 再び沈黙するサーク。
 ブラッドは真剣な眼差しでサークの目を見つめて言った。
「その気がないならはっきりと相手が理解できるように拒否してやる。そして後はただの他人なんだから放っておけばいいだろう。そうじゃなくて相手に反省を促すってことは逆にそこが直ったらまだ可能性があるって思わせることになるんだぜ。」
「それは極論だろう。それに俺は知り合い…リィナという後輩と親しくしている相手として、目に余ることをやめさせようとしてるだけだ。」
「だったらリィナが相手じゃなかったら同じようなことをしていても注意はしなかった、ってことか。」
「…。」
 そうだ、とは答えられなかった。
 またも黙り込むサークに対してブラッドが声をかけてくる。
「サーク。」
「何だ。」
「お前、過保護。」
「は?」
 あまりにも唐突な言葉にサークは驚きの表情を隠すことも忘れて目を丸くした。
 その眼前にブラッドが指を突きつける。
「ヴィルのこともそうだし、それにリィナだってもう十六、立派な大人だ。お前がそこまで面倒を見てやることもないだろう。」
「…俺は公平な取引として彼女に情報その他を提供しているだけだ。」
「本当に公平かそれは?」
「…双方が納得しているなら問題はないだろう。」
「それは公平とは言わないぞ普通。」
「……。」
 ブラッドのつっこみにサークが口をつぐむ。
 そんならしくない様子にブラッドはやれやれとため息をついた。
「とにかく。そう気にせずほっとけばいいんだよ。…リィナもヴィルもどっちもな。」
「リィナはともかくヴィルも余計なことさえしなければいいんだ。」
「…まあそれは分からなくもないが。それでもほっといてやればいいんじゃないのか?そのうちどっかでもっと痛い目にあうだろうし。」
「巻き込まれる方がいい迷惑だろう。」
「いや、そーでもないと思うぜ。」
 ブラッドの口から出た意外な言葉にサークが少し戸惑いの表情を見せる。そこでブラッドは指を立てて言った。
「…女の子ってのは時には大胆に見えても結構臆病なもんだ。そのきっかけ作りに協力してやってるんだから、そう責めることもないんじゃないのか?」
「きっかけ程度かあれは?」
「…まあその辺の加減が彼女の課題ということで。」
「それじゃ問題が解決していないだろう。」
 サークの冷静なつっこみにブラッドは視線を横に逸らした。
 それからベッドに飛び込むように腰を下ろす。
「それはさておき。そういうわけで、オレは帰ることにしたんだよ。分かったか?」
「答えになっていないぞ。」
「じゃあもう一度最初っから全部説明してやろうか?」
「…もういい。」
 サークはあきらめたように首を横に振ると、さっさと自分の机に戻って椅子に腰掛けた。
 深々と息を吐いてから改めて顔を上げる。
「お前の言い分は分かったが、逆にお前こそどうなんだ?」
「オレが?何が?」
「お前こそリィナに対して面倒見がいいが、それはどういうつもりだ?」
 うそぶくブラッドにサークが険しい目を向ける。
 しかしブラッドはその言葉を聞いた瞬間、にやりと笑った。
「オレはあいつに頑張ってもらいたいと思ってますがね、ええ。」
「それはその気があるとみなしていいんだな?」
 サークの唇にも薄い笑みが浮かぶ。ある意味では怖さを感じさせるような笑顔だ。
 だがブラッドは平然と言ってのけた。
「オレは来る者は拒まずだからな。」
「…ほほう。」
 その一言にサークの背後から何かドス黒い気配が漂い始める。慌ててブラッドは付け加えた。
「まあ今は実質フリーだからな。もしアイツが来るってんなら、受け止める準備はできてるぜ。」
「その言葉に偽りはないな?」
「ああ。ってゆーかだからそれが過保護なんだよ、ぱぱさん。」
「誰がパパだ。」
 サークは素早くつっこんだが、多少は自覚があったのか途端に黒いオーラが影を潜めた。
 ごほん、と咳払いを一つして言葉を切り替える。
「ともかく。人のことをそうやって言うが、お前こそリィナに対しての面倒見がいいな。」
「そりゃあ可愛い後輩サマ、ましてやサークの飼い猫だからな。」
「……。」
 これ以上つっこんでいては話が進まないだろうと判断して、その一言はスルーする。
「ま、オレは別にどちらでも構わないんだが、向こうがまだその気のようだからちょっとした教育をしようと思ったんだよ。」
「それは過保護じゃないのか?」
「放置するだけでどこが過保護になるんだか教えてもらいたいもんですがセンパイ。」
「誰がセンパイだ。」
 嫌味な一言に心から嫌そうな顔を見せるサーク。
 それを満足げに笑った後、ブラッドは笑顔ながらも真面目な目をして告げた。
「…というわけだ。付け加えるなら、オレの好みは自分からガンバル女の子でな。リィナも見所はあると思うから後は努力しだいさ。」
「ほう…まあ父親呼ばわりされても困るからそれはあいつには伏せといておくか。」
「そういうことだ。じゃよろしく頼むぜ。」
 そう言うと、ブラッドはまとめ終わっていた荷物を手に立ち上がった。
「行くのか?」
「そろそろ馬車の方に行かないとな。思っていたより長話になっちまった。」
「よく言う。」
「話をまぜっかえしてたのはサーク、お前の方だろう?」
「余計なことを言っていたのはブラッド、お前の方だと思うがな?」
 きっぱりと返すサーク。その言葉に、ブラッドは声を上げて笑った。
「ああ、やっぱこのつっこみがあってこそのサークだな。」
「何だそれは。」
「いやいやこっちの話。じゃあお世話になりました。」
 ブラッドは深々と頭を下げて礼をする。
「次からはきちんと宿を取るんだな。」
「そうだな…戻ってこれるのが何年先になるか、分からないからな。」
 そしてサークの言葉に素直にうなづくと、しみじみとした口調で一言呟いた。
 窓の外を見る目は遠い。
 サークもそれに気づきながらも、いつものようにあっさりと言ってやった。
「無理に戻ってこなくてもいいぞ。また余計なトラブルを持ち込まれては大変だからな。」
「…何だよ、それじゃまるでオレが厄介事を持ち込んできたみたいじゃないか。」
「持ち込んだどころか疫病神そのものじゃないのか?」
「ひでー。またはるか遠くに旅立つ友人を悼む気は全くないのかねこの男は。」
「お前ならどこでも元気にやれると信頼してるからこその言葉だ、感謝こそあれ文句を言われる筋合いはないと思うがね。」
「はいはい。私が悪うございました。」
 ぺこりとまた頭を下げて、ブラッドはついでと言わんばかりにそのまま荷物を下げて中からマントを取り出す。その頭上にサークの声が飛んだ。
「まあせっかくだ、神殿の外までは送っていこう。」
「ありがとよ。」
 マントを羽織って荷を背負うブラッド。旅装もできて後は帰るだけだ。
 先行したサークが開けた扉をくぐりながら彼は言った。
「しかし、一つ納得がいかないことがあるんだよなー。」
「何だ?」
「どう考えても愛想も悪けりゃ言葉も悪いお前のような奴が、やたらと女の子に人気があるのがだよ。」
「院生時代からさんざん彼女を作ってきたお前が言う言葉か?」
「それでも、今ならセインにヴィルにそれからリィナ。よりどりみどり、立派なものじゃないか。」
「…何か違うものが混じっているだろうそれは。」
「いやいや、慕われているだけでも立派なものだ、ぜひあやかりたいね。その秘訣は何ですか?」
「俺が知るか。」
 二人が外に出たところでばたりと扉が閉められる。
「昔っからお前女の子に妙な人気があったよな。」
「多少は話しやすいからじゃないのか。もちろん友人としてな。」
「いやいや、そこから始まる恋もある…。」
「そういうのがないからこそ話しやすい、と言っているんだ。」
「しかし全くないってのも妙な話だよな。あ、もしかしてあの噂は本当だったのか!お前は女には興味がなくて実は…。」
「冗談ならやめろ。本気なら覚悟はいいな。…それに、その話は多少なら聞いたことがあったが、その相手候補で一番人気があったのはお前だぞ。」
「げー…勘弁してくれ、こんな無愛想で口の悪いオトコはこっちから願い下げだ。」
「こちらこそこんなお調子者で態度の悪い男はこっちから願い下げだな。」
「お前にだけは言われたくないね。」
「そちらこそ人のことは言えないんじゃないのか…」
 二人はそれぞれの意見を言い合いながら廊下を歩き出した。

