「ロッキンシューズと残夏の猫」
燕子花


 トンネルを抜けると雪国であった。という有名な文を思い出しながら、僕は少なからずワクワクしていた。
 夏の終わりのこの時期に、トンネルを抜けた隣県が雪国であることなどないのだが、トンネルを抜けるという事象は、どこか異世界に繋がっているのではと想像が掻き立てられる魔性を秘めた事象なのである。
 僕にとってこの列車の行き先は初めて訪れる土地であり、異世界ではないにしろそれに準ずる地であるのだ。
 ガラガラに空いた特急車両の中で駅弁に舌鼓を打ちながら、これから向かう行き先に思いを馳せていると、やはり旅というものは良いものだという気分になる。
 僕は空になった駅弁の容器を脇に長いトンネルを抜けるのは今か今かと待っていた。

 僕、団栗坂木楢がこんな田舎行きのディーゼル車に乗って旅に出ることになった経緯を話すには少し時間を戻さなければならない。
 この昔に起因するというのは至極当然であり、順当な流れではあるのだが、この物語に置いてその当然は重要だ。
 この物語は少女と僕の物語であると同時に、少女と時の物語でもある。
 故に時の流れを丁寧に、追う必要がある。だから僕はここで重要な部分を落とさないように、要点のみを抑えたダイジェストにならずにこの旅に至る経緯を話そうと思う。

 その日は雨の日の次の快晴な真夏の一日で、嗚呼これが日本の夏。という感想が漏れてきそうな蒸し暑く、セミがやかましい日であった。
 クーラーが普及した今日日、こんな暑い日は外なんかに出ずに快適な室内で素麺でもすすりながらお昼の再放送でも見ていればいいものだが、僕は駅のベンチに腰掛け、汗を垂らしながらスマホでソシャゲをしていた。
 所謂待ち合わせである。
 例えばこれが恋人との逢瀬ならば僕は舌打ちなどせずに済んだかもしれない。だが現実は違う。僕が待っていたのは男友達、彼富雄であり、そして彼は約束の時間になっても現れていないのだった。
『遅刻だぞ!?』というLINEは送ったが既読の二文字は付かない。これは彼がまだ寝ているという可能性も考えられるが、彼が原付きの運転中であるという可能性も考えられる。
 真面目なんだか適当なんだかわからないような奴ではあるが、信号待ちの時などにしれっと携帯を取り出すような運転をする奴ではないため、僕はいつまで待てばいいのかわからない待ち合わせに舌打ちをするしかなかったのだった。

 どれ位待っただろうか。僕は駅舎の脇にある自販機で微炭酸な黄色いジュースを買った。汗で失った水分と、暑さにうだる肉体に、炭酸水で癒やしを与える。時の流れというのは鈍いもので、こんなことをしていてもまだ十分も経ってない。
 彼がここまで来るのに原付きで一時間弱はかかる。奴も一緒に電車で来ればいいものを、原付きを手に入れ乗りたい盛りな奴は郊外の駅前のドーナツ屋に行くのに最寄り駅を集合場所としてそこまで原付きで乗り入れるとかいう約束をしてきやがったもんだから、とっても面倒くさい。
 そんな愚痴も炭酸水で飲み込んでシュパッと弾けさせる。空は明るく、油絵のように不透明な青空と、立体的な雲が入道とはいえない大きさでポツポツとある。
 やかましく鳴くセミ、時折走り抜ける自動車、休日の昼間の駅前と言えど、都会でなくド田舎でもないこの町の駅前は、コンクリートとアスファルトがジリジリと暑いだけの、人の少ない空間だった。
 まー、こんな暑い中出たくないよなぁ。
 天気予報で言っていた最高気温を想起しながら足元に何かいるのを感じた。
 ん? と見ると猫。
 白よりの灰色に黒い模様。たしかアメリカンショートヘアって猫だったと思う。
 猫が突然現れたことには驚いたけど、特段性格の荒い子ではなさそうだしと、ぼんやり眺める。
 猫は僕の靴先をスンスンと嗅いでいたが、僕の視線に気付いたのか、フッと顔をこっちに向けた。
 ヒュッと猫が後方に飛ぶ。見られていることに驚いたようだ、しかし、僕がただその様子を眺めているだけだと分かるとジリジリ警戒しながら近寄ってきた。好奇心が強いのだろう。
 再び僕のつま先まで来た猫はフャーオと無く。僕は変わらずぼんやりと眺める。すると、猫は僕の靴に前足を乗せてきた。
 お、お?
 まさかこう触れるところまで来るとは思ってなかっただけに僕は少しドキドキする。
 いや、たかが猫一匹なんだけど、こうなんというか。幸せな気分になる。
 どういう化学反応が起きているのか知らないが、僕は猫一匹に幸せになれるんだなぁと思うと、このムカツク待ち時間も悪くない気がした。
 いいかな、ちょっとだけ。
 僕はスッと前屈みになって猫に触れようとしたその時だった。
「ヘイッ! 元気ぃ!?」
「ミャッ!」
「あぁ!」
 三者三様な反応で一人と一匹のふれあいが、一人と一人のやり取りに変わる。僕からしたら癒やしがイラツキになってしまって残念な気分になる。
 しかし、原付に乗ってやって来た彼はそんな俺のことなど知らずに謝る。
「いやぁ、ごめんごめん。ちょっと道に迷ってさぁ。やっぱダメだわ。ちゃんと道順調べるって大事だわ。ホントね、って聞いてる?」
 お前に対してムカツいてるのは、そのこと以上に猫が逃げてったことなんだがなぁと思いながら無視する。
「おいおい、そんなむくれるなよ。女子かよ。」
 ぶー、黙れー。と棒読みで思いながら僕はベンチから立つ。
「さっさと行こうぜ。暑くてやってらんねー。」
 去った猫をどうすることもできない。僕は未練を空になったペットボトルに詰め込んで、駅のゴミ箱に投げ捨てた。

