「B.L.-TrueBelief(後)」
いづみ


「だ、大丈夫ですか!」
 現れた血まみれの男にセインは駆け寄った。
 息が荒い。力なく、寄りかかるようにして壁にもたれている。
 杖は部屋に置いてきたままだが、構わずにセインは呪文を唱えた。
「光よ、彼の者に宿りてその力となれ(イ・アセ・リト・ト・スタイ・ヘ・オウィ)。」
 治癒の魔法が発動する。杖を使わずに魔法を使ったために負荷がかかり、一瞬頭痛をセインは感じた。
 魔法を使って始めて分かったのだが、男には傷自体は無いようだった。単に駆け込んできたために息を切らしていただけらしい。
「何があったのですか?」
 呼吸が落ち着いたのを見計らって尋ねる。
「お、おれは大丈夫だ。それよりも、怪我人が何人もいるんだ!急いで村の入り口まで来てくれ!」
「分かりました!」
 答えると共に、すぐにセインは駆け出した。
 部屋を出る寸前に一言叫ぶ。
「パルスさんも手伝ってください!怪我人の治療は一刻を争います!」
 相手の返事は聞こえなかったが、構わずにセインは先を急いだ。

 村の入り口には少し開けた場所があった。
 そこに、見覚えのある大型の馬車が置かれていた。夜の闇の中だがいくつもの灯りがともされており辺りは明るい。
 セインが辺りを見回していると、後ろから声がかけられた。
「来てくれましたか!怪我人はこっちにいます。」
 振り返ると自警団団長補佐のエイジャが立っていた。額に巻かれた包帯は赤くにじんでいる。
「はい!」
 小走りでゆく彼の後をセインは追った。
 案内されたのは馬車の裏手だった。深手を負ったらしい者が何人か寝かされている。
「軽傷の者の手当てはある程度済みましたが、重傷の者はまだ応急処置をしただけです。」
「分かりました、彼らは私が治癒をします。軽傷の方の手当てはパルスさんにお願いしてください。」
「はい。」
 それだけ言うとエイジャは再び走り去っていった。
 すぐに手近な者の側に行き、杖をかざす。
「光の力よ彼の者に集いて安らぎを与えよ(イ・アセ・リト・ト・ストゥーン・ヘ)。そしてその血を止め、力を満たせ!(エン・ト・コヴェル・ツヘ・リ・ト・カレ・ヘ)」
 一息に呪文を唱えた。
 杖を覆うように現れた光が横たわる男性の体に降り注ぐ。苦痛の除去と傷の治癒、さらには体力を一時的に補う魔法だ。
 自らの力が奪われるのをセインは感じたが、構わずにその容態が落ち着くまで魔法を発動し続けた。
 汗が一筋頬を伝う。
 男性の顔が穏やかになったのを確認して、セインは次の怪我人の所に移動した。再び呪文を唱える。
 暗がりの中、ともされた灯りよりも強い光が幾度もその空間を照らした。

 一通りの怪我人の治療が済んだところで、セインはその場に座り込んだ。
 度重なる魔法の発動で魔力の消費は激しかった。鈍い頭痛と全身を覆うひどい倦怠感。肩で息をつく。
「大丈夫か?」
 そこに、ビルタが現れた。セインの様子を見て一瞬表情が曇る。
「ええ、彼らの治療は済みました。数日安静にしていればほとんどが快癒するでしょう。」
「そうか…ありがとう、助かったよ。」
 安堵の表情を浮かべる。セインも微笑みを返した。
 次いで辺りを見回して尋ねる。
「それにしても…一体これは?」
「恐らくは狩りで何かトラブルがあったに違いない。これほどの被害が出ることは久しくなかったからな。」
 自警団の団員の様子を見て、ビルタが呟く。
「…ひょっとして、風に乗る獅子(ウィンディ・レオ)が現れたのでしょうか?」
 セインは思ったことをふと口にした。
「いや、そんなはずは…。」
「え?」
 顔を上げて問い返す。
「…何でもない。後で団長にでも話を聞くことにしよう。セインさん、立てるかね?」
「あ、はい。」
 杖を支えに立ち上がる。多少眩暈がしたが、歩けないほどではない。
 ビルタが歩き出したので、セインはその後についていった。

 馬車の正面に回った。
 こちら側には多くの人が集まっている。その分動いている者も多かった。総じて軽傷の者の治療はだいぶ進んでいるようだ。
「光よ彼の者を癒せ(イ・アセ・リト・ト・カレ・ヘ)」
 今も、パルスの杖から癒しの光が放たれたところだった。
 座り込んでいた男の表情にもそれによる回復の兆候がうかがえる。
 その光景を見ていたセインはふと気づいた。パルスの持つ杖が今まで持ち歩いていた長杖(ロッド)から短杖(ワンド)に変わっている。そのせいか、魔法の力も以前見た時と比べて今ひとつ劣っているようだった。
「ありがとうございます。」
 セインは歩み寄って声をかけた。パルスが杖を下げて振り返る。
「そっちはもう済んだの?」
「はい、今できることは。後は明日以降に改めて治療を行うことになりますが。」
「そう。」
 パルスはそっけなく言うと、辺りを見回した。
「軽傷の方の治療も大体終わったわ。じゃ、残りはあなたに任せて大丈夫ね。」
「ええ。力を貸していただいて、どうもありがとうございました。」
 セインは深く礼をした。
 これだけの人数だと一人の手には余ったかもしれない。今までの出来事があったがために、パルスの助けが得られるかは正直疑問でもあったので感謝はひとしおだった。
「私はもうあの家に戻るわ。後はよろしく。」
 それだけ言うと、パルスは早速戻ろうとした。一歩足を出す。
「あ、その前にちょっといいですか?」
 セインは慌ててそれを呼び止めた。
「…何?」
 いささか怪訝そうな顔をして、パルスが振り返る。
 だがそれには構わずにセインは尋ねた。
「短杖を使われていましたが、持ってらした長杖はどうしたんですか?」
 セインの言葉に対して、パルスは一瞬迷いの表情を見せた。が、すぐにぼそりと答えた。
「…置いてきたわ。光の魔法にはこっちの方が都合がいいのよ。」
「そうでしたか。」
 相槌を打ってから、思った。
 改めてパルスの持つ短杖を見る。簡素な造りに、先端にだけ魔力を集積するための宝石が付けられている。見た感じではどこかの教団で作られた物でもなさそうだし、漂う雰囲気からも光の属性を付与されているとも思えない。恐らくは魔道具(マジックアイテム)の店で普通に売られているものだろう。
 むしろ珍しいのは普段から持っている長杖の方だった。最初に見た時も、綺麗な服装に対してその古びた杖は浮いているようだった。
「ですが―もしかして。」
 逆の言い方をすれば、あの古びた杖は光の魔法に都合が悪い…それは対立する闇の属性を帯びていることを意味している可能性があった。
 危険ゆえにその力を禁止とされる闇の。
「あの杖は、闇の力を帯びているというのですか?」
 これまでとは異なる厳しい表情を見せて、セインはパルスに一歩詰め寄った。
 それが事実だというのならば神官として見過ごすことはできない。闇の力は人間とは相容れないもの、その力はいずれ間違いなく本人だけでなく周囲を巻き込みさえして破滅をもたらす。
「…そんなこと知らないわよ。」
 間を置かず突っぱねるようにパルスは言い切った。しかし、その目にはかすかに力が足りないようにセインは感じた。揺らぎが見える。
「知らないのですか?ならば、後で調べさせてもらえますか。万が一のこともありますから。」
 さらに言葉を重ねた。そのままパルスの目をじっと見つめる。
 互いの目線が真っ直ぐに合う。
 そしてセインは一歩も引かなかった。
 数秒の後、視線を外したのはパルスの方だった。
「…分かってるわよ!」
 苛立ちを露わに、吐き捨てるように答える。
 その言葉を聞きセインは神官として取るべき行動を取ろうとした。
「ならば、その杖を…。」
「だけどあれを手放す気は無いからね!」
 だが、それはパルスの言葉に遮られた。
 相手の反論を許さないかのように言葉が続けられる。
「言っておくけど、私だって闇の魔法に手を出す気なんかさらさらないわ!命は惜しいもの。だけどあの杖自体は魔法の発動具として優秀だわ。だから使ってるだけよ。それに…。」
 一気に喋り、そこで唐突にパルスは言葉を切ってセインを見つめた。
 思わずセインも一瞬、自分の言葉を口にすることを忘れた。
 その空白に言葉が重ねられる。
「…今、あの杖を持っていったら風に乗る獅子の相手をできる保障はないわ。それでもいいの?」
 パルスはそう言い切ると、いつの間にか元に戻っていた普段通りの目でセインを見つめた。
「それは…。」
 息を呑んだ。
 セインは反論をしようとした。だが、言葉は出てこない。
 確かに彼女の言っていることは正しかった。今回の仕事はあくまで『風に乗る獅子の駆除』であり、最優先すべきはそれである。
 そのためには『危険性のある杖の回収』といった比較的小さな仕事は後回しにすべきだ。
 間違っていない。
「…その通りです。」
 目線を落としてセインは答えた。
 まるで勝ち誇るかのように、微笑すら浮かべてパルスが言う。
「でしょう。だったら…。」
「ですが。今回の仕事が終了後、神殿に出頭し杖の提出を命じます。よろしいですね。」
 だがセインは冷静に言い切った。再び顔を上げ、冷たいといえるほどの鋭い目でパルスを睨む。
「な…あなたにそんなこと命じられるいわれなんかないわよ!」
「ライセラヴィの巫女として命じているのです。」
 反発したパルスだったが、セインは臆することなく再度言い切った。
 その表情は神に仕える敬虔なる使徒のもの。神官としての自負とそれに伴う威厳が反論を許さなかった。
 パルスが舌打ちをしてセインを睨み返す。
「…分かったわよ!じゃ、仕事の後にでも行けばいいんでしょ!とりあえず今夜は疲れたから寝させてもらうわよ。後は任せたからね!」
 感情を塗り隠すかのように早口で一気に言い放つ。
 その表情には隠しきれない怒りと、どこか失望めいたものがあった。
「はい。…おやすみなさい。」
 踵を返すと、早足でパルスは去っていった。
 後に残されたセインはそれを見送ってから、ため息を一つついた。
 その表情は再び少女のものに戻っている。
「…ごめんなさい。」
 一人呟いた。
 自分の取った行動が間違ってなかったとは思う。杖の回収は神官として行わなければならない仕事であるし、風に乗る獅子の駆除は何よりも最優先で処理されるべき課題だ。
 それに今回の仕事が終わればパルスたちともまた組むことはまずないだろう。
 それでも。
 最後に見せたパルスの表情がかすかに心に残った。
 セインは顔を上げると辺りを見回した。
 まだ怪我人の手当てが完全に済んだわけではない。遠くでは、今までの自分とパルスのやりとりを見ていたらしい人が不安げに自分を見つめている。
 杖を握り直して、夜空の下セインは松明の灯りの元に向かった。


 翌日の朝、普段より少し遅めにセインが起きると既にパルスらはいなかった。
 ビルタに話を聞くと早朝から再び森の調査に出かけたとのことだった。明日の夜までは帰ってこないつもりらしい。
 セインは少しほっとした。
 昨夜、険悪な雰囲気のまま別れただけに今朝会った時にどうしようかと思っていたのだ。
 彼らなら個人的感情はともかくとしても自分たちの担当と決めた仕事は果たしてくれるだろう。やや都合の良い考えだったが、それを信じて待つことにした。
 それに自分にもやるべきことがある。
 同時に感じた僅かな後悔の念と罪悪感は胸の片隅へと移した。そしてそっと神に懺悔する。
 セインは簡単に朝食を取ると、自警団の詰所へと向かった。