 そして今の神殿前に至る。
 別れを多少は惜しむかのような会話はもう十分にしただろう。
「向こうへの伝言があれば引き受けるぜ。」
「いや、他にはないな。」
「…セインには何も言ってやらないのか?」
「あいつには必要ないだろう。まあ近況の報告などはお前に任せておけば十分だろうし。」
「了解っ。」
「くれぐれも話の捏造はするなよ。」
「…りょーかい。」
 それでもなおも他愛もないやりとりをしつつ二人は石段を降りた。
 足の裏の感触が硬い石から柔らかい地面へと変わる。歩きながらブラッドは言葉を続けた。
「じゃセインのことは引き受けたからな。」
「はいはい。」
「ではこちらからも頼もうか。」
「ちょっと待て。」
 いつものような展開にとっさに言葉を挟むサーク。
 だが、ブラッドが同じくいつもの不敵な笑みと共に言った台詞は、その予想とは大きく違っていた。
「―お前も、もう少し気楽に生きろよ。その方がちっとは幸せになれるぜ、きっと。」
 笑う瞳は暖かだ。
 不意の言葉に、サークは一瞬だけ虚を突かれた表情をしたもののすぐさま苦々しげな態度をとって呟いた。
「…余計なお世話だ。」
 そう言ってそっぽを向く。…ひょっとしたら少しだけ照れているのかもしれない。
「じゃあついでにもう一つ。」
「まだあるのか?」
 怪訝な顔をするサークに対して、ブラッドは真面目な顔で告げた。
「リィナに伝言を頼む。『文句があるなら、リーヴェランスまで言いに来い』ってな。」
 サークはかすかに驚きの表情を見せた後同じく真面目な表情でうなづいた。
 それからじと目できちんとつっこみを入れる。
「…そっちの方がよっぽど重要だろう。」
「いやいや、オレはリィナだけじゃなくお前の幸せも願っているんだぜ。」
「どうだか。まあ伝言は引き受けた、親切なお前の期待に沿えるよう頑張らせてはみるさ。」
「あまり過保護にならないようにしろよ。余計なことで悩んだりすると、ハゲが増えるかもしれないぜ、親父さん。」
「誰が親父だ、誰が。」
 笑うブラッドの余計な一言にはしっかりとツッコミを入れてから、それからサークも小さく笑った。
「…リィナにもきちんと言い聞かせておくよ。あいつのことは引き受けた。」
「ありがとよ。」
 ブラッドもそう言って軽く頭を下げる。
 戻したところで、おもむろに右手を差し出した。
「…何だ?」
 不審な表情と声で尋ねるサーク。
「別れの握手だよ。せっかくだし、手ぐらい出せよ。」
「…まあいいだろう。」
 らしくないブラッドの行動に少し首を捻りながらも、彼はきちんと手を差し出した。
 その手を握ったところでブラッドがにやりと笑う。
「!」
 気づいたサークが手を引こうとしたものの、その手をブラッドが高く掲げる方がやっぱり早かった。
 右の腕先がまたも露わになる。ブラッドは笑いを浮かべると共に改めて口を開いた。
「また引っかかるとは、間抜けな奴だな。」
「―真面目な顔して別れ際に冗談を言う奴がどこにいる!」
「はいはい、怒らない怒らない。あんまり怒ってばかりだと皺が増えるぜ、お…。」
「親父だと言ったらこの手を思いっきり握りしめてやるからな。」
 脅しの一言と同時にサークが右手に力を込める。ブラッドは慌てて言い訳を口にした。
「…お前さん、と言おうとしたんだよ。」
「ほほう。で、そういう言い訳とごまかしに長けたその口が今度は何を言い出す気だ?」
 サークが尋ねると、ブラッドは咳払いを一つした後もう一度真面目な顔をしてこう言った。
「まあお前が誰と付き合おうとお前の勝手だがな。この紐がちゃんと切れるような幸せを見つけろよ。」
「―お前、それを知って―!」
 心から驚くサークに対してブラッドはいつもの笑みと共にしれっと告げる。
「向こうで組み紐のことを頼まれた時に尋ねたんだよ。『一番の幸せがかなったら切れるんです』と、真っ赤になって照れてたのが可愛かったな。」
「だったらこの紐を着けてるかどうかってのが彼女に親切かどうかとは無関係なのは最初から分かっていたんだな!」
「まあそうだが、お前のうろたえっぷりが見ていて楽しかったから…。」
 サークは無言で右手を思いっきり握りしめた。
「いてててて!いや待て、落ち着け。」
「次の言い訳は考えついたか?」
「ああ…じゃなくて!そうじゃなくて、つまりこれが切れるってことはお前に彼女ができたってことになるだろう。」
「何でそうなる。」
「何って、そんな彼女ができるなんてこれ以上の幸せが他にあるか?」
「…。」
 呆れたサークはもう何も言わなかった。しかしブラッドはその沈黙を別の意味に取ったのか、ぼそりと付け加えた。
「…それに、きっとその女の方がこんな昔の女の思い出の品を許しておくとも思えないしな。」
「何か言ったか。」
「いえいえ何も。」
 深々と首を横に振るブラッド。サークは自分からその手を離した。
「まあいい。その点に関しては俺とお前の考え方は違うようだ。話し合っていたらきりがないだろう。」
「諦めがよいとはご立派なことで。」
「早く帰らなきゃいけないと急いで出てきたのはどこの誰だ?」
「ああそういえば。」
 はた、と真面目な顔をしてブラッドが手を打つ。その表情からはどこまで本気なのかは判断できない。
「…じゃあ気をつけて帰れよ。」
「言われるまでもないさ。…あ、ちょっと待て。」
 別れの言葉を告げようとしたサークを遮って、ブラッドは片手を上げた。
 そして背中に回した荷袋を正面に戻して中を探る。
 やがて、何事かと見守るサークの前でその動きは止まった。
「あったあった。…せっかくだ、土産やるよ。」
「普通逆じゃないのか…?」
 サークが首を傾げたところで、ブラッドは何の迷いもなく荷袋の中から一つの品物を取り出して差し出した。
「はい。」
 それは、壷だった。それも非常に見覚えのある。
「…これは。」
「壷だなあ。」
「それは見れば分かる、そうじゃなくて。」
 尋ねようとするサークに対してブラッドはきっぱりと告げた。
「例の魔人の壷、と同じデザインの壷だ。」
「…何でそんなものが。」
 困惑を交えつつサークが呟くと、ブラッドはもう一言付け加えた。
「最初、あの男の家でオレが見つけた品だよ。」
「…ああ。」
 そこまで言われてようやくサークも思い当たった。
 当初、殺人事件の真犯人と目された男の家で密かにブラッドが回収していた壷だ。あの時はこれこそが魔人の壷と思っていたが、実際は違っていた。
「だが何でこんなものがあったんだろうな。」
「今となっては予想するしかないが、まあ大方魔人に魅入られたあの女性が男の家から壷を持ち出した際に、ダミーとして置いておいたものだったんだろうな。実際オレもだまされてたわけだし。」
「そうだな。…しかしこんなものをもらっても。」
「まあインテリアか小物入れにでも使ってくれ。」
「…ああ。」
 表面に魔法の文様が刻み込まれただけの簡素な茶色の壷というこんな品物は、インテリアにするには部屋に合わないし小物入れには大きすぎて使い道は全く思いつかないがとりあえずサークは素直に受け取ることにした。
 まあこんな壷が荷物にあっては帰り道で邪魔だろう、と思ったのが最大の理由だが。
 サークが手にした壷を脇に抱えたところでブラッドは言った。
「それじゃ、元気でな。」
「…ああ。お前も元気でな。」
「心配しなくともオレはそう簡単にはくたばらないさ。」
「そうだな。」
 微笑と共にうなづくサーク。
 ブラッドも笑いながら手を上げる。
「皆には…といってもまあリィナとその他数人ぐらいだが、よろしくな。」
「ああ。こっちも、セインによろしく。」
「分かってるよ。先輩は相変わらず可愛い後輩や同級生に囲まれてハーレム状態だと…。」
「…。」
「…まあ適当に言っておきます。」
 黒い妖気と共に自分を睨んだサークにブラッドは深く頭を下げた。
「ああ、頼む。」
 一言と共にサークの表情は元に戻る。
 ブラッドも姿勢を戻すと、そんなサークの顔を見て改めて別れの言葉を告げた。
「じゃオレは行くから。」
「ああ。」
 あっさりと告げられるサヨナラの一言。
「…また、縁があれば会いましょうってことで。」
「そうだな。まあ、そっちは聖都で元気にやってるだろうから、機会があれば今度はこっちから会いに行くさ。」
「言ってくれるな。じゃあその時までには手頃な値段でおいしい酒を出す店を探しておくよ。」
「楽しみにしておこう。」
 言葉を交わして、二人がそれぞれ笑顔を見せた。
「―達者でな。」
 微笑するサークと。
「そっちこそ。」
 不敵な笑みを見せるブラッド。
「じゃあ。」
「ああ。」
 最後の一言を口にして、ブラッドは踵を返した。
 振り返ったその拍子にマントの端から胸元の聖騎士の印が一瞬だけ垣間見える。
 ―陽光を感謝して輝いた証。
 ブラッドはそのまま振り返ることなく歩き出し、背中越しに一度だけ手を上げてサーク―そしてこの神殿とその人々に別れを告げた。
「…じゃあな。」
 去り行く背中にサークも一言だけ呟く。
 そして彼も踵を返すと、後は去る者を見送ることもなく神殿へと戻っていった。