 アメリカ発祥で最近全国にチェーン展開しまくっているドーナツ屋が地元にできたとかで、オープンセールを行うそのドーナツ屋は賑わっていた。駅前の人気の少なさはここに人間を取られていたからか? と思ったけどそんなわけ無いかとドーナツが並ぶ棚の前に並ぶ。食べたい奴を自分で取って最後にレジ前で精算するスタイルだ。
 精算を済まし、運良く空いた席に座る。店内で食べることも、持ち帰ることもできるため、客全員が席に着くわけだはないのだけど、混雑しているよえ、満席となっている。
 なかなか来ない彼に僕はドーナツに口をつける。ケバケバしいアイシングのされたドーナツは、大して美味くもなく。普通だった。
 これ、二つもいらなかったかなぁ。と四分の一食べたところでお腹に溜まりだしているのを感じながら思う。よくよく考えると、これはミスドのやつより一回り大きい。そらお腹も膨れるわけだと思う。
 そんなことを考えているとそんな僕を嘲笑うかのようにドーナツを積んだ男が向かいの席に座った。
「いやぁ、どれも気になってつい買い過ぎちまった。」
「買いすぎちまったって、おい。」
 何だその山盛りは。太るぞ。と思いながら彼の腹を机越しに見るが、その腹はスマートだ。
 そういや、コイツは筋肉質だったなと思いだして舌打ちしたくなる。
 彼は運動系のサークルに入っているわけでもないのに、無駄に体が引き締まっている。なぜだ? こんなに食うのに。
 彼はぱくとドーナツを大口で食う。一口で軽く三分の一個食べて僕の食べた量を上回ってしまった。
「あれ? お前少なくね?」
 一個食い終わる彼が言う。
「お前が食い過ぎなんだよ。太れよ。」
 僕がメロンソーダのストローを咥えながらそっぽを向くと彼がワハハと豪快に笑う。
「太れよてなんだよ。そんな文句聞いたことねぇよ。」
「あっそ。」
 コイツに悪態ついたところで微塵もダメージが通らないから面白くない。
「ところで彼、なんか渡すもんがあるんじゃなかったか?」
「そうだったそうだった。欲しい?」
 嬉々とした顔で『欲しい?』と聞かれたが僕は何が渡されるか知らないのだから、全く反応に困ってしまう。そんな俺の微妙な反応に、彼の顔がしょぼんとした。
「なーんだ。そんなもんか……。」
「そんなもんかと言われてもなぁ、何渡されるかも知らねぇのに喜ぶことはできねぇだろ。」
「あれ、言ってなかったっけ?」
 そのことに気付いてなかったのか。単細胞め。
「仕方ねぇ。じゃぁ見せてやろう。」
 ふっふっふーと得意気な彼が鬱陶しい。たいそう凄いもんだろうなと僕は勝手にハードルを上げてコイツへのムカツキを大したことねぇなという鼻先での笑いで飛ばそうと準備する。
「じゃーん!」
 そんなセルフSEで彼が取り出したのは温泉宿の宿泊券だった。
「え、これくれんの!?」
「おぅよ、俺この日用事あってさ。」
 手にとって見ると確かに九月十二日水曜日とその翌日の二泊という指定日のみ有効だった。
 しかし、暇な僕には関係ない。お前、いい奴だな! って現金に思う。調子乗るから口にはしないけど。礼ぐらいは言っておく。
「……あ、ありがとう。」
「へへへ。」
 クッソ、コイツ嬉しそうだな。
 いい笑顔をしやがるコイツに礼すらもいらなかったかと思うがまぁいいかと券を眺める。
 実はというほどではないが、僕は温泉が大好きだ。
 具体的な事件はないが、ある日入った何の変哲もない温泉で温泉が好きになっていることに気付いた。。気付くとと温泉を好きになっていた。なんだろうか。体力の衰えと休息のすばらしさを感じてからだろうか? 好きなスポットは布団の中と湯船の中である。これは断言しよう。そしてそれを揃えた温泉宿は最高である。
 そういうことで、僕は温泉宿を目指し、旅に出ることになったのだ。