 おりしも快晴の空の下、詰所の中は窓を全開にしてもなお熱気がこもっていた。
 昨夜のうちにできる治療は全て済ませておいた。後は、軽傷の者には簡単な手当てを。重傷の者にはさらなる治療を行う必要があった。
 そこでセインは団員に通してもらい、重傷の者が寝かされている部屋に入っていった。
 再度治癒の魔法をかけ、怪我のなかった者や比較的少なかった者に手当ての指示を出す。後は彼らに任せておいて問題はないだろう。
 一通りの説明を終えたところでメイチェルが姿を見せた。
「ご苦労さん!わざわざ手間をかけてすまなかったな。」
 風通しのために開けられた入り口から入ってくる。セインは汗を拭って立ち上がった。
「いえ、これも勤めのうちですから。メイチェルさんは大丈夫でしたか?」
 微笑みに対し、メイチェルは包帯の巻かれた片手を上げてみせた。
「ああ。俺の怪我は幸いこんな程度だったからな。…こいつらには悪いことしたな。」
 言葉には済まなそうな響きがあった。
 それを受けてか、ベッドで休んでいる団員から笑い混じりの返事が飛ぶ。いずれもこの自らが仕える団長に敬意とからかいを見せていた。
「彼らの治療は一通り済みました。後は団員の方に伝えてありますが、長くても一週間以内に全員が回復すると思われます。」
「そうか。助かったよ。…ああ、持ってきたんだ。ほら。」
 礼を述べた後、メイチェルが思い出したかのようにコップを差し出した。中には氷を浮かべたお茶が入っている。
 セインはそれを受け取ると一息に飲み干した。やはり部屋の暑さのせいか、喉が渇いていたようだ。
「ごちそうさまでした。」
「いえいえ。」
 コップを差し出す。メイチェルは受け取ると、笑いながら恭しく礼をしてみせた。
「…ところで、例の仕事の方はどうなんだい?」
「え?」
 突然の質問に不意をつかれて、思わずセインは聞き返した。
「ほら、風に乗る獅子とやらの駆除の話だ。何か進展はあったのかと思って。」
 顔を上げたメイチェルはセインの目をじっと見つめていた。
「それは…ええ、風に乗る獅子はこの村の周辺の森にいるらしいことは分かりました。」
 その答えに、セインを見る目は丸くなった。
「そうだったのか。…気づかなかったな、それは気をつけないと…。」
 今度はうつむいて考え込むような姿勢をとる。
「ですが、狩人のお二人も探すのに苦労しているようです。だから皆さんが発見できなかったのも無理のないことかもしれません。」
「まあなぁ。いや、狩人ってのはさすがだな。」
 セインの言葉にメイチェルはまた顔を上げた。感心したのか、しみじみとした表情で半ば独り言のように呟く。
 その素直な表情を見て、セインは少し安心した。狩人に対する嫌悪がこれで少しでも和らぐように思えたからだ。力量に関してなら彼らに不安はない。
「ところで、昨日は聞けませんでしたが、一体どうしてこんなひどい怪我を負うような事になったのですか?」
 思い出したのでセインは何気なく尋ねた。
「これか?いや、狩りの獲物を捕まえたつもりがまだ生きていたらしくてな。輸送中に暴れ出したんだ。」
 頭を掻きながらメイチェルが答える。
「そうだったんですか。じゃあ、相当手ごわい獣だったんですね。」
「まあな。多分今夜か明日には肉料理が出ると思うぜ。」
 山地の村では自分たちの食料集めのために、村周辺の警戒も兼ねて集団で狩りに出る所もある。このミセルの村の場合は警戒の必要性が低いようだから食料集めが主な理由だろう。わざわざ遠出までしていることがそれを裏付けている。
 そうやってセインとメイチェルが休憩がてら雑談をしているところに、別の若い団員が顔を見せた。
「あ、団長ここでしたか!供物の人手が足んないんすよ。」
「何だって?エイジャの奴はどうしたんだよ、全く。」
 メイチェルはおもむろに立ち上がると、ずかずかとその団員に歩み寄った。
「いや、馬車とかの修理の方に行ってるらしくて。団長ヒマなんでしょ?」
「あのなあ…。」
 一言ぼやくとメイチェルは振り返って顎で示した。
 覗き込んだ団員と見上げるセインの目が合う。
「あ…こ、こんにちは。」
「こんにちは。お仕事、ご苦労様です。」
 セインが微笑むと、団員はなぜか顔を赤くして団長の方に向き直った。
「団長、すんませんっす。だけど人手は足りないんで来てもらいますよっ!」
 言うが早いか腕を掴んで歩き出そうとする。
「おいおい、何も俺じゃなくても他にも探せばいるだろうに…。」
「いや来てもらうっす。」
 文字通りの押し問答。いや、引いているのだが。
「あのな、だから。」
「いーえダメです。」
「あの、私も手伝いましょうか?」
 鶴の一声。
 そのセインの一言に、二人はピタリと動きを止めた。
「…いや、それはまずいっす。」
「そうだな…さすがにそれはできないな。」
「そうですか?」
 首を傾げるセイン。そこに再び声が飛んでくる。
「だってあんな血生臭い所にこんな可愛い女の子を…あいててて!」
「お前はいつも一言多いんだよ!」
 答えようとした瞬間、団員の背後に素早く回ったメイチェルがその首を腕で抱え込む。
 首を絞められた団員は慌ててメイチェルの腕を叩いたがそれには構わずにメイチェルはしっかりと腕を固定した。
 そんな微笑ましい光景はさておき、セインはさらに質問をした。
「血生臭いって、もしかして供物って獲物の一部ですか?」
「ああ。獲れた生肉の一部をお供えすることになってるんだよ。」
 首を絞められてまともに答えられない団員に代わり、メイチェルが答えた。それを受けてセインが会話を続ける。
「それは、この村に伝わる守り神様にですよね。」
 メイチェルは手を離した。
 団員が慌てて腕を外して咳き込んでいるが、構わずにセインの方を向いたまま尋ね返す。
「そうだが…その話、どこで聞いたんだ?」
「いえ。村長様の家の蔵書で見ました。」
「そうか。…なんだ、そうだったのか!なら別にいいな。」
 セインの答えに、再びメイチェルは笑みを浮かべるとさっきまで使っていた腕を回した。
「別にいいなって、何かあったんですか?」
「あー、いや。だったら守り神サンの説明をする必要もないなと思っただけだ。」
 首の代わりにかぱたぱたと手を振る。
 そしてまたおもむろに、涙目でまだ咳き込んでいる団員の襟首を掴んだ。
「じゃ、俺はこいつと仕事に行くわ。悪いな、無駄話につき合わせて。」
「いえ。こちらも仕事中に長く引き止めてしまいすみませんでした。」
 一礼をするとメイチェルは慌てて手を振った。
「いやいや別にヒマしてたところだったしな。気が向いたらいつでも来てくれよ。」
「団長、やっぱヒマだった…。」
「うるさい。―じゃ、またなお嬢さん!」
 そう言って右手を上げると、メイチェルはもがく若い団員を引っ張ったまま足早に去っていった。
 セインはくすりと笑ってそれを見送った。
 二人がいなくなって、ふと机を見ると置き忘れたままのコップがある。
 コップを片手にセインは部屋を出た。


「…さて、どうしようかな…?」
 自警団の詰所を出て。セインは大きく伸びをすると、空を見上げたまま呟いた。
 天気は快晴。鮮やかな青色が目に染みるほどだ。
 しかし次に取るべき行動がどうにも思いつかなかった。
 風に乗る獅子の捜索は二人に任せても問題はないだろう。予定では今回の捜索で住処を見つけられると言っていた。
 だが一方の村の調査は思わしくはない。できれば守り神についてもう少し調べてみたかったのだが、さっきの状況ではさすがに一緒に連れて行ってくださいとも言えなかった。
 立ち止まっていても仕方ないのでとりあえず村の中を歩き出す。

 大通りに出ると人込みができ始めていた。街に比べるとその数は決して多くはない。だが、生まれる活気に変わりはない。
 呼び声と返事、物音と足音。かすかに漂うのは肉を焼く匂いだろうか。肉食獣の肉特有の少し強い臭みが油の焦げる匂いと混じり合い、食欲を感じさせる。
 その中を歩き抜けると急に人込みは消えた。
 中央の小さな広場に出たらしい。いくつかの出店がある以外には何もなく、村人が思い思いに散らばっている。
 日なたは暑いので日陰を探そうとしていると、こっちに向かって駆けてくる小さな姿があった。
「お姉ちゃーん!」
 聞き覚えのある幼い声。目を凝らす。
 息を切らせて駆け寄ってきたのは、イーノだった。
 炎天下の下でも暑さに構わず活発に遊び回れるのは子供だからだろうか。セインの前に立ち止まって汗を拭うと、笑顔を見せた。
「こんにちは。どうしたの?」
 セインが尋ねると、以前に聞いたのと同じはっきりとした声で答えた。
「買い物。ママは買い物に行ってるから、ここで待ってなさいって。」
「そう、一人で待ってるんだ。えらいね。」
 少し前かがみで話していると、イーノが不意にその手を掴んだ。
「ねえ。お姉ちゃんってカミサマにつかえてるんだよね。」
「え…うん。そうだよ。」
 少し戸惑ったが、つまりは神官のことを指しているらしい。セインは何の気なしにうなづいた。
 すると無邪気な瞳のまま、イーノは尋ねてきた。
「じゃあ、守り神様に会ったの?」
 その目が一つ瞬きする。
「…ううん。私が仕えてるのは違う神様だよ。」
 この説明をすんなり受け入れてくれるか不安はあったが、イーノは素直に受け入れたようだった。
「そうなんだ。」
 大きくうなづいた。その拍子に汗がまた一筋流れる。
 前かがみになった姿勢で、セインも自分の背中が焼けているのを感じた。後頭部が熱い。
「ここは暑いから、そこの木の下に行こっか。」
「うん!」
 セインはイーノの手を引いて、近くの木陰に移動した。
 顔と首筋の汗を拭う。白い服でさらに夏用の薄着を選んでいるとはいえ、神官の服は余り肌を見せないのが基本だ。どうしても熱がこもりやすい。
 イーノもよく焼けたむき出しの腕で自分の汗を拭った。
「ねえ。じゃあ、お姉ちゃんはどこでおまいりしているの?」
「私は…別の街にある神殿でよくおまいりしているよ。」
 脳裏には、自分が勤めている神殿の光景が浮かんだ。
 そしてあることをひらめく。
「…それじゃ、イーノはどうしてるの?」
 セインが聞き返すと、イーノは変わらぬ調子で答えた。
「おやしろに行くんだよ!」
 その答えはある程度は予想通りだった。生肉などを供えたりするのだから、それなりの場所があるのだろうとは推測できた。
「じゃあそのお社はどこにあるの?」
「うーんと、あっち!」
 イーノは村の中を指差した。建物が並んでいるから詳しい場所はわからない。
「そうなんだ、じゃあ後で神様に挨拶に行かなくちゃ。」
「うん。…あっ!」
 それまでは元気よく話していたイーノが急に顔を曇らせた。
「どうしたの?」
 うつむいたイーノの顔をそっと覗き見る。
「ママに、よその人におやしろのこと教えちゃダメって言われてたんだ…。」
 自分がいけないことをしたという、罪の意識。表情が強張るのがはっきりと分かった。
 その姿を見てセインは胸の痛みを感じた。いくら必要なこととはいえ、自分が何も知らない彼から誘導的に聞き出したのだ。彼だけではなく自分もまたその罪を受けるべきだった。
 姿勢を少し起こす。うつむき加減のイーノの頭を少し見下ろす形になった。
 手を、そっと前に出す。
「…ごめんね。おねえちゃんが聞いちゃったから…。」
 セインはさらに体を近づけると、そのままイーノの体を抱きしめた。
 体の緊張が伝わる。
「…ごめんなさい。」
 小さな呟きが、聞こえた。