 鳥の声が聞こえた。
 談笑のざわめきの合間から、飛び去っていく羽音がかすかに届く。
 窓から差し込む光。天を見上げれば目に眩しいほどに鮮やかに輝く青空が広がっている。
 ヴィルは手にしたお盆を下ろして席についた。
「いただきまーす。」
 その隣には、手を合わせるレイの姿。
「いただきます。」
 ―そして、正面には同じく手を合わせたサークの姿があった。
「…いただきます。」
 朝の食堂。いつもと同じように混雑した中、三人は一つの机を囲んで朝食を取っていた。
 きっかけは単なる偶然だった。
 サークが空いている席を見つけて座ったところ、最初にその正面にいた見知らぬ二人組がちょうど食事を終えたところらしく出ていった。
 それは気にならないしどうせすぐに誰かが座るだろうと彼が食事をしようとした矢先に、ヴィルの声が響いたのだ。
「レイ、ここ空いてるよ…って、あ。」
 言ってから気づいたらしい。しかし近くには他に二人が一緒に座れそうな席が見当たらず、遠くまで移動するよりはここで知り合いと相席する方を選んだヴィルはレイを引き連れてサークの正面に座った。
 そんな単なる偶然の結果、三人がこうやって共に朝食を取ることになったのだった。
 静かに食事が始まる。
「そういえばさサーク。あの女性のこと、聞いた?」
 そんな中でヴィルがおもむろに話しかけた。黙って首を横に振るサーク。
「自警団があれから調べたんだって。夕べ、レイに聞いたの。…説明よろしく。」
「何で私が。」
 笑顔で頼んだヴィルの言葉に、レイは面倒くさそうな顔をしながらも簡潔に説明した。
 女性の名はエネヴィ・クレデュロス。19歳で、実はあのビラインと同棲していたらしい。
 …だけど分かったことはこれだけだった。取調べをしたものの女性の話は支離滅裂であり、辛うじて分かったこれらのことも彼女の言葉ではなく今までの聞き込みと照らし合わせてのことだった。
 真相は彼女の心の闇に葬られたといってもいい。
「でさ。思ったんだけど…あの壷がどうやって彼女の元に至ったかはよく知らないけれど、ビラインって結構女ったらしだったじゃない。だからそこを魔人につけこまれたんじゃないかなーって、あたしは思うんだ。」
 感想の形で考えを述べたヴィルだったが、それに対するサークからの返事はなかった。
 それからしばらくは新たに話し出すきっかけもなく、黙ったまま食事をする物音だけが喧騒の中でそこだけ静かに響く。
「…ところで、サーク。」
 その中で、口を開いたのはレイだった。
 お茶を一口飲んでコップを机に戻したところでサークに向かって言った。
「ブラッドはどうしたの?」
 サークは手を止めると、たっぷり一呼吸の間を挟んでから短く答えた。
「…昨日のうちに帰った。」
「帰った?」
「ああ。任務だから急いで大神殿に壷を戻さねばならないと、さっさと帰ってしまった。」
「―ええっ!」
 脇から驚きの声が上がる。
 二人が目を向けると、頬張った食物を慌てて飲み込んだヴィルが目を丸くしていた。
「ちょ、ちょっと待ってよ!やっぱりそれホントだったの?ブラッド、もう帰っちゃったの?」
「ああ。」
 一言だけ答えて再びフォークを動かすサーク。対するヴィルは不満を隠しもせずに顔に出して言った。
「えー、何それ!じゃあリィナはどうなるのよ。」
「…。」
 すかさず反論が浮かんだが、同時に昨日のブラッドとの会話を思い出してサークはとりあえず沈黙を保った。
 ヴィルはそれに気づいたのか気づかなかったのか構わずに言葉を続ける。
「せっかくようやく事件が完全に片づいたのに、別れの挨拶をすることすらできなかったわけ?ちょっとそれはいくら何でもひどいわよ!」
「…。」
「二年ぶりの再会を喜んで、これからゆっくりと話もできるかと思ってたのに…そんなのってないじゃない!」
「……。」
「リィナもせめてサヨナラぐらいは言いたいって言ってたのに。冗談じゃ……って、サーク?」
「…何だ?」
 まくし立てていたヴィルだったが、ようやくサークが沈黙を保ち続けていることに気づいて言葉を止めた。
 しかしサークは平然とした顔でそれを尋ね返すだけだ。逆に言い出したヴィルの方が戸惑いを示す。
「いや、あの…珍しく黙っているなあと思って…。」
「それがどうかしたか。」
「え、その。…どうかしたの?」
「聞いているのはこっちの方だが。」
「いやそうだけどさ。…あれれ?」
 ついには目を白黒させて黙ってしまったヴィル。そこに隣からレイの助けが入った。
「まあ黙っているのは構わないけど、いつもならこの辺でヴィルを止めてるじゃない。」
「そうだな。」
 平然と答えるサークの言葉にレイが鼻白む。
「…分かってるなら理由を教えてくれてもいいでしょ。」
「…まあ色々あってな。」
 しかしサークは言葉を濁した。当然レイは、そして隣のヴィルも不審な目を向ける。
「どうしたのよサーク。何か悪いものでも食べた?」
「…いくら何でもそれはないと思う。」
 ヴィルの言葉には脇からつっこみを入れつつ、レイがサークを睨んだ。
「でも。何かあったのは間違いないでしょ。答えられない理由でもあるの?」
「…迷惑をかけてるわけでもなし、理由を説明する必要はないと思うが。」
「え、でもサークのツッコミがないと違和感が…。」
 ヴィルの言葉は唐突に止まった。そのまま顔色を微妙に青ざめさせてお腹を抱えるかのような前傾姿勢になる。
 隣に座るレイは一瞬だけ彼女を睨みつけると再びサークに向き直った。
「拒否する正当な理由もないのなら、説明を要求するけれど。」
 引き下がるつもりはないらしい。サークは少しだけ妥協することを選んだ。
「―心境の変化だ。それ以上は、言うつもりはない。」
「…ブラッドと何かあった。」
 しかしレイはすかさず言葉を発した。
「……。」
 否定すれば明確な嘘になる。仕方なく黙り込むサーク。
 その姿に、レイは一人納得してうなづくと言葉を続けた。
「なるほどね。でもそれだけ聞ければ十分だわ…ほんとに何考えてるのよあの男は。」
 怒りにも達しようかというほどの苛立ちを露わにして呟く。
 その思わぬ様子に、サークはおやと思いつつ表情はそのままで彼女を見守ることにした。
 幸いヴィルが相槌を打って話を進めてくれる。
「え、どういうこと?」
「まあサークの態度のこともあるけど、それはさておくとして。まず自分のせいで怪我をした女の子の見舞いにも来ないでさっさと一人で帰っちゃうなんて最低だわ。信じられない。」