 雑になってしまった気がしなくもないが、この程度回想するといいだろう。
 つまり、僕は友人に貰った温泉宿の宿泊券を使うために旅に出たのである。
 友人に温泉宿の宿泊券を貰った。その過去があるからこそ、今、僕が旅に出ているという結果があるのである。

 さて、話を元に戻し、僕の旅の話に戻ろう。
 目的地は訪れたことのない土地の温泉宿。山櫻荘という名からして和風の宿だと思うが、それが民宿の感じなのか、旅館の感じなのかは分からない。敢えて調べずに来た。期待に胸を膨らむ未知との遭遇そういったものが旅の楽しみだと思う。どうもプラン立てた旅が苦手なのだ。
 トンネルを抜けるとそこは鬱蒼とした森の中だった。トンネルに入る前と変わらない。変わり映えのしない景色に少し残念な気分になる。
 しかし、すぐさま森を抜けると、そこは今までとは全く違った風景だった。田舎である。ド田舎である。
 一面に広がる畑にポツリ、ポツリと建つ家、トラクターが畦道に止められ、カカシが立つ。そこは都会でないそこそこな町出身の僕からしても驚くような絵に描いたような田舎だった。
 うわぁ、こんなところにあるのか!? 到着予定時間がもうそろそろだなスマホのホーム画面に見る。ふと、画面の左上に圏外と出ていることに気付く。
 まじか、ひょっとしてここずっと圏外?
 ますます異世界感溢れる感じで興奮する。言葉にすれば『おぉ……。』といった感じだ。

 無人の駅をを出る。蛙の声なんか聞こえるそこは砂利の敷き詰められた駅の駐車場。話によるとここから一本道のはずだが、道は右と左がある。どっちなんだろうとキョロキョロしていると、線路沿いの木陰に一人の少女がいるのに気付いた。身長はそんなに高くない。肉付きは薄目な彼女はまさしく少女という歳なのだろう。
 そして特筆すべきはその格好である。
 少女のお召し物は、いわゆるゴスロリ服である。本当に正統的なゴシックの色合いで、ひらひらのフリルがふんだんにあしらわれたドレス。長袖にロングスカート。白い手には日傘を持ち、スカートの中からは白い靴下に包まれた脚にロッキンシューズ。
 ロッキンシューズ? こんなのを履いている人が未だいるのかと思った。
 ロッキンシューズ。それは十年ほど前に流行った厚底の靴である。中でも靴底が木製で、つま先に向かってせり上がりったヴィヴィアンのロッキンホースが有名だ。
 そんなロッキンシューズを履いた少女がこちらを見てニコリとする。
 そしてツカツカと少女は近づいてきた。
 え、僕に用?
 見知らぬ奇っ怪な少女の接近に戸惑う。そうこうしている内に少女は僕の目の前まで来ていた。少女は日傘の持たぬ右手でスカートをつまみ、会釈する。
「お待ちしておりましたわ。木楢様。」
 え……。なぜこの少女は僕の名前を知っている。そう思っている間に僕の右手は少女にとられる。
「さぁ行きましょ。私達のハネムーンはこちらです。」
「は、ハネムーン!?」
 なんとも身の親しみにない言葉に驚く。ハネムーンってあれだよな、新婚祝いに行く旅行。
 少女の言葉を真に受けると、この旅は僕と少女のハネムーンであり、僕と少女は結婚しているということになる。
 う、まじか。
 確かに、少女は可愛い。すぅっと引けるような白い肌、ほっそりとした首筋、触れると壊れてしまいそうに薄い肩、スラリと伸びた腕に長い指。慎ましやかな胸からよどみなく流れる腰のクビレ、フワと花咲く漆黒のセミロングスカート。眩しく白いソックスに包まれた脚の先にはコロリ厚い木製の底を有するロッキンシューズ。
 そんなスラッとしたロリータ体