 セインは急いで村の中を歩いていた。
 彼女には、イーノを口止めすることなどできなかった。
 その背負った罪を正当に償うための方法…すなわち、母親に正直に話すことをセインはイーノに薦めたのだ。
 彼には以前にも「悪いことをしたらきちんと謝らなきゃだめだ」と伝えた。それを裏切ることは、できなかった。
 だがこれは同時に自らの仕事を大きく妨げる可能性もあった。
 もし、『守り神』が村の秘密に関わるのだとしたら…イーノがその秘密に繋がりうることを話した事実は、母親を通じて速やかに村長の下に伝わりうる。
 そう考えたセインは迷わずお社に向かった。胸の内で呟く。
 ―ならばその前にできるだけのことをしなければならない、と。

 さして広くはない村だが、それでも建物の数はそれなりにある。
 イーノの指示で大体の方向は分かった。そして彼がそのように場所を示せるのだから、恐らく何度か行った事があるのだろう。ならば偽装ぐらいはされているとしても建物自体が完全に隠されている可能性は低い。
 その考えに賭けて、セインは細い道を幾度も往復した。
 やがて日が傾きかける頃。
 セインはかすかな異臭に足を止めた。
「これは…?」
 立ち止まって辺りを見回す。意識には止めないようにしていた足の疲労感が伝わってきたが、なおもこらえて自分の感覚に集中した。
 両側に並んでいるのはごく普通の町並み。夕食の準備や仕事の片づけをしているらしい民家が続いている。そこには取り立てて異常な様子はない。
 だが、セインはその臭いが何であるかに気づいていた。
 覚えのあるものだ。つい今朝も嗅いだ。―かすかな、血の臭い。
 …捧げられたのは生肉。メイチェルらとの会話が脳裏をよぎる。
 改めて臭いを嗅ごうとするが、さすがにそれがどこから流れてきているのかまでは分からなかった。
 一度瞳を閉ざして深呼吸をする。自分を落ち着かせて、目を開けてもう一度ゆっくりと周囲を見回した。
 それぞれ一つずつがしっかりと作られた家だ。傷一つない真新しい土壁もあれば、苔むして深緑に変わったものもある。
 その中で一軒、少し変わった建物があるのに気づいた。
 ぱっと見の外観にはとりたてて目立つところはない。ただ立ち並ぶ家は皆、一階の正面にある程度の広さをもつ窓を有している。換気や採光のためだろう。だがその一軒にはそれがなかった。代わりに、建物の上部に小さな窓がいくつも並んでいる。
 民家としては不適当だ。そう判断してセインは数歩歩み寄った。
 近づくにつれてさらに気づく。窓には硝子がはめ込まれていなかった。通気のためだろうか?
 さらに接近しようとした時、背後に物音を感じた。
 反射的に警戒して振り返る。一軒の民家から、扉を開いて一人の男性が出てくるところだった。それなりに距離があるためにまだ相手の顔は分からない。
 だが、一瞬目が合ったような気がした。
 セインはためらわずに歩き出した。わざと気になった建物は素通りしてしばらくそのまま進む。そしてその先の交差点で立ち止まり、おもむろに辺りを見回した。
 その中で横目でそっとうかがうと、既に男性の姿は見えなかった。
 気のせいかもしれない。だが、できる限りの用心はしておくべきだ。
 セインは自分の考えを信じることを決め、そのまま静かにその場を離れた。


 翌日。セインは一日図書室にこもることにした。
 一つには一度間を置いた方があの建物を調べに行くのには都合がよいと考えたため。もう一つは、『白き守り神』に関する伝承の洗い出しのためだ。
 セインは『民話・伝説集』と題された本を手に取っていた。薄く簡素なつくりの本だ。
 最初にあの話を見つけたのは偶然に近かった。気晴らしにと適当に取った本。その中に、あの伝承が書かれていたのだ。
 再びページをめくる。目的の箇所を見つけると、セインは図書室の硬い椅子に腰掛けた。
 少し暑さを感じた。窓からの風は今日は吹いてこないようだった。
 指がその一文をそっとなぞる。
 ―白き守り神は魔物を退治した―
 簡潔に書かれた伝承の内容では、守り神やその他こまごまとした描写らしきものは見られない。
 もう一度本文を繰り返して読んだ後、セインはぱたんと音を立てて本を閉じた。
 机の上にそっと置く。役に立つ情報が得られるかはあまり期待できなかったが、まずはとにかく色々と本を漁ってみることに決めた。

 それに気づいたのは昼食を取って休憩を挟んだ直後のことだった。
 やはりはかどらない作業に少し飽きを感じて、それまでは関係ないと目に留めていなかった本の背表紙をぼんやりと眺めていた時だ。
「あれ…この本、こっちにもあった…?」
 目の前の本棚に並んでいたのは大型の百科事典のセットだった。それ自体には何の変哲もないごく普通の事典だ。背表紙の年度は数年前を示しているが、丁寧に使われているらしく痛みは見られない。きちんと番号順に並べられているのも使い手の性格を示しているのだろう。
 そのうちの一冊を抜き取るとセインは振り返った。机を挟んでちょうどここと対角線上の位置、本棚の一番下の影になっている棚に向かう。
 そこにも同じような事典の組があった。背表紙を見比べるが、やはり同一のものであることは間違いない。
 事典が複数あるのは、大型の図書館などでは珍しいことではない。ここは村長の執務用であるのであまり多用はされないだろうが、それでも使いまわしたり一般開放をすることがあったりするのならそこまでおかしくはないだろう。
 問題はそういったことではなかった。
 セインが手にしているのは事典そのものだったが、本棚に置かれているのはその事典の箱だったのだ。
 セインは念のためにもう一度確認した。題名、発行年度、著者、装丁。いずれも全く同じだった。…一方には箱があるのに他方には箱がないということは珍しいだろう。ましてや、背表紙のつくりと箱のデザインが同じならばなおさらだ。
 手にした事典を床に置くと、箱に手をかけて取り出した。
 重みが伝わる。中には同じように本が入っているようだ。
 中身を取り出そうと傾ける。
 滑るように出てきたのは、薄い二冊の本だった。

 セインは机の前に立ち、並べた本をざっと眺めた。
 事典は全部で10冊のセットだった。そしてその箱の中から出てきたのは、合計で15冊の本とその半分の厚さの10冊のファイルだった。
 本の一冊を手に取る。表紙には小さく、『ミセル村の歩み―`46』とあった。…31年前の年号だ。
 机の上に広げられたのは、前に探した時には見つからなかった30年以上前の村の歴史書と自警団の報告書だった。
 再び手にした本を机に戻した。布張りの表紙は音を立てずに横たわる。
「…どうして。」
 ―隠されていたのか?
 呟きは、途中で消えた。
 ―明らかにこれらの本は隠されていた。なぜ、隠す必要があったのか。そして何を隠しているのか。この本には何が記されているというのか。
 セインは口を結んだまま、並べた本を一角に積み上げた。机の中央を空けて紙と筆記用具を寄せる。
 再び椅子に腰掛けると一番上に置かれた一冊を下ろした。確かめるようにゆっくりと表紙をめくる。
 資料は見つかった。ならば、次は検索だ。
 胸の内に去来する様々な思いを打ち消すかのように、セインは一心に資料の調査を始めた。
 蝉の声が遠くに聞こえた。


 現れた二人の顔はさえなかった。
 ティーンとパルスの帰還を食堂で待っていたセインは、その表情を見て風に乗る獅子の捜索が失敗に終わったことを直感した。
 今回もまたビルタには席を外してもらい、三人だけで食事をしながら報告を行うことになった。
 温かな食事が並べられた机を囲む。立ち上る湯気がその間に漂った。
「森での探索はどうなりましたか?」
 だが、二人はそれを目の前にしてもグラスにすら口をつけなかった。黙りこくったままだ。
 最初に口を開いたのはセインだった。その彼女の表情さえもどこか重い。
 そして返事も返ってこない。
 重苦しい沈黙が場に広がりつつあった。
「―どうもこうもないわよ!」
 唐突にそれを破ったのはパルスだった。
 思わずセインは体を一瞬震わした。それに気づくこともなくパルスは言葉を続ける。
「この村のヤツが隠してるに決まってるわ!ふざけるんじゃないわよ!」
 少し前までの沈んだ表情とはうって変わり、激昂して声を荒げるその姿にセインは不安を感じさえした。
「…とりあえず、俺から簡単に説明する。」
 その様子を察したのか比較的冷静な口調で言ったのはティーンだった。
 小さくうなづく。
「とりあえずヤツ―風に乗る獅子の痕跡があったのは、こないだ話したな。」
 再びうなづいた。
「で、この村の周辺にいることは間違いないって分かったから、今回は住処を限定しようとしてたんだ。ヤツには多少の縄張り意識みたいなものもあるみたいだしな。」
 そう言ってティーンはグラスを手に取った。
 ようやくセインも、自分の手にしたグラスの中の水に口をつける。
「だがな。住処を示す証拠は、村の周囲に万遍なく散っていたんだよ。それも、村の近くの方でより多くな。」
 そこまで言うとティーンはグラスを一気にあおった。
 そして、叩きつけるように机に置くとセインを睨みつけた。
「―これがどういうことか、分からないわけないよな?」
 たじろぎはせず、グラスをそっと横に置いてセインは正面から答えた。
「…風に乗る獅子は、この村を住処としている…ですか。」
「そうよ。なんだかんだ言っても結局この村の連中は魔獣をあたしたちの目から隠してたわけ。」
 セインの言葉にすかさずパルスが割り込んできた。いつの間にか手にしていたフォークを、空中で円を描くように回している。
「というわけだ。…どう思う、神官さんよ?」
 重ねられたティーンの言葉にはセインは答えなかった。
 代わりに、足元に置いておいた資料を取り出す。
「…私が見つけたのは、この村に関する奇妙な事実だけです。」
 発見。だがそこには喜びの欠片もなかった。
 顔を上げた二人に、資料を直に手渡す。
「一つは自警団の報告書から得られたデータをまとめたものです。もう一つは…42年前の村の歴史書から抜粋しました。」
 資料は一つの大きな表と、短い文書から成っていた。
「魔物等の駆除数…これがどうかしたのか?」
 表を手にしたティーンが尋ねる。
「この村の呼び名はご存知ですか?」
 逆にセインは問い返した。その表情に感情は見えない。
 戸惑ったような顔をしてティーンが答える。
「…ミセルの村だろ?それがどうか…。」
 そこまで言ってからようやく思い出したらしく、すぐに付け加えた。
「―いや、それとも『平和な隠れ里』のことか。」
「はい。神殿に最後の魔物駆除の依頼があったのは31年前です。ここに記載されているのは、その前後での村における魔物等の駆除の数です。」
 静かなセインの口調に、ティーンは改めて表を眺めた。手書きの表には細く無機質な数字が並んでいる。
「確かにその辺りから魔物の駆除数が0になっているな…だが、これが一体何だってんだ?」
「その前です。39~37年前辺りを見てください。」
 セインの渡した表には、魔物等の駆除数の変化が記されていた。
 今さっき口にした39~37年前は通常よりも非常に多い数の駆除が行われている。それをピークとして駆除数は徐々に減少していき、最終的に29年前からは0となっている。
「なるほど、魔物の数の減少か…。」
 一通り表を眺めて、ティーンは一人うなづいた。
「…。」
 セインは何も答えない。
 それを見て、ティーンはさらに自分の言葉を続けた。
「これは自然な減少じゃない。何らかの理由で自然に去っていくのなら、その前にこんな増加はしないはずだ。…これは、大掛かりな狩りをやって狩り尽くしたに近いな。」
 まとめられた考え、それを耳にしてもセインは無表情のままだった。ややうつむき加減で口を固く閉ざしている。
 その瞬間、ティーンは資料を握りしめた。掠れた音が小さく鳴る。
「だが、誰がこれをやったんだ?ここの村人にそんなことできるわけがねえ。」
 再びセインを睨みつけるティーン。セインはわずかに顔を上げ、その視線を受け止めた。
「…分かりません。」
 ただ一言、答える。
 そして再びセインは口を閉ざした。
「で、もう一つのコレはどういうこと?」
 おもむろに、手にした文書を翻してパルスが言った。その言葉には怒りの末のような、氷の如き冷たさがあった。
 そのままティーンに手渡す。
 文書に目を通したティーンの表情が変わった。
「42年前。村に魔物が現れた。冒険者の一団らと協力して撃退する。…死者は自警団団員6名。その他はなし(・・・・・・)!」
 パルスがそう口にする。最後はもはや吐き捨てていた。
「何だ、やっぱりあの話はでっち上げだったわけだ!」
 唇に虚ろな笑みを浮かべて、嘲笑するかのように言い放つ。
「役立たずの狩人のせいで村人に多くの被害者が出た。だから狩人は信用できない。なんて見事な嘘でしょう!―炎よ(フィレ)。」
 そしてティーンからその文書をひったくると、手の上で火をともした。
 赤い炎に包まれて一枚の紙が燃え尽きていく。
「…まあ嘘は予想してたことだ。で、目的は何だろうな。風に乗る獅子を自分たちで確保するためにしちゃ、えらく真に迫った演技だったが」
「………。」
 セインはもう何も言えなかった。
 張り付いたような無表情で視線を落としている。
「そんな目的はどうだっていいわよ。」
 それには構わずパルスはセインの方を向いて言った。
「とにかく村が風に乗る獅子を隠している事はこれではっきりしたわ。で、その場所の検討はついたの?今までずっと村にいたみたいだけど。」
「…候補が一つあります。」
 視線を外したまま、ぽつりとセインは答えた。
「じゃあ明日にでもそこに行くとするか!あ、村長さんに話は通しておいてくれよ。」
 少し意識的に軽くしたらしい口調でティーンが相槌を打った。フォークを片手に食事を始める。
「はい。…それでは失礼します。」
 一言だけ返事をすると、セインは席を立った。
「あれ、夕食は食べないの?」
 パルスの揶揄するかのような問いかけが飛んでくる。
 それには無言で首を小さく横に振り、そのままセインは扉を開いた。
 一度も振り返ることなく部屋を後にした。