「…確かに。」
「それにいくら聖騎士の任務だからって事件の真相を隠してあの壷を持ち帰るなんてどういうつもりよ。」
「あれ、結局自警団への報告はどうなったの?」
 ヴィルが尋ねるとレイは深々とため息をついてぼやいた。
「…現物も証拠もないからどうしようもないわ。それに余計な混乱を増やしてもしょうがないし。というわけで事件はサークがあの場で自警団に報告した通りよ、魔物に操られていた女性が殺人を犯していたがその魔物は私たちで退治した。そういうことにしといたから。」
「それって嘘じゃないのかな…。」
「真実を広めたらこっちだってまずいでしょ。神殿が勝手に問題の品を持ち去ったりしたんだから。―それにサークは事情を知っているだろうし。」
「え。」
 二人の目がサークに集まる。
 とはいえ予想はついていたことなのでサークも平然とした態度でそれを受け止めた。
「とっさに自警団に説明できたあたり、大方ブラッドと打ち合わせを済ませていたんじゃないの。どうなのよサーク。」
「…その通りだ。」
「じゃあどうして!」
 声を荒げたレイに対し、サークはあくまで静かに答えた。
「聖騎士の任務は本来極秘のものだったらしい。今回は偶然我々が知るところとなったが、その任務には協力する必要があるだろう。」
「待ってよ、元々壷を外に出したのは大神殿側の過失でしょ!何でその尻拭いをしたあげく秘密まで守ってやらなきゃいけないのよ!」
「外部から見れば同じライセラヴィの起こした行動として認識されるだけだが。」
「…。」
「それに、教皇直属の聖騎士の命には一般の神官は従う義務があるはずだ。」
「そうだけど…。」
 反論しようとしたレイだったが、それ以上の言葉は出なかった。
 それは仕方がない。サークの言った言葉は、全て事実であるからだ。
 しかしそれでも納得しきれないレイは苛立ち唇を噛んだ。
「…でもそのせいで犠牲になったのは、何も知らない人々なのに。」
「大神殿だってそれを意図していたわけじゃない、盗難にあったのだから仕方がないだろう。」
「仕方ない、で済まないわよ。だったらやっぱりあっちの過失じゃないの!」
「それを責めて何になる?…起こってしまった事件はそれこそ今更仕方ないだろう、この手で比較的早いうちに決着をつけることができただけでも幸運なぐらいだ。」
 そのサークの言葉に、レイは荒げていた声を抑えたものの代わりにこれまで以上の険しい目で彼を睨みつけた。
「何よそれ。」
「もしブラッドがこっちに顔を見せずに完全に独自で動いていたら、それこそ我々は何も知らないまま事件は勝手に終わって迷宮入りした可能性だってあったんだ。あるいは事件の解決が遅れて犠牲者がもっと増えたか。」
「…。」
 どこまでも冷静に答えるサーク。
 反論の余地のない言葉に、ついにレイも完全に沈黙した。
 重苦しい空気が場を覆う。
「―で、でもさ。とりあえず事件は今度こそ完全に解決したんだからよしとしようよ。」
 それを何とか取り繕おうと、ヴィルが精一杯の明るい声で言った。しかしその発言の端には無理な努力の跡が見え隠れしている。
「…。」
「…。」
 同席する二人の沈黙にあい、結局ヴィルも黙り込んでしまった。
 爽やかな朝日の中でここだけが隔離されたかのように沈んだ空気を漂わせている。
 しばらくまた無言の食事が続いたが、最初に食べ終えたサークがすぐに席を立った。
「ごちそうさま。―じゃあ、俺はこれで。」
「それじゃ。」
「え、あ、う…それじゃ、また。」
 別れの言葉を告げたサークに同じく言葉を返すレイと、戸惑いながらもそれに合わせるヴィル。
 空の食器を載せたお盆を手にしたところでサークは動きを止めて二人に向き直った。
「そうだ。ヴィル、リィナへの伝言を頼めるか。」
「いいけど…サークは見舞いに行かないの?」
「一応こっちは仕事があるしな。」
「あ、そうだね。じゃあいいよ。何?」
 あまりにも素直にうなづき伝言を引き受けたヴィルに多少の困惑を内心感じつつ、サークは頼まれていた言葉を告げた。
「ブラッドからリィナにだ。『文句があるなら、リーヴェランスまで言いに来い』だと。」
「は?」
 斜め横から驚きの声が上がる。
 目を向けると、レイが、目を丸くした後また険しい表情でサークに食ってかかった。
「ちょっと、何様のつもりよそれ!冗談じゃないわよ。」
「俺に言っても仕方がないだろう。」
「そうだけど!…じゃあもし何かの機会があってアイツに連絡とかすることがあったら言ってやって、人を馬鹿にするのもいい加減にしてって。」
「…分かった。覚えておく。」
 ここでわざわざ反論するほどの気力はサークにはなかった。それにブラッドとのあの話を説明するわけにもいくまい。
 余計なことは一切口にせず、素直にうなづいて肯定の意を示しておいた。
「まあまあレイってば。とりあえず完全に何も言わずに帰ったわけじゃないんだからまあいいじゃない。」
「…そうだけど。」
 横からヴィルがレイをなだめにかかる。
 本来ならレイ以上に食ってかかりかねないはずのその彼女の大人しさに、サークは多少の興味を覚えてこの会話だけもう少し見守ることにした。
 レイがヴィルに言葉を返す。
「でも、やっぱりこれはひどいと思うよ。文句があるなら言いに来いって、リーヴェランスまで一ヶ月近くかかるじゃない。無茶にも程があるわ。」
「まあね。…でも、リィナ本人がいいって言ってたからさ。」
「え?」
 思わぬ言葉にレイが声を上げ、見守るサークも発言したヴィルをじっと見つめた。
 ヴィルは頭上のサークの目には気づかずにレイに向かって説明をする。
「夕べの話だけど、言ってたのよ。…帰ったのなら仕方ないって。」
「…そうかもしれないけれどさ。」
「いや、私もそう思って聞いたんだけどね。もう慣れたからって。」
「え?」
 聞き返したレイに、ヴィルは自分が余計なところまで喋り過ぎたことに気づいて慌てて口を閉ざした。
 しかしその露骨な仕草はかえってレイの興味をかきたてただけだ。
「どういうこと、教えてくれる?」
「え、ええと…ごめんちょっとそれは勘弁して下さい。」
「うーん…。」
 この時ちょっと会話が途切れたので、サークは最後にリィナのためにヴィルのフォローをすべくここで一声かけて二人から離れることにした。
「じゃ、失礼。」
「…あ、それじゃ。」
「またねー。」
 それまで机の前で立っていたサークは何事もなかったかのようにその場を一人離れていった。