 深夜…静寂の中。
 蝶番の動くかすかな音がした。
 扉が開き、音もなく出て行く姿がある。晴れ渡った夜空の下で月明かりが照らしたのはうっすらと赤く光る髪。
 杖を手に人影は歩き出した。
 足取りは迷うことなく村の道を進んでいく。他に道を行く姿はない。
 やがてそれは一軒の建物の前で止まった。一度辺りを見回した後、その脇に入る。
 建物の間のごく細い空間。その狭い地面に立ち上を見上げる。
 壁に小さな四角い窓が穿たれているのが見えた。硝子は入っていないはずだ。
「…光の縄よ、行け(イ・アセ・リト・ト・リム・ウォルド)。」
 人影の呟きに応じて、かざしたその手から仄かな光が立ち上った。それは縄状の形のまま伸びて一直線に窓へと向かう。
 窓の正面まで辿り着いたところで反対の手に握られた杖が小さく振られた。光の先端はそこで一度動きを止めると、今度は窓の中に入った。
「開きて固化せよ(エン・イクスパ・レカル)。」
 唱えられた呪文に応じて、光の先端は二つに分かれて広がった。一直線の棒を形作る。
 人影は手にしていた光の縄を引いた。棒状になった先端が窓に引っかかり、そこで安定する。
 縄を揺らしながら人影は壁を登っていった。
 窓に辿り着いたところで一度縄の先端を曲げ、外側に押しやる。残りの部分を内側に垂らすと今度は一気に伝い降りた。
 足に地面がぶつかる。建物の内部にもかかわらず、感触は土のものだった。
 縄から手を離して辺りを見回す。中に光源はない。窓からさすわずかな月明かりが、直線的に一部分を照らしているだけだ。
「―!」
 突然、人影は体を強張らせた。杖を持つ手に力が込もる。
 気配があった。ここには自分以外にも何かがいる…ある程度の予想はしていたが、姿が見えないためにその存在感はより大きなものになっているように感じられた。
 神経を集中させて周囲をうかがう。物音一つさえしない。聞こえるのは、自分の鼓動の音だけだ。
 かすかに獣の臭いが漂ってきた。
 ―そう感じた瞬間。
 突然の突風が人影を襲った。不意の衝撃に、姿勢を崩す。
「風よ(インダ)っ!」
 杖を正面にかざして、叫んだ。
 自分に吹き付ける突風が正面で裂けて左右に流れていく。だがその強い風全てを受け流すことはできず、のしかかるような圧力を感じた。
 膝をつき体を支える。冷たい土の感触が布越しに伝わった。
 またも不意に風が弱まった。
 その場を離れたのは、ほとんど直感的にだった。
 飛びのいた空間を何かが駆け抜けていった。
 かすかに、白い姿が見えた。だが一瞬後には闇に紛れて再び見えなくなる。
「―光よ広がれ(イ・アセ・リト・ト・フィル)っ!」
 それを露わにするかのように、人影を中心にして光が散った。

 闇が拭い去られる。
 人影は息を止めた。
 その先に現れたのは、一匹の白い獣だった。
 汚れなき純白の毛皮。その長い毛がかすかに揺れている。太い四つ足は大地をしかと捉え、顔をこちらに向けていた。青白く光る目は何も言わずに見つめている。
 風をまとう白き魔獣。―風に乗る獅子(ウィンディ・レオ)。
 捜し求めていたものは、今、セインの目の前にいた。
 その毛皮がなびいた。
「―くっ!」
 呪文を唱えることなく生まれた風がセインを襲う。吹き付ける風に身を強張らせた向こうで、魔獣の足に力が加わるのが見えた。
 跳躍。
 信じられないほどの速さと飛距離で、跳びかかる。
 爪の先の鋭い輝きが目に映った。
「光よ(リト)―!」
 呪文の構築など間に合わない。ただ力を集めて、自分の前に置く。
 叫びらしきものがかすかに聞こえた。
 そして、衝撃。


 鈍い痛みと重さに、気づいた。
 閉じていた目を開ける。
 集めていた光はもはや消え、正面には白き魔獣の顔が見えた。
 だがその瞳には攻撃の意思はない。牙を見せることもなく、静かにセインを見下ろしていた。
 視線を胸元にやる。両前足が自分の体を押さえつけていた。しかし、あの鋭い爪は収められていた。
「…降りなさい、シロ。」
 男性の声。それを耳にすると、魔獣は静かに横に降り立った。
 体を起こし振り返る。その姿を見て、セインは驚きに言葉を失った。
「とうとうここに来てしまったか…仕方ない、全てを話そう。」
 閉ざされていたはずの入り口が開かれ、そこに立つ姿があった。
 歩み寄ってきたのは村長のビルタだった。

 ―全ての発端は50年もの昔のこと。
 当時まだ幼い子供だったビルタが、森で一匹の獣を見つけた。彼は親とはぐれたのか弱っていたその獣を拾うと、自分のペットとして飼うことに決めた。白い毛をしていたことから『シロ』と名づけた。
 始めの内は誰にも懐かなかったが、世話をするうちに最初はビルタに、やがてはその家族や友人にも馴染んでいった。
 転機が訪れたのが42年前。
 ある時村を訪れた冒険者たちが意外な事実を告げた。『シロ』は、『風に乗る獅子』だと。
 危険な魔獣だということが分かり、その時の村長は『シロ』を殺すことを決めた。それを運良く知ったビルタは、既にかなり成長していた『シロ』を連れて森へと逃げ出した。それを追った村人たちだったが、不幸にも別の魔物を発見してしまった。突然の事態に慌てて引き返した村人たちだったが、それを追って魔物は村の中へと侵入してきたのだ。村にいた冒険者たちと自警団で戦ったが、苦戦し、村の危機となった。
 そこに、様子を見にビルタが『シロ』を連れて帰って来た。その時『シロ』が、なんと彼らに加わって魔物と戦ったのだ。
 結果的にこれによって村の危機は救われた。そこで村も『シロ』の存在を認め、冒険者たちを口止めして『シロ』が村に残ることを許した。
 そして成人したビルタは自警団に入り、『シロ』の力を使い村の周辺から魔物などを追い払った。
 こうして村は安全となり、平和は守られるはずだった。
 だが。『風に乗る獅子』の存在を知り、それを狙うハンターが現れるようになった。村は『シロ』を守りハンターとは敵対することを決めた。その存在を秘匿するために住処をつくり、ハンターを拒み、伝説さえも創ることによって。
「…これが、全てを隠していた理由だ。」
 そうビルタは締めくくった。
 セインに対して見せているのは沈痛な表情。
 全ての謎は、完全に繋がった。『白き守り神』―それはまさしくこの村を守る生き神、風に乗る獅子だったのだ。
「…。」
 セインは無言のままだった。
 この場所に来た時から分かり始めていた。しかし今何も言えないのは、どこかで認めたくなかったのだろう。
 ―守り神が魔獣であるという事実を。
 光に照らされた室内。光源はどこにも存在せず、空間それ自体が光を帯びて明るさをもっている。そこには影もない。
 その中には佇むビルタ、座り込んだままのセイン、そしてその横に物音をさせることなく立ったままの風に乗る獅子がいた。
「しかし…君には気づいて欲しくなかったな。」
 ビルタが呟いた。
「え…?」
 顔を上げる。互いの目線が合った。
「ライセラヴィの教えは私も耳にしたことがある。」
 静かな言葉。静寂に包まれたこの空間では、それでも十分に伝わった。
 ビルタが厳しい表情を見せる。セインは無言のまま、待った。
「―魔物は闇に返せ。」
 重い響きだった。容赦のない言葉、だが、その中でセインを見る目にはいたわりと小さな痛みがあった。
 セインはすぐには答えられなかった。あふれる思いに、顔を伏せる。
 胸の内には様々なものがよぎる。未だ突然の事態に混乱が冷め切らないまま、さらなる葛藤が冷静な思考力を奪っていた。
 神殿での教え、村の様子、師の言葉、狩人の行動…そして守り神たる風に乗る獅子。
 断片的なものだけが頭をよぎり、流れていった。
 それでもセインは立ち上がった。
「私は…。」
 うつむいていた顔を上げようとした。だが、視線を合わせることはできなかった。
 声が震える。
「…私は、ライセラヴィの巫女です。」
 魂を削るかのような響きを乗せ、それだけ言うのがやっとだった。
 しかしその言葉はもはや力を失っていた。
 冷静さを備えてビルタの言葉が返ってくる。
「だが。私もまた、ミセルの村の村長だ。…23年間、この村を治めてきた。この村は守り神なくしては存在し得ない。」
「ですが!他の村は自分たちの力で、自分たちを守っています。例え守り神がなくとも不可能ではありません!」
 ビルタの言葉を打ち消すかのように、悲痛さすら備えた声が放たれた。
「確かにな…いずれは『シロ』も死ぬだろう。そうなれば我々は自らの手で自分を守らねばなるまい。」
 一度うなづき、ビルタは静かに続けた。
 だがそこまで言ったところで言葉を一度切り、はっきりと宣言する。
「しかし今はまだ、『シロ』を失いたくはない。守り神としてでもある。そして…『シロ』としてもな。」
 その言葉に、セインははっと顔を上げた。
 独り言のように呟かれた最後の言葉。そこには温もりがあった。
 セインの目の前で、ビルタはそっと風に乗る獅子の元に移動した。
 手を伸ばしてその額を優しく撫でる。魔獣は喉を鳴らし、目を細めた。
 そこにいたのは―まさしく『シロ』でもあった。
 セインは手にした杖を握りしめた。
「…一日、待ってください。」
 そして言った。
「一日だけ、考える時間を下さい。明日、風に乗る獅子をどうするかを決めます。」
 目を逸らさずビルタを見つめて言った。
 うなづきが返ってくる。
「分かった。…明日の日暮れ時に、ここに来なさい。狩人を連れてきても構わない。正面の扉を開けておこう。」
「…はい。」
 ビルタが一歩脇へと動く。
 そのやり取りを最後に、セインは再び口を閉ざすと開かれていた扉へ歩き出した。


 村長宅に戻ったセインは、すぐには自室に戻らずにある部屋に寄った。
 閉ざされた窓の前で動かぬカーテンが明かりをかすかに通している。
 手に光を小さくともし、並べられた中から一冊の本を取り出した。
 開き慣れた場所はすぐに見つかる。
「…白き守り神は、魔物を退治した。」
 村に伝わる伝承。それは故意に創られたものだった。
 だが語られる内容は事実だ。そして伝説は、人が創って伝えていくもの以外の何物でもない。
 ―これが、この村における真実。
 光が消えた。
 月明かりが布越しにわずかに照らす部屋、その中でセインは佇んでいた。


 翌日、少し遅れて食堂に下りてきたセインを迎えたのはティーンとパルスだった。
「よう。神官さんが寝坊とは珍しいな。」
「で、今日は例の候補地に行くんでしょ。そんなんで大丈夫なの?」
 昨日の苛立ちは収めたのか、元通りの自信と幾ばくかの倣岸さを伴った態度で声をかけてくる。
 その二人の言葉にはできる限り普段通りの表情で答えた。
「いえ、先に私が見てこようと思います。確認をする必要がありますし、朝から入ると目立つと思いますから。」
 おかしいところはなかったはずだ。
 セインは心配していたが、ティーンもパルスも素直にうなづいた。納得してくれたらしい。
「ま、確かにな。村人に邪魔されちゃいい迷惑だ。」
「夜の方が気づかれずに潜入できるでしょうし。じゃ、あなたが見つかって警戒されないようには気をつけてね。」
 それらの言葉には苦笑めいた微笑を見せて返事代わりにする。
 二人が一日この家に残ることを確認すると、セインは村長の家を出た。

 昨夜は一睡もできなかった。
 あの後自室に戻ったセインは、着替えだけを済ませると窓辺に移動した。
 月が向かいの空高く浮かんでいるのが見える。雲はない。
 光は、真っ直ぐに窓辺を照らしていた。
 その正面で跪き手を組んだ。瞳を閉じ、心を澄ませる。
 無と化した意識の中で、世界が消失し己の存在さえも消え失せようとする。
「光よ、我になにとぞ導きを与えたまえ(イ・ウォルド・アセ・リト・ト・レヴェアル)…。」
 祈りの言葉は自然に流れた。
 それは普段使われる言葉ではなく、真に祈りを捧げるための聖句だった。自らの信じる存在に届くよう純粋に希(こいねが)う。
 そして啓示を待った。
 迷い、己の内では決断が下せない問題。その答えを神に求める。
 無と同化した世界の中で、果てしなく思える時間を待ち続けた。

 …だが、啓示が訪れることはなかった。
 ゆえに今セインは村の中を歩いていた。自分の目で真実を見つめ、その時に正しい結論を下すために。
 道の両脇では幾つもの店が開き、呼び声が聞こえてきた。いつの間にか大通りに出ていたらしい。
 あふれる活気。―それは今の平和の上に成り立っている。
 立ち止まって空を見上げた。空高くに昇った太陽が大地に照りつけている。眩しさに目が灼けるのにも構わず、セインはその太陽を見つめた。
 光は闇を払った。ならば、光に仕える己もまたその意を汲んで闇を払わねばならない。…例えそれがこの平和を崩すこととなっても。
 視線を落とす。灼けた目は視界に白い空間を残した。見えなくなった目をそっと押さえる。
 答えは未だ見つからなかった。


 夏の日暮れは遅い。
 ビルタに指示された時を迎えた頃には、既に多くの店が閉じられ人々も各々の家で憩いの一時を過ごしているだろう時間になっていた。
 足取りは軽くはないが迷ってもいない。
 昨夜訪れた建物。その正面の、古びた扉の前で一度立ち止まる。
 無意識に呟いたのは聖句だったのだろうか。
 わずかな空白を経て、セインは扉を開いた。

 光のない空間。
 その高きに光が舞うのが見える。いや、純白の姿が光を放っているかのように鮮やかに現れているのだ。
 薄闇の中にその姿を浮かべていたのは風に乗る獅子だった。
 魔力により空を舞うその姿は名に示された通り風に乗るが如くだ。優美さすら見せて、獣は大地へと降り立った。
「…来られたか。」
 そして、その横から現れたのはビルタだった。
 大地に立った魔獣の隣に立ち、その手を撫でるかのように頭に置いている。
「はい。…申し訳ありません。」
 セインは深く頭を下げた。謝罪など何の意味も成さないのは分かっている。それでもそうせずにはいられなかった。
「いや。それがあなたの判断なら…仕方がない。どうぞおっしゃってください。」
 ビルタは全てを受け入れるかの如く淡々と答えた。暗がりの中、その表情が示すものは見えない。
 セインは頭を下げ黙ったままだった。
 しばらくの静寂の後、不審に思ったビルタが声をかける。
「…セインさん?」
「ビルタさん、申し訳ありません!」
 答える声は震えていた。いや、声だけではない。肩にまでもかすかな震えが見えた。
「私の一存では…結論を下すことはできません。一度神殿に戻り、神官長の判断を仰ぐことに…します。」
 幾度かつかえながら、それだけ言うのが精一杯だった。
 結局セインには判断ができなかったのだ。ならば、より神の心に近い上位の神官に答えを求めるしかなかった。
 …卑怯な選択だった。それが分かっていてもなお、セインには他の道を選ぶことはできなかった。
「そう…ですか。」
 ビルタは短く返事をしただけだった。その響きに変化はない。
 だが、そこにかすかな失望の色を感じたのは…自責の念が生んだ錯覚だったのだろうか?
「では、どうなるかは全く分からないと?」
 ビルタはなおも問いかける。
 顔を上げたセインはありのままを答えた。
「確実なことは言えません。…ただ恐らくは、風に乗る獅子をこの建物の内部で飼うことだけなら許可が下りるでしょう。」
 神殿の基本方針としては、人に害を与える魔物は皆闇に葬らねばならない。これは全てに優先する大前提だった。
 しかし今回の場合はそれとは異なる幾つかの事情があった。
 一つには、風に乗る獅子が魔獣であるということだ。―魔獣は決して魔物ではない。異界に住まいこの世ならざるものである魔物とは異なり、魔獣はそのもつ魔力ゆえに危険ではあっても、この世の中の生物であることには変わりがなかった。ならば状況によっては別の選択肢がとりえる。
 そしてもう一つがそれ、生じる危険性だった。届いた報告はいずれも目撃のみ。被害は現時点では一切出ていない。ならば村の内部で飼うだけならば問題はないと信じてもよいだろう。
 だから、駆逐する必要性はない。ただし他の人間に不要な恐怖を与えたり危険をもたらさないためにも、村の外に出すことはできない。
 セインはそういった考えを簡潔に伝えた。
「…しかし、それではこの子の守り神としての働きはできん。それでは意味がない…。」
 ビルタの言葉は最もだった。だが神殿側としても恐らくこれ以上の譲歩は見込めないだろう。
 厳しい答えではある。そもそもこれすらも認められるか疑わしかったが、せめてそのための最大限の努力を払うつもりだった。
「…すみません。」
 セインはただ一言そう答え、またも頭を下げるしかなかった。
 顔を上げる。すると、ビルタは風に乗る獅子の背中をそっと叩いた。
 押されて風に乗る獅子は正面に歩き出した。立ち尽くすセインの元に歩み寄る。
「結論を変えることはできないのだろう。ならば、もう…どうしようもないのだろうな。」
 ビルタの呟きは自分に言い聞かせるものでもあった。
 そして風に乗る獅子はセインの前で足を止めた。その場で立ち止まり、青白い目がセインを見上げる。
 セインは手を伸ばした。
 風に乗る獅子は頭を下げた。
 …手が、頭に触れた。
 『シロ』の穏やかな温もりが、毛皮越しに伝わってきた。
 撫でる手がかすかに震えるのをセインは抑えることができなかった。

「―ガアッ!」
 静寂の時は一瞬で消えた。
 セインが驚きに目を開く。
 風に乗る獅子の左前足で、純白の毛皮が赤く染まりつつあった。流れる血、その元に突き立っているのは太い矢だ。
「―お前たちはっ!」
 ビルタの声が響く。振り返ったセインは、絶句した。
 開いたままの入り口。そこに立っていたのは、弩を構えたティーンとパルスの姿だった。
「…ようやく見つけたぜ、獅子(レオ)さんよ。」
 そう言って新たな弓を番える。
 弩の弦を引き、固定する機械音が硬く響いた。
「ど…どうして、ここがっ!」
 ようやく我に返ったセインが叫ぶ。
 だが、それに返ってきたのは嘲笑だった。
「あんたの様子が今朝から変だったから、今日は一日尾けさせてもらったのさ。」
「村の中をふらふらしてた時は正気を疑ったけどね。ま、結局はこうして辿り着けたからいいわ。ありがとね。」
 甲高い笑いが耳に届く。その声は再び静けさを取り戻した建物の中にも響いた。
 取り落としそうになった杖を握り直し、二人を睨みつけてセインはなおも叫んだ。
「ならばどういうつもりですか!なぜ、矢を放ったのです!」
 気丈さを保とうと強気を装う。
 しかし相手にはひるんだ様子など全く見られなかった。
 ティーンが準備を済ませた弩を正面に構える。狙いを定めた姿勢のままでついでのように答えた。
「何言ってるんだ。言っただろ、俺たちは魔物を狩るのが仕事だって。」
「しかし!」
「コイツを殺せば仕事はおしまい。それでいいじゃない。何がいけないってのよ?」
 セインの言葉は届いていないかのようだった。
 実際、聞こえてはいても聞く気などないのだろう。再び構えられた矢がそれを示している。
 それでもセインは言葉を止めなかった。
「ですが、待ってください!まだ…」
 一歩前に出て必死に叫んだ。
 だがその声までも、虚しく消えていこうとしていた。
 ティーンは引き金を引く指に力を込めた。
「…くたばりな。」
 そして、答えが放たれた。