 そして、二人が残された。
「…何か妙なのよね。」
 人ごみの中に去っていくサークの背中を見送りつつレイが呟いた。
「うん。あのツッコミがないと調子が狂う。」
「いやそうじゃなくて。」
 ヴィルの言葉にはやっぱりつっこみを入れたレイだったが、それから少し困ったように頭をかいた。
「…まあそれもそうといえばそうかな。何かありそうなんだけど。」
 隣でヴィルもうなづいた後言葉を続けた。
「うん、まあ。でもサーク相手に聞き出せると思う?」
「…無理かな。」
 あっさりと白旗が挙がる。
 二人は互いに少し黙って食を進めたが、またレイが口を開いた。
「そういや、今日の仕事はないの?」
「ああ、うん。あの戦いで持ち出した先輩の発明品とかストーカー君β1.02の試用レポートを書けって言われてるけどまあ明日でもいいから。レイは?」
「とりあえず自警団のところにもう一度顔を出して、事後処理とかの手伝いと報告のまとめかな…。明日からはしばらくオフになると思うけど。」
「そう。んじゃお疲れ様だ、彼氏とでもゆっくり過ごしてきて下さいな。」
「はいはい。言われるまでもありません。」
 あっさり受け流してパンを口に運ぶレイ。
 隣のヴィルはスープを飲み干して満足げな息を吐いた後、再び彼女に向き直った。
「ところでさ。」
「何。」
「サーク、リィナの見舞いにホントに行かないつもりかな。」
「『あたしが面倒を見る』って言い張ったのはそっちでしょ。」
「そうだけど…。」
 レイの台詞にうなづきつつもヴィルは困った顔をして口ごもった。
 そこにまたレイからの言葉が加わる。
「とはいえ確かに今日のサークはやけに大人しいよね。何かあったのかしら。」
「さあ…見当もつかないな。」
「ブラッドと何か話したんじゃないかという気はするけれど。」
「でも一体何を話したらあのサークがあんなに大人しくなるわけ?」
 ヴィルの一言にレイももっともだと納得したものの、だからこそやっぱりサークの態度の変化の理由は分からなかった。
「うーん。」
 昨日のサークとブラッドの会話の内容を知る由もない二人にはその答えの想像はつかないようだ。
「しかし、いつもならあれだけリィナのこととか話してたら間違いなく怒られるはずなのになあ。」
 早々にあきらめたヴィルが話題の方向性を少し変えた。
「まあ確かに。…でもさ、ひょっとしたらさすがにあんたの面倒を見るのにもいい加減疲れたんじゃないの?」
 それに乗ったレイがふと思ったことを口にする。
「え?」
 戸惑いの表情を見せたヴィルに、彼女はきっぱりと言った。
「あれだけしょっちゅう怒られても同じようなことを言うのは、結局構ってほしいからなんでしょうが。」
「うーん、これに関してはそういうつもりはないんだけどな…。」
「自覚がないのは本人だけだって。」
「…。」
 その言葉には納得がいかないがかといって反論も思い浮かばずに黙り込むヴィル。
「ま、私としてはサークも目くじら立てすぎな気がするからあれぐらいでちょうどいいと思うけど。」
「まあそのつもりではあるんだけど、いざそれがすんなりと通るとかえって不安になってくるなあ…。」
「それがサークの思惑とか。」
「…そうかもしれない。」
「…いや冗談だから。」
 冗談半分の発言を信じ込んでしまったヴィルに慌ててレイが言葉を付け加えた。
 そしてまた、今度は自分から話題を転換する。
「それにしても。結局、今回の事件は何だったのかね。」
「えーと、壷がやってきて殺人が起こってブラッドが帰ってきてそれを取り返した、でおしまい。」
「いや…それははしょりすぎだと思う。」
「そうかな。」
「…展開をごく短くまとめれば確かにそうなるけどね。」
 真面目に返事するヴィルと苦笑するレイ。しかしヴィルは真顔のままで言葉を続けた。
「でも、あたしが思うにブラッドが帰ってきただけでもよかったと思うけど。」
「え?」
 今度はレイが驚きの混ざった表情を見せる。
「もし見知らぬ聖騎士が派遣されてきたんだったら、こんなにすんなり協力できなかったと思うし。」
「…無理やり巻き込まれただけのような気がするけどね。」
「それに、ようやく二年ぶりにブラッドが帰ってきてくれたんだもん。リィナは凄く嬉しそうだったよ。」
「へえ。」
「…ってあああしまった!」
 レイの興味深げな短い返事にまた自分のしでかした失敗を悟って頭を抱えるヴィル。
 そこに優しくレイが慰めの言葉をかけた。
「はいはい、落ち着いて。そう慌てなくてももう見当はついてたから。」
「え…そうだったの?」
「まあね。私はヴィルほどは鈍くないし。」
「…どこで見当がついたわけ?」
「そりゃまあこないだの飲み会の一幕かなあ。あれだけ話してりゃ、想像つくよ。」
「そっか…ごめんよリィナー。」
 ヴィルは肩を落として深く反省と後悔の色を見せた。
 その隣でレイはまったく平然として話を進める。
「まあその点はさすがにもう少し反省した方がいいかもね。」
「悪気はなかったんだよ、ついうっかりしてたんだー…。」
「うっかりでも向こうは迷惑するかもしれないからね。」
「はい。」
 涙を拭う仕草までつけてヴィルはうなづいた。
「でも納得した。だからこそさっきブラッドが帰ったって分かった時にあそこまで激しく文句を言ったわけだ。」
「…うん。」
「それに関しては理由は多少違うけど私も賛成だね。やっぱり黙って帰るなんてひどいと思う。」
「だよねえ。リィナは待つのにも慣れたとか言ってたけど、そんなことないって。」
 二人の不満の矛先は再びブラッドに向いた。
「ブラッドさ、もし分かっててあの伝言を言ったならそれこそ最低だよね。」
「え?…ええと、伝言は文句があるならリーヴェランスまで言いに来い、だっけ。」
「そう。つまりリィナを試してるってことじゃん。」
「…うーん確かにそうかもしれない。」
「それこそ何様のつもりよ。ちょっと人気があるからって、女の子の気持ちをいたぶるなんてやめてほしいわ。」
「そうそう。そういえばサークもそうだよねー。」
「…まあ確かに被害者の立場から見れば同じかもね。」
 一応外から見ているレイにしてみればやたらと彼女を作ってたブラッドと一人として付き合いはしなかったサークとでは大きく異なる気がするのだが、ヴィルの気持ちを思いやってあえてそこは触れずにおいた。
 代わりに同情の目を向けつつヴィルの発言を聞く。
「女の子の気持ちを何だと思ってるのよ!」
「そうだね。」
「人の気も知らないで冷たい言葉を平気で言って!」
「うんうん。」
「あたしはここに薄情な男性撲滅運動を展開するっ!」
「じゃあがんばって。」
 ぱちぱちぱち、と乾いた拍手音が小さく響いた。
 さらりと全てを流されて、それまで威勢のよかったヴィルの勢いが途端にしぼむ。
「…冷たいなあ。」
「いや応援はしてあげるよ、遠くから。」
「アリガトウゴザイマス。」
 そう答えたところで、ヴィルははたと気づいた。
「しかしすっかり長居しちゃったな。」
「あ、確かに。」
 辺りを見回せば朝食を取る人の姿もすっかり減っていた。サークが一人先に出ていってからもうずいぶん経つ。
 ヴィルとレイの二人はとっくに食べ終わっていた食器をまとめると、席を立った。
「それじゃ、あたしはリィナのところに行くから。」
「よろしくね。まあ、もうそんなに面倒を見る必要はないと思うけど。」
「うん。とりあえず伝言を済ませたら適当にお喋りして切り上げるよ。レポートもあるし。」
「…私も仕事頑張ってくるわ。」
「これが最後でしょ、頑張ってねー。」
「はいはい。それじゃまたね。」
「うん。夕飯の時にでも、また。」
 二人は連れだって廊下に出た後、それぞれの方向に歩き出した。