 瞬間的に突風が起こった。
 一瞬の後、何もない空間を矢が突き抜けていく。
 風に乗る獅子がその力で高く跳び上がったのだった。
 壁に叩きつけられる矢の音、そして舌打ちが響く。
「―炎よ我が手に集いて弾となれ(イ・ホペ・フィレ・ト・ニーダ・ヘ)!」
「光よ厚き壁となりて立て(イ・アセ・リト・ト・コヴェル・ムク)!」
 二つの叫びはほぼ同時だった。
 パルスの前に生まれた炎は引きちぎれるように無数の弾丸と化し、次の瞬間には真っ直ぐに風に乗る獅子に向けて放たれた。
 だがその目の前に出現した光の壁が全ての炎を受け止める。
「何で邪魔するのよっ!」
 魔法が完全に防がれたことに動揺しつつも、それ以上の怒りを持ってパルスが声を上げた。
「やめてください!私たちに、シロを狩る権利なんかありませんっ!」
 喉の痛みにも構わず、声を嗄らさんばかりの訴えをセインはする。
 だが荒々しい男の声はそれを押して響いた。
「ふざけるな!こっちはそれが仕事なんだよ、ガキは黙ってろ!」
 そう言ってティーンは腰の矢筒から新たな矢を取り出した。慣れた手つきですぐに装填される。
 その横でパルスも杖をかざし直した。
 セインは唇を噛み締めた。
 そして遂に覚悟を決めたのか、杖を正面に構えた。
 それでもせめてとばかりに説得を続ける。
「いい加減にしてくださいっ!あなたたちは神官の命を聞かないつもりで…」
「〝魔物殺し〟のライセラヴィの巫女が何言ってんのよ!」
 パルスの叫びが、場を圧した。
 その一言にセインは動揺した。認めたくはない、しかしそれは事実でもある言葉―。
 そしてその迷いがわずかな時間を生んだ。
 セインが動きを止めた瞬間。
 ためらうセインの頭上を越えて風に乗る獅子が跳び上がった。
 その瞳は怒りにか血走り、青白かった瞳が紫へと変化している。
「―シロ、やめるんじゃ!」
 ビルタの声も届いていない。
 そこにいたのは、怒りのままに敵に襲い掛かる、魔獣だった。
「魔物めえっ!」
 ティーンは口元に歪んだ笑みを浮かべて引き金を引いた。
 その矢先は正面の風に乗る獅子の頭をとらえていた。
 弦が、放たれる。
「やめてぇーっ!」
 セインの悲鳴が闇に響いた。

 赤い血が舞った。

 聞こえたのは、人の声だった。
「ぐうっ!うう…。」
 くぐもった声。その場の誰もが息を呑んだ。
 地面に降り立った風に乗る獅子。その前でくずおれたのは、ビルタだった。
 肩に刺さった矢がまだ衝撃に震えている。
「…光よ彼の者を癒せ(イ・アセ・リト・ト・カレ・ヘ)!」
 セインは駆け寄ると、矢を抜き癒しの呪文を唱えた。
 音を立て、地面に血まみれの矢が転がる。
 光とともに傷口が塞がっていく。
「う…。」
 治癒が済んでもショックは残る。傷口を押さえたまま、ビルタはその場にしゃがみこんだ。
「そ、そんな…バカな…。」
 ティーンが呟いた。
 弩を構えた姿勢のまま硬直する。その横ではパルスもまた半ば放心状態にあった。
 セインはビルタをかばうかのように前に出た。
 瞳が二人を完全に捉える。
 その口が開いた。
「あなたたちは…何をやっているのですか!」
 怒りに染まり、震える声が響いた。
「お、俺のせいじゃねえ!そいつが勝手に出てきたんじゃないか!」
 とっさに叫ぶティーン。だがその表情には明らかな狼狽が浮かんでいた。
 セインの瞳はそれを冷徹に見つめる。
 その口から言葉が放たれた。
「勧告の無視、無関係な者への危害…あなたたちに狩人を名乗る資格なんかありませんっ!」
 それは、張り詰めた空気の中に審判官の如く響いた。
 訪れるのは冷徹な静寂。
「…だったら、どうだってのよ…。」
 だがその時。
 それまで絶句していたパルスが、口を開いた。
 セインをキッと睨み返して叫ぶ。
「どうせあんたのことだ、あたしたちが今さら手を引いても神殿への報告はきっちり行うでしょうね…だったら、せめてその魔物ぐらいは仕留めてやるわよ!」
 もはや自暴自棄になっていた。
 しかしそれは同時に、説得が通じないことを意味する。
 セインは愕然とした。
「そんな、早まったことはやめてください!」
「うるさいっ!邪魔するんなら容赦しないよ!」
 言葉を遮ると、パルスは杖を高くかざした。
「…畜生がっ!」
 そしてそれに合わせるが如く、ティーンまでもが矢を手に取る。
「これ以上罪を重ねる気ですか!」
「もう遅えんだよ!こうなったらソイツだけでもぶっ殺してやるさ!」
 二つの叫びが交錯する。
 セインも身構え、杖を掲げた。
 その時。
「―ふざけるのも、それくらいにしておけよ。」
 もう一つの声が間を走った。

 セインは声のした方を見て、思わずその名を呼んでいた。
「メイチェルさん!」
 ティーンらも振り返り、呆然とした。
 ずっと開かれたままだった扉。その向こうに、灯りを手にした自警団が立っていた。
 先頭に立っていたメイチェルが一歩前に出る。
「まさかこんなことになるとはな…だから狩人ってのは嫌いなんだよ。」
 普段とは全く異なる、低く冷酷な声だった。そして前に立つ狩人の二人を見つめる。
「ど、どうしてここに…。」
「あ?村の大事な守り神になんかあったら大変だからな。こっちだってここの警戒はしてんだよ。」
 震えるティーンの声。対してメイチェルは無造作に答えた。
「実際のところは、いつもの見回りにシロが出てこなかったから様子を見に来たんですけどね。」
 そこに淡々とした声で付け加えたのはエイジャだった。
 彼も輪の中から一歩出て、二人の前に立つ。その口調は普段とは変化がなかったが、瞳だけが怒りを露わにしていた。
 その名を聞いてようやくセインは振り返った。
 後ろには、しゃがみこんだままのビルタ。そしてその横に彼を守るように立つ風に乗る獅子―『シロ』の姿があった。
「すみません、ビルタ様をお願いします!」
 セインが言うと、メイチェルは堂々と立ち尽くすティーンらの間を通ってやってきた。
「…こりゃひどいな。傷害罪は確実…あるいは殺人未遂か?」
「そんなことは後でいい。シロ、お前も向こうに行け。」
 膝をつき、ビルタの体を支える。
 肩を借りて立ち上がったビルタはシロに向かって手振りで自警団の方に向かえと指示を出した。
 理解したのかシロはその場で舞い上がると、全ての者の頭上を飛んで自警団の集まる中に降り立った。
 その目は元の青白さを取り戻している。そして誰もが、二人の狩人を見つめた。
「…お二人とも、もう武器を下ろしてください。抵抗は無駄です。」
 セインの宣告がなされた。
 周囲には村の自警団。そしてシロも守られている。彼らに、もはやできることなどないはずだった。
 ティーンの肩が震える。
 だが次の瞬間、彼は再び弩を構えると自警団にその先を向けた。
「…ざけやがって。おい、そこをどけ!」
「ティーンさんっ!」
「どうせもう逃げるしかねえんだよ!死にたくなかったらそこをどけ!」
 追い詰められたがゆえに、完全な自暴自棄になっていた。
 セインは青ざめた。
 とっさに、横に立つパルスに声をかける。
「パルスさんも、やめさせてください!こんなことしたってなんにもなりません!」
「―いちいちうるさいのよあんたはっ!」
 パルスもまた、激昂した叫びを上げた。
 そしてその杖を…セインに向けてかざした。
「大体最初っからあんたは気に食わなかったのよ!ちょっとえらい神官だからって小娘が偉そうに。―闇よその顎もちて我が敵を喰らわん(イ・ワント・ダリカ・ト・ウィトヒン・スォル・ヘ)!」
 言葉につなげて呪文が一息に唱えられた。
 セインは絶句した。
 唱えられたのは禁術とされる闇の魔法の呪文だった。―やはり手を出していたのだ。
 だがそれは確かに、セインら神官の使う光の魔法とは対立するものでもあった。対立属性なら魔力の強さが直接魔法の強さとなる。
「くっ、光よ我が前に(イ・アセ・リト・ト)…!」
 古びた杖の前に強大な闇の魔力が集中される。その力は強い。
 対抗すべく、セインもまた光の魔力を集中させた。
 高まる力に髪が舞い上がる。
 空気が張り詰める。
「…えっ?」
 場に似合わないその声は、パルスの口から洩れた。
 セインは顔を上げた。
 その向こうで、パルスが驚きの表情をしているのが見えた。
 その顔が次第に恐れへと変わっていく。
「な、何よこれ…!」
 杖を持つ手が震えていた。いや、杖自体が自ら震えているのだ。
「―パルスさん、手を離してっ!」
 異常に気づいたセインが叫んだ。
 だが、パルスは答えなかった。杖の振動も止まらない。そればかりか淡い光を放ち始めている。
 蒼白になったパルスの顔が恐怖に覆われた。
「い、いや…いやあああっ!」
 ―悲鳴が響いた。
 そして同時に、杖がその手を離れた。
 その場にパルスが倒れる。その上の空間に杖が浮かんで、その光を強めた。
「いけないっ!皆さん、ここから離れて!」
 セインが叫ぶ。周囲にもどよめきが走ったが、誰もがとっさの事態に動けずにいた。
 杖が一際まばゆい光を放ち、輝く。
 輝ける暗闇の中、何かの引き裂かれるような音が響いた。

 視界が戻った瞬間、そこには異質なものが存在していた。
 我知らずセインが呟く。
「あれは…。」
 熊よりもなお大きな体。短い灰色の獣毛がそれを覆う。額には真っ直ぐ伸びた一対の太い漆黒の角、そして同様の色を持つ四肢の爪と口から除く牙。さらには背に巨大な蝙蝠の翼さえも背負っていた。
 それは辺りを見回した。そして二本足で立ち上がると天を仰ぎ、割れんばかりの声で闇に向かって吼えた。
 空気が震えた。
「…灰色の悪魔(グレイ・サタン)。」
 現れた魔物は、その名に違いのない存在だった。
 セインでさえもその存在は神殿の本で知っただけだった。灰色の悪魔。この世とは異なる異界にすまうもの…悪魔の名をもつにふさわしい力をもつ存在だった。その腕は10の騎士をなぎ払い、その体は100の矢にも耐えるとも一説には伝えられている。誇張された伝説だとしても、伝説に名を残すほどの存在であることに変わりはなかった。
 自警団の中からも悲鳴が上がる。それには叱咤の声も飛んだ。
 それを聞いてセインは我に返った。
「―いけません!皆さん、散開して!」
 伝承に書かれていたことが事実ならば、その力は肉体的なもの以外にもう一つあるはずだった。
 忠告が届いたのか団員は入り口を離れてあちこちに広がっていく。
 その直後。彼らがさっきまでいた辺りを、灰色の悪魔の口から放たれた紅蓮の炎が包み込んだ。建物の入り口だけではなく周囲にまでその炎は広がっていく。
 セインは駆け出した。悪魔の足元にはまだ気絶したままのパルスが倒れている。
 悪魔の背後、熱気の中を走り抜ける。
 駆け寄ると同じくパルスを助けに来たティーンに出くわした。
「パルスさんを頼みます!」
「あ、ああ…。」
 有無を言わさず彼女を託すと、セインは転がったままの古びた杖を拾ってそのまま外に駆け出した。
 杖にはもう力はない。だがセインは空いた左手にそれを握った。
 悪魔の横を駆け抜ける。
 気配に気づいたのか悪魔が振り向いたが、構わずにそのまま通り抜けた。
 息を吸い込む音が聞こえる。
 すかさず飛びのいた横に、炎が吹き付けられた。
「大いなる光の壁よ、この杖を支えとして広がれ(イ・アセ・リト・ト・コヴェル・フィル・ヘレ・ビ)っ!」
 離れた場所で、右手に握っていた自分の杖を地面に突き刺す。
 その瞬間、杖からまばゆい光が放たれると見る間にそれは広がっていった。
 杖を基点としてそこから灰色の悪魔を囲うように円形の壁が造られていく。近くにいて戦っていたらしい何人かの団員が壁の内側に残ったままだったが、そこまでは庇うことはできなかった。
 同時に莫大な魔力が消費される。鋭い頭痛とともに体の重さが倍加したように感じた。
「生半可な攻撃は効果がありません!あと少し、しのいでください!」
 せめてもの助言を伝え、セインは立てた杖から手を離した。
 光の壁はかすかに輝きを失ったがまだそこに立っていた。しかし長くはもたない。
 セインは左手に掴んでいた杖を顔の前にかざした。
 この杖は本来の働きである魔力の集積具であると同時に、どうやら異界への門を造る力ももっているようだった。普段はその力が発動することはなかったが、パルスが闇の魔法を使ったのが引き金となって力を暴走させたに違いない。正しく使えれば再び門を造れるはずだ。
 灰色の悪魔にはまともに戦っても勝ち目はない。ならば、何とか異界へ送り返すしかない。
 視界の正面に相手を捉えて身構える。
 戦いの叫びや悪魔の咆哮…そして悲鳴が響き渡る。
 それらには耳を塞ぎ、セインは杖に彫り込まれた古代文字を読み上げ始めた。
「…闇の世界にありし大いなるものよ(ベ・エイト・ダリカ・ティヘ・メスレ・オネ)。この世界を光で守れし偉大なる(ヘレ・アイン・ツェセ・ティヘ・グリー)ものよ(オネ)。」
 この呪文は既に禁術として封じられ、今は伝わっていない。知っている人間は恐らく闇に手を染めた魔道士だけだろう。
 手にした杖が再び震え始める。セインは自分の魔力を自ら杖に注ぎ込んだ。
 既にかなりの魔力を消費した体にさらなる負担が加わる。崩れそうになる膝を必死で支えた。杖を握る手に震えながらも力を込める。
 杖は支配に抗い、貪欲にも与えられる以上の魔力を吸収しようとした。意志の力で強引にそれを抑えつける。
 その時、その魔力の高まりを感じ取ったのか灰色の悪魔はセインの方を振り返った。立ちはだかる団員をなぎ払い、セインの方に歩き出す。
「…今、ここに我の力もちて扉をつくる(ミ・ミディ・ボレン・ゲイト・シセ・ノウ)。扉の彼方の(オペル・ゲイト)…。」
 セインもその存在に気づいていた。だが動けなかった。
 杖を手放せば逃げられるだろう。しかしそれは灰色の悪魔に対抗する手段を失うばかりか、杖の暴走による新たな危険を呼び込むだけだった。―どちらにせよ、もう一度この杖を使う魔力は残っていない。
 セインは迫り来る悪魔を霞む視界で見つめながら、ただ呪文の詠唱を続けた。
 その時背後から突風が吹き抜けた。
 セインは目を見開いた。眼前に、灰色の悪魔に跳びかかる風に乗る獅子―シロの姿があった。
 その爪が悪魔の皮膚を抉り取る。だが悪魔の爪もまた獅子の皮膚を裂いた。赤と黒の血が飛ぶ。
 吹き荒れる風と炎にセインは思わず目を閉じた。だが呪文の詠唱だけは決して止めない。
 力の無くなりつつある腕で杖をもう一度握りしめた。
 最後の一節を放つ。
「…扉よここに開け(ゲイト・ヘル・リレイス)!」
 魔法の完成と同時に再び杖が爆発的な光を放った。
 一瞬の後、その光は消えてセインの正面には新たな空間が生まれていた。その中はあらゆる色が交じり合い、理解のできない混沌で覆われていた。だがその周囲を、そこを隔離するかのように仄かな光が取り囲んでいる。
「魔物を、こちらに誘導してください!異界に送り返しますっ!」
「わ、わかった!」
 頭痛をこらえて叫ぶ。まだ無事だったらしい団員の声が返ってきた。
 だが行動には移せなかった。
 互いに殺し合う魔物と魔獣の中に割り込むことなど不可能だった。包む疾風と時折上がる炎が何者も寄せ付けない。
 だがその中で、着実にシロの傷は増えていた。全身を覆う白い毛皮が既にほぼ赤く染まっている。
 セインは肩で息をつき、膝をついた。杖を地面で支えるようにして握りしめたうちの右腕をゆっくりと動かしていく。
 負荷のかかった左腕に激痛が走ったが、それでも手を緩めはしない。
 そして自由になった右腕を大地に押し当てる。
 搾り出すような声で唱えた。
「…大地よ、彼らを縛る枷となれ(イ・ホペ・ラン・ト・ドミナ・ツヘ)!」
 爪から血が噴き出した。
 同時にその手の先から地面が太い綱上に盛り上がり、荒れ狂う二匹の元へと真っ直ぐ伸びていった。
 その存在に気づいたシロが風とともに空に飛ぶ。一方の灰色の悪魔も背の翼で飛ぼうとしたが、傷ついた翼はその力をもたずにそのまま大地に縛り付けられた。
「やったか!」
 団員の声が上がる。
 だが灰色の悪魔は腕を振るうと、土の枷を砕いた。
 周囲の動揺の中、悪魔は怒りの咆哮をあげるとその枷の元に弾丸となって駆けた。
 そしてセインは再び両手で杖を支えた。
 もとより覚悟の上だった。灰色の悪魔を土に縛り付ける力などもはや残っていない。これは、怒り狂った悪魔を引きつけるためだけのものだった。
 正面には開いた門が待ち構えている。
 これなら…そう、セインが思った瞬間。
「―えっ?」
 その姿は目の前から消えた。
 灰色の悪魔は高く跳び上がり、がら空きの頭上から襲い掛かった。一瞬の出来事にセインは身動きすらできなかった。
 絶望の声。誰もが息を止めた、その時。

 一陣の風が吹き抜けた。
 セインの目の前で、シロが灰色の悪魔に背後からぶつかっていった。
 衝撃に悪魔の体はその下に叩きつけられる。
 そこに広がっていた門に、灰色の悪魔は雄叫びを残して飲み込まれていった。
 そしてその勢いのまま、風に乗る獅子もまた門の内に飲み込まれた。
 精一杯伸ばしたセインの手はシロに届かなかった。
 二匹が消えると同時に、莫大な魔力の負荷に耐え切れなくなった杖が悲鳴を上げて砕けた。
 門が消え失せる。
 そして、そこには何も残らなかった。

「そんな…。」
 それは一瞬の出来事だった。
 セインは地面に両腕をついた。背後では光が消え、壁も消失した。
 門のあった空間を見つめる。そこには、もはや痕跡すら残っていない。
 だがそこに一筋のきらめきが走った。
 セインは血に濡れた右腕をそこへと伸ばした。
 赤を下地にして細く、白い線が見える。
 差し伸べた手に触れたのは一本の白い糸―白い毛だった。
 わずかに残った風の魔力でそれは宙に浮かんでいたが、セインの手が触れると同時に自然と落ち、手の上に横たわった。
 握り締めた手の中で、かすかにそれは震えたようだった。
 言葉無くセインは叫んだ。
 衝撃か、悲しみか。あるいはその両方か。その場にいた誰もが、言葉を失って立ち尽くしていた。
 未だ残る炎だけが音をたてていた。
 それは人々を、村を、夜空を、そしてセインの涙に濡れた瞳と震える長い髪を紅く照らしていた。


 セインが目覚めたのは翌日の昼過ぎだった。
 窓からは目に痛いほどの太陽光がさしている。その向こうには雲一つない青空が見えた。
 ベッドに横たわっていた体を起こすと、全身に鈍い痛みが走る。だが体の動きには支障が無いようだった。
 唯一不自由なのは右腕だ。五本の指の先にはいずれも包帯が巻かれていた。動かすとまだ刺すような痛みが走る。
 身支度を簡単に整えると、部屋の片隅に置かれていた杖を左手にセインは部屋を出た。

 昨夜の場所、社の前に到着する。
 そこでは自警団の団員とその他の人々が建物の撤去を行っていた。焼けた瓦礫を運び、壁の取り壊しも始まっている。
 主を亡くした社が無くなろうとしていた。
 セインは、その中で一人廃墟を見つめて立つ人物の元に歩み寄った。
「…おや、体はもういいのかね?」
 振り返ったのはビルタだった。
「はい。」
 セインはうなづき、ビルタの横に並んだ。
 そして一度うつむくと、毅然と顔を上げて言った。
「私のせいで、このような形でシロを失うことになり…申し訳ありませんでした。」
 そして頭を下げた。
 そこに優しげな声がかけられる。
「いや…あなたはよく頑張ってくれた。謝るべきはこちらの方だろう。―すまなかった。」
 顔を上げたセインの目の前で、ビルタが頭を下げた。
 セインは慌てて首を横に振る。
「私があの時に決断できていれば、少なくとも彼らの暴走を防ぐことはできていたはずです。…彼らは?」
 家にはティーンとパルス二人の姿が無かった。彼らが使っていた部屋からはその荷物もなくなっていた。
「狩人の二人なら、団の詰所に預けてある。明日にでも街に引き渡すことになるだろう。」
 ビルタの言葉にセインはうなづいた。
 同時に複雑な心境になる。彼らの罪は許すわけにはいかない。だが、元を辿れば彼らの罪を犯させたのは自分ではなかっただろうか。
 セインの見せた表情に何かを感じたのか、ビルタは言葉を続けた。
「…理由はどうあれ、我々は彼らを許すわけにはいかない。シロを狙った狩人としてな。」
 そしておもむろに小さな包みを取り出した。
 指ほどの大きさのごく薄い紙包みだ。広げるとその中には一筋の毛があった。
「これを、受け取ってくれ。」
 ビルタはわずかに迷ってから、セインの右腕を取るとそっとその上に包みごと置いた。
 セインが顔を上げる。
「これは…そんな、受け取れません!」
 手を差し出したセインに対しビルタは首を振った。
「我々はもう十分シロに守ってもらった。これは、ぜひあなたが持っていてほしい。」
 ビルタの目には力強さがあった。
 その中に何かを感じ取り、セインはうなづいた。
「分かりました…ありがとうございます。」
 杖を脇に寄せ、左手で不器用に包みを戻す。そして軽く握った。
 手には紙の感触しかない。それでもその存在にセインは微笑んだ。
 一筋の涙がその上に落ちた。