「おはようございまーす…起きてる?リィナ。」
 部屋の扉が開くと同時にヴィルが顔を覗かせた。
「あ、おはようございます。」
 そこに迎えの声が飛ぶ。
 ヴィルが部屋に入ると、とっくに起きていたらしいリィナがベッドの上で半身を起こしていた。
「ああ、元気そうでよかった。」
「ええ。もうすっかり回復しましたよ。」
「よかったよかった。」
 その言葉に満足げな表情を見せてベッド脇に歩み寄るヴィル。
 しかし、リィナは逆にヴィルに対して恨みがましい目を向けた。
「…せんぱい。」
「ん、何?」
「ヒマです。」
「え。」
「何かして下さい。」
「いや、ちょっと待ておい。」
「退屈なんですってば。」
「いやあの気持ちは分からなくもないが。」
「体調もよくなったのに何でいつまでも一人で寝てなきゃいけないんですか。」
「一応ほら、あと一日は養生するよう言われてるから…。」
「一人でこんな部屋にいてもすることないんですけれど。」
 リィナのその一言に、ヴィルはこの個室を見回した。
 開かれた窓から見えるのは青空と神殿の一部、ベッドの脇には小さな机があって水差しと半分水の入ったグラスが置かれている。…それだけ。
 殺風景な部屋の様子に、さすがにヴィルも同情を感じた。
「…まあ確かにそうだよなあ。」
「じゃあ何かして下さいよ。」
「だから急に言われてもとっさに芸なんかできないってば。」
「えー?せんぱいは根っからのお笑い芸人なんじゃないんですか?」
「ちょっと待てコラ。」
 最後のリィナの台詞は見過ごせずにじろりと睨み返すヴィル。
 が次の瞬間、ここに来たそもそもの理由を思い出して手を打った。
「あ、そうだ。伝言があったんだ。」
「え?」
 恨みがましかったリィナの様子も変化する。
 素の表情を見せた彼女に、ヴィルは微笑んで言った。
「サークに聞いた。ブラッドからリィナにだって。『文句があるなら、リーヴェランスまで言いに来い』だそうな。」
「…。」
 リィナはきょとんとした顔になった。それをヴィルは穏やかな表情で見つめている。
「…それって、どういうことでしょうかね。」
「まあ…今朝、この台詞を聞いた時にレイと話したんだけど、やっぱり黙って帰ったことに対する謝罪…というよりはむしろ嫌がらせかなあ。」
 レイの言った話をさも自分の考えのように語るヴィル。
 リィナはそのままの姿勢でしばし考え込んだ後、ぽつりと言った。
「…リーヴェランスまで言いに来い、ですか。」
「無茶な注文だと思うけどねえ。」
 しみじみとうなづくヴィル。
 しかし、リィナは尚もしばらく考え込んでから、おもむろに毅然として言った。
「…せんぱい。」
「どうした、リィナ?」
「私決めました。」
「え。」
「ブラッド先輩がそう言い張るなら受けて立ちましょう。」
「え?」
「ええ決めました。今度はこっちからリーヴェランスに行って一言文句をつけてきます。」
「ちょ、ちょっと待ってよ。」
 思わぬ発言に慌てて言葉を遮る。それから、ヴィルは改めて尋ねてみた。
「…本気?」
「ええ。」
 リィナの返事は迷いの欠片もなくきっぱりとしている。
「リーヴェランスまでは一ヶ月かかるよ。」
「分かってますよ。」
「仕事はどうするのさ。」
「…夏の長期休暇に有給と欠席を組み合わせますかね。」
「旅費とか足とか。」
「一応貯金ぐらい多少はあります。馬車とかも自力で探せますよ。」
 答えもはっきりとしている。
 どうやら伊達や酔狂での言葉ではないらしい。しかしヴィルはもう一度だけ聞いてみた。
「本気で、自分からリーヴェランスに行くんだ。」
「ええ。」
 リィナはためらうことなく深くうなづいた。
 しばし絶句したヴィルは、やがてゆっくりと深くうなづくと、しみじみと言った。
「…強くなったなあ、リィナ。」
 その言葉には笑顔で答えが返ってくる。
「そりゃあもう。二年間、十分耐え忍びましたから。」
 微笑むリィナの顔は、昨日の弱気な態度は欠片もない晴れやかな色を見せていた。
 逆にヴィルの方が多少の戸惑いを残したまま言葉を続ける。
「つい昨日はあんなに大人しい台詞を吐いてたのに…。」
「昨日は昨日ですよ。今日の私は生まれ変わったんです。」
「いやそれはまあそうだけど。…どういう心境の変化なわけ?」
 ヴィルが尋ねると、リィナは再び真面目な顔をして答えた。
「…あそこまで言われたら黙っていられませんよ。」
「それって単にブラッドの挑発につられてるだけじゃないのか…?」
「何か言いましたか?」
「いえ何でもございません。」
 一瞬の鋭い眼光にヴィルは頭を下げた。
 姿勢を戻したところで改めて話を再開する。
「…まあやる気を出したのはお姉さんとしても嬉しいのだけれど。」
「ならいいじゃないですか。」
「いや、あまりにも急すぎてちょっとびっくりしたんだよ。」
「そうですか?」
 平然と聞き返してくるリィナの様子にまた困惑の表情を見せるヴィル。
 そんな彼女に対し、リィナは微笑んだまま、だが瞳は真剣に次の言葉を述べた。
「…それに。そろそろ、黙って待ってるだけじゃいけないと思いまして。」
「リィナ…。」
 リィナが口にした前向きな言葉にヴィルも真面目な顔を見せる。
「ブラッド先輩がどこまで意図して言ったかは分かりませんけど、確かに文句があるなら今度はこちらから言いに行ってもいいですよね。」
「…そうだね。」
「だったらお言葉に甘えますよ。いきなり向こうにおしかけて文句と共に迷惑の一つぐらいかけてやります。」
「…それはまあ個人の自由じゃないかな、うん。」
 強気な発言には苦笑交じりでうなづきを返す。
 リィナはそんなヴィルに対しても真剣に言葉を続けた。
「もう待つのはやめにします。そして…。」
「そして?」
 小さく間を置いたリィナにヴィルが尋ね返すと、彼女は笑顔で答えた。