「おねえちゃーん!」
 幼い声が響いた。
 セインはそっと目を拭うとそちらに振り返った。
 駆けてくる小さな足音。少年はセインの目の前まで真っ直ぐ走ってきた。
「おねえちゃん、ありがとう!」
 そして目の前で彼はお辞儀をして、笑った。
「え…?」
 その言葉に戸惑う。
 イーノは、嬉しそうに言った。
「おねえちゃんが守り神様のお手伝いをしたから、悪い悪魔はいなくなったんでしょ?」
 セインは驚きに目を丸くし、ビルタの方を見た。
 ビルタは無言で小さくうなづくと、少しかがんでイーノに語りかけた。
「そうだよ。この人が頑張ってくれたから、村は大丈夫だったんだ。」
「うん。」
 大きくうなづく。
 そしてビルタはこう続けた。
「だから、今度は君が頑張ってこの村を守るんだぞ。」
「うん!」
 イーノは力強くうなづいた。
 そして自分に向けられた誇らしげなその表情に、セインは驚き、次いでうなづきを返した。
「…じゃあ私はこの人とまだ話があるから、向こうに行ってなさい。」
「はーい。」
 返事をするとイーノは再び駆け出した。
 その途中で振り返り、大きく手を振る。
「ばいばーい、またね!」
「ばいばい。」
 セインも笑顔を見せて手を振り返した。
 そして再びビルタに向き直る。
「これは…。」
「…守り神はもういなくなった、そのことは伝えた。」
 ビルタの言葉にセインは静かにうなづいた。
「だから、今後はこの村を自分たちで守っていかねばならないと言ったのだ。」
 ビルタは主を亡くした社を見つめた。
 その目が遠くを見るかのように一瞬細められ、すぐに元に戻って人々を確かに見つめる。
「そう…ですね。」
 セインの言葉にはかすかに揺れがあった。
 それに対し、ビルタは微笑みを返す。
「村の伝説も再び書き改めねばならないな。…23年ぶりだ。」
 それは彼が村長に就任した時。そして、あの本が記された時だ。
「守り神は再び現れた魔物と戦った。村人、そして…神官と力を合わせて魔物を退治し、それを封印するために旅立った。―それが新たな伝承となるだろう。」
 事実の側面。それは語り継がれ、信じられて真実となる。
「…それでよろしいかね?」
 ビルタの問いかけにセインはうなづいた。
「ええ。」
 同じく社とそこで働く人々を見つめ、答える。
「守り神は、人々を守ったのですから。…そう、神殿にも伝えます。」
 それは決して嘘ではない。
 この村には白き守り神がいて、それは人々を守り姿を消した。それこそが事実。
 セインは包みを手にした左手を胸元に当てた。
 人々の明るい笑い声が聞こえる。笑顔が見える。
 ―そう、光は人々を守るために闇を払ったのだから。

「それでは、私も手伝いますね。」
 セインはそう言って杖を手にした。右手で確かに掴む。
「怪我はいいのかね?せめて今日ぐらい休んでくれ。」
「いえ。無理をしなければ大丈夫ですから。」
 晴れやかな、全てを受け入れたこの青空のような笑顔を見せてセインは答えた。
 苦笑交じりの微笑でビルタもうなづく。
「ありがとう。みな、あなたには感謝しておるよ。」
「…私の方こそ、ありがとうございました。」
 もう一度一礼をする。そして顔を上げて、社へと向き直った。
 太陽が大地を照らし日光が人々を包んでいる。
 柔らかな風が白いきらめきを残してその中を吹き抜けていった。

 セインは歩き出した。その瞳で、前を見つめて。


                        <end.>







<せっかくだしこれも載せちゃおう>

 あとがきのたぐいのおまけ。   by.いづみ。

…や、やっと終わったーぁぁぁっ!!(叫)
というわけでっ!“Black Light特別編 -True Belief-”はいかがでしたか?
はい。旧三部作のリメイクシリーズその1。栄えあるトップバッターは、ひたむきな神官少女のセインちゃんの物語でした!(テンション高)
なんかもう色々とパワーアップしてます。セインちゃんはけなげさと言うか真面目さと言うか実際のところは苦労っぷりがアップ!それから『シロ』の愛らしさもちょっぴりだけアップ!さらには不幸にも狩人二人組の悪役さが大幅にアップ!でもって村長さんはおいしいところかっさらってかっこよさが大幅にアップ!ついでに実は作者の煩悩的お遊びもワンアップ!(?!)…でも、何よりすごいのは、ページ量が実質二倍近くに大幅アップっ!!(驚)
…えー、ではそれぞれの解説。
セインの苦労っぷりは言わずもがな。何か今回は流血までしてます。そして仕事の都合で色々と苦悩もしてます。あら大変(ヒトゴトのように)。まあ旧作での予想外に露わになってしまった小狡さは払拭できたからいいや。彼女はけなげなコなんだよ。こんな作者にはもったいないぐらいに(笑)。
それからシロ。何かあまり目立ってなかった気もするけど、それはそれ。ってゆーかポイントはもうこれしかないでしょう!『魔獣は喉を鳴らし、目を細めた。』(本文抜粋)…ああもうすっかりネコ状態じゃないか!すばらしいっ!(萌)やっぱ猫科の動物のたしなみとして爪・爪・牙の三回攻…じゃなくて喉ゴロゴロは必須ですよ。いやあもう可愛いんだから。
で、今回一番の不幸キャラだった狩人コンビ。…なんでこんなことになったんだ?(汗)プロットではここまで想定してませんでした。せいぜいシロやセインに攻撃を仕掛ける程度で済むはずだったのに…気がつけばすっかり犯罪者。おっかしいなあ…。やはりこれは、彼らのキャラが作者の筆を離れて暴れたということにして(言訳)。
それからすっかり目立ってしまった村長さん。旧作ではシロを守りに現れはしましたが…まさか身代わりとなって凶弾に倒れるとは予想外でした。うーむ…おいしいよなあ。一人でいいとこもってっちゃってるよ…。おかげでその他の村人はかっこよさというか出番がなくなりましたが。
あと煩悩的お遊びは…(殴!)と、とりあえず黙っときます。所詮は自己満足だし!(爆)まあ最近のペーパーとか見たり作者と会って腐れ的趣味トークをしたりしていればあるいは検討がつくかもしれませんが。…でも何も言われずに見抜いたやつ、てめーも同じ堕落者だ~、腐女子仲間だ~。(←電波発生中)
んじゃ最後に総量について。1P自体の文章量はほとんど変わってないから、本文のP数だけを見ると…11+11=22だったのが今回は21+24=45。…うわ、やっぱ二倍あるし!まあ原因はいくつかありますね。一つには伏線の張りなおしやシーンの増加。いくつか変更点や追加シーンがあるので、旧作を持っている人は見比べてみるのも一興かと。そしてもう一つは、単純に文章の変化です。昔よりは描写も増えたし。さりげに改行も多くなっているし(秘)。これも、進歩の一つということでとりあえず笑って受け流してやってくださいな(苦笑)。
しかしこうやって今、改めて読み返すと感慨深くもあります。これの執筆が確か高校二年生。…あれからもう四年もたってるのか。そりゃ文章も変わるわ。(とか言いつついくつかの表現とか描写はそのまま使ってることに関して―しかもよりにもよってクライマックスの辺りの―は気にしない方針で)
まあ、今もこうして好き勝手に文章を書けていること、そして読んでくれる人がいることには幾ら感謝しても足りない気分ですね。
…シリアスは終了!(強制)それでは今後に関して。ってゆーかもうすぐに長らくお待たせして申し訳ありませんでしたのB.L.-2を書かなきゃいけないんだよぉっ!!(涙)もう一週間もしたら書き始めます(マジ)。まだ話のプロットが未完成なんだけどなあ…それにこの一週間で学祭用の短編10Pも書いとかなきゃいけないんだけどなあ…(嘆)。
まあイロイロせっぱつまっていますが、読者の皆さんが待っていてくれる限りは、作者はクーラーの無い灼熱の部屋で(実話)カンヅメになって半死半生の目に遭おうとも執筆をしますのでご安心を!意地でも10月半ばには発行しますよ!…学校あるし(死)。
それでは今回のすちゃらかトークはこの辺で。いつものごとく、感想やイラストやその他もろもろのお便りは募集しています。どうぞ彼女に清き一票を下さいな!(違)
じゃ、これにて失礼いたします。次はB.L.-2の後書きでお会いしましょう!
またね~☆



 裏ではないけど裏話。

今回は旧作の裏話でも語った、この世界における魔力や魔法についてちょこっと紹介いたします。

★魔力の現れについて。
この世界では、エルフや人間やハーフキャットと言った人(ヒト)と総称される生物はいずれも多かれ少なかれ魔力を生まれつき持っています。で。何度も本文中で語っているのでいい加減分かっているとは思いますが、この魔力の強さが髪や瞳の色となって示されます。その色は誕生石の色と同じになります(ただしダイヤモンドだけは例外的に銀色になる)。
その中でも体質的にエルフは鮮やかな色の髪を持ち、人間は元々の黒色を基調とした髪となります。(元々の魔力量にもそれなりに差がありますが。)ちなみにハーフキャットは人間寄りのはずだけど、不思議と色が出やすかったり。
というわけで本来なら黒髪のエルフはいないんだけど…まあナシィさんに関しては作品を参照のことってことで。(その秘密にまつわるあの話もちゃんと移植しますから…そのうち。)

★魔法について。
この世界の魔法は、中心的なものは主に三種類に分かれます。
光の力を使う聖魔法。これは神官が使いますが大抵の魔法使いも多少は使えます。治療などに必須。
土水火風、四元素の力を使う精霊魔法。魔術士や精霊使いが使います。扱いやすい多様な力が特徴。
そして闇の力を使う闇魔法。これは禁術とされ、使う者は魔道士と呼ばれます。いわば諸刃の剣。
→というのもこの世界の生き物はその性質として光を帯びているため、闇魔法を使うと力が足りない場合闇に引き込まれてその姿を魔物へと変えたりモノによっては死に至ることもあります。だからこそ、人間の間では神官を中心に禁術として制限をかけているのです。(実はエルフは問題なく使えるのだが、反生命的なその力を忌み嫌っている。)
…セイン、よく無事だったよな。
なお、エルフと人間の使う魔法は呪文などに違いがありますが本質的には同じものです。魔力の総量や性質に応じて自分にあった形をとっているだけなので…他作品と比較してみてください。
で。ここからはホントの裏話。属性についてちょっと解説。
光→リト 闇→ダリカ 火→フィレ 水→ワテル 風→インダ 土→ラン
よーく見てみると…そこはかとなく英語をもじっているような(汗)。
というわけで、この世界の全ての呪文は英語をひねって作られています!だからその他の言葉もローマ字にすると何か分かるかもしれません。…捻りすぎてるけどさぁ。
ちなみに呪文構成には公式めいたものもちゃんとあるので、お暇な方は調べてみても。

今回の裏話はこれくらいで。ではまた次回お会いしましょう!


<ぼやきのコーナー>
髪の色と魔力に関しては個人的にこだわってます。だって遺伝とか完全無視の、意味も無い鮮やかな頭髪の流行はどこか納得いかなかったので。いや、ビジュアルが良いから別にいいんですけど(爆)。まあ自分の書く世界ぐらいは納得いくようにしたいとこのように勝手な法則をでっちあげたんですが。
でその問題点。髪と瞳の色のバリエーションが限定される…ってゆーか同じ色になるし。
…まあ、それも仕方ないってことで。髪の色を見た目だけ変える毛染めぐらいはこの世界にもあります。もっぱら裏で使われる変装用に限られてますが。
そのくせ魔法とかは実にいい加減な構成しているからなあ…。
エルフの魔法なんか毎回創りあげるのにひどく苦労してるし(←バカ)。

それではさようなら~。




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