「追いかけるって、決めましたから。」

 弱さも、そして甘えもない、晴れ渡った青空のように爽やかで堂々とした微笑。
「ブラッド先輩も、自力で聖騎士になったじゃないですか。」
 聖騎士になる、それはブラッドの小さい頃からの夢だったと以前サークに教えてもらった。
 だがそれは願えば誰でも叶えられる夢ではない。ライセラヴィの中でも精鋭だけがなることのできる聖騎士は、文武共に優れた能力が必要だ。
 ブラッドはそれを叶えた。努力して、その夢を掴み取った。
「…だったら、私も頑張らないと先輩に追いつけませんから。」
 そんなブラッドの隣にいたいと思うのなら。せめて、それに見合うだけの努力をしなくちゃ並ぶこともできない。
 かすかに感じる高い壁はあっても、越えられないものじゃない。越えなくちゃいけない。
「…そうだね。」
 全てを吹っ切ったリィナの日の光に照らされる姿に、ヴィルは眩しそうな目を向けて笑った。
 その意志と決意に、賞賛と小さな憧憬を込めて。

「…で。」
 そしておもむろに、リィナは言った。
「何?」
 ヴィルも聞き返す。
 するとリィナは瞬時ににやりと笑って彼女に尋ねた。
「せんぱいは、どうするんですか?」
「…え?」
 きょとん、とまた聞き返すヴィル。
 リィナはあのにっこりと擬音の似合う笑顔のままその身をベッド脇に立つヴィルに近づけた。
「私は決めましたよ。せんぱいはこれからどうするんですか?」
「ちょ、ちょっと何でそうなるのよ。」
「え。人の話を聞いておいて自分だけ何も言わないつもりですか。」
「だって今のは勝手にリィナの方から話したんじゃ…。」
「ひどーい!人の真剣な話を勝手に話した扱いするなんて。せんぱいってそんな人だったんですか。」
「いや決してそういうわけじゃ…。」
「じゃあ話して下さいよ。」
「う…。」
 困惑するヴィルの脳裏に、以前これと逆のシチュエーションがあったというようなおぼろげな記憶がよぎった。
 …確かあの時はヴィルの方が勝手に話した扱いをされてリィナは答えなかった気がするのだが。
 とはいえ今更それを言っても仕方がない。腹をくくると、ヴィルは正直に口を開いた。
「でもなあ…あたしが今更できることなんて、あるのか?」
「うーん。」
 リィナが首を傾げる。
 ヴィルはしばらくその返事を待ったが、返ってこなかったので結局自分からまた言った。
「ほら答えられないでしょうが。だから別にあたしはどうもしないよ。」
 いつものように困ったような曖昧な微笑と手振りを加えて口にする。
 しかし、リィナの真面目な眼差しはヴィルの瞳から離れなかった。
「…それでいいんですか?」
「え?」
 思わぬ真剣な言葉にヴィルが困惑の表情を露わにする。
 いつものような虚飾の奥を直に覗かれて、隠してきた臆病な本音が見えそうになる。
 語りかけるリィナの口調はあくまで穏やかなのに。
「考えてみれば、もう二年経ってるんですよね。せんぱいも、私も。」
「…そうだけど。」
 目線をわずかに逸らしてうなづくヴィル。
「…そろそろ、動いてもいい時期じゃないですか?」
「……。」
 答えは出てこない。
 リィナはうつむき加減のヴィルの顔を覗き込むようにして、尚も言った。
「こんな言い方をするのも何ですけど。私も追いかけるのを決めました。せんぱいも、もういいじゃないんですか?」
「だけどサークは未だに許してないよ。」
「そうかもしれません。ですけど、それは同じことをやってるからで別にせんぱいそのものを許してないわけじゃないと思うんですが。」
「…。」
 サークからの本気の鋭い言葉が飛んでくるのは、自分がつい暴走した時だ。それはヴィルも分かっていた。
 だけど、そう簡単に止められたら苦労はしない。
 だからこそ自分はもうこれ以上近づくのをやめ、ただ今のままで近くにいる、そう決めたのだったが。
 …だけどそれは。
「せんぱいも、一緒に頑張りましょうよ。」
 それは、甘えに対する言い訳に過ぎなかったのだろうか。
「…。」
「せんぱい。」
「……うん。」
 ヴィルはかすかにだがうなづきを返した。
 そういえばさっきのサークはいつものように自分の言葉を止めなかった。これは単なる偶然だろうか。
 それとも。ヴィル自身もまた変わる時期だと、偶然という形をとったある種のお告げみたいなものだったのだろうか。
 …分からない。けれど。
「そうだね…待ってちゃダメだって、リィナも今言ったばかりだし。」
 どちらでも、自分の取るべき行動には変わりはないはずだ。
 ヴィルは顔を上げた。
「―もう少し、あたしも頑張ってみるか。」
 そう答えて自分を見つめているリィナに微笑みかけた。
「さすがです、せんぱい。」
 返事と共に笑顔が返ってくる。
 次の瞬間、見つめ合っていた二人は声を上げて笑い出した。
「ああ、何かすっきりした。肩の荷が下りた気分だわ。」
「そーですねー。実際、大人しく待つだけって疲れますし。」
「考えてみりゃ、よく二年も離れた状態で耐えられたよな。」
「まあ慣れですよ。幸いサーク先輩も多少は協力してくれましたし。」
「えー。」
「まあそこはそれ、オトナの取引というやつです。」
「…何をしたんだいったい。」
「そんなの秘密ですよ。」
「お前なあ。」
 明るい笑いが響く。
 ヴィルは光の差し込む窓に歩み寄ると、思い切って全開にした。
 朝の涼やかな風が部屋の中へと吹き込んでくる。
 リィナもベッドにもたれて、その風を全身で受け止めた。
「でもせんぱい。」
「何?」
 振り返ったヴィルに対し、リィナの顔ににやりと不敵な笑みが浮かぶ。
「サークせんぱいを追っかけるのもいいですけど、そろそろ現実を見ません?」
「…どういう意味だ。」
「いえいえ、あんな付き合うのに骨が折れそうな相手はやめてそろそろ新しい人でも探したらどうですって言ってるんですよ。」
「…お前今までの感動的な会話を全部台無しにする気か?」
「まさかー。私はただせんぱいの幸せを願って応援しているだけですよ。」
「からかいのネタとして楽しんでいるだけだろう。」
「そんなことありませんって。」
 そう答えて首を左右に振るリィナ。
 するとヴィルは、真面目な顔をして呟いた。
「…うーん。でもそれもアリかもしれないなあ。」
「ホントですか!」
「言い出したのはお前だろうが!」
「いえいえいえ、私は助言をしたまでであって。」
「よく言うよこいつは。」
 嬉しげに笑うリィナにそう苦く言いつつも、ヴィルもまた小さく笑った。
「まあ考えとくよ。確かにいい加減ケリをつけてもいい頃かもしれないし。」
「じゃあ例えばどんな相手がいいんですか?」
「うーん。……意地悪じゃない人。」
「…相当根に持ってますね。」
 談笑する二人の間を風が通り抜けていく。
「リィナこそ、リーヴェランスに行ったらどうするつもり?」
「そうですねえ…とりあえず今回人に大怪我させといてさっさと帰ったことの責任は取ってもらいましょうか。」
「…責任って。」
「まあ滞在中の食事は全ておごってもらいますかね。ついでにお土産代も。」
「あ、そういうことか。」
「何を考えてたんですか?」
「いえいえ何でもございませんって。で、それからどうすんのさ。」
「まあブラッド先輩の働く様子を見て…後はその時次第ですかねえ。」
「それってあんまり今までと大差ないんじゃ。」
「将を射んと欲すればまず馬を射よ。」
「え?」
「ブラッド先輩の上司とこの際だから仲良くなって、先輩の弱みを幾つか聞いてみようかと思いまして。」
「…あんた強いわ。さすがだよ。」
「それほどでも。」
 窓からの光がその顔を明るく輝かせて。
「せんぱいも頑張って下さいよ。相談にはいつでも乗りますから。」
「はいはい。リィナこそ頑張りなさい。お土産楽しみにしてるから。」
「じゃ、彼氏ができたらぜひ紹介して下さいね。」
「…サーク以外なのは確定なのか?」
「さあ?それは、せんぱいの頑張り次第ですよ。」
「お前なあ…。」
 陽光に照らされた部屋の中に、二つの笑い声は響いていた。
 どこまでも澄み切った、この青空のように。




 ―そして再び繰り返される日常。

「おはようございます。―先輩、ちょっと聞いて下さいよ!」

 喜びと、興奮と。

「あー、またデートは延期か…ついてないな。」

 落胆と、あきらめと。

「…またあのバカはやらかしたのか。」

 驚きと、ため息と。

「だからわざとじゃないんだってばー!」

 苦笑と、照れと。

 日々は常に紡がれていく。
 穏やかな安定した日常。


 見上げた先には果てのない青空が広がっていた。
「…ま、また会える時を楽しみにしてるか。」
 後ろにはこれまで歩いてきた道。前にはこれから歩いていく道。


「それで、どうするつもり?」
「まあちょっとは心を入れ替えますよええ。」
「具体的にはどうするかと聞いてるの。」
「……。」

 一見変わらない毎日。

「先輩、そろそろ次の手紙出そうかと思うんですがお願いしていいですか。」
「ああ。…何だこの枚数は。」
「いえ。まあこの一件のこともありまして色々と書いてたらつい長くなってしまって。」
「…たまには自分で出したらどうなんだ。」
「先輩だって手紙は書くんでしょう?だったら便乗するだけですよ。」
「明らかにお前の方が量が多いんだが…。」
「それくらいおごってくれてもいいじゃないですか、センパイ。」
「はいはい。」

 だけど、着実に前には進んでいる。
 歩こうとする意志がある限り。


 騒々しい巣箱。
 ようやく羽の生えそろった若鳥たちの巣立ちは、今まだ始まったばかり―。



(B.L.-extra. -Romping Birdhouse- …end.)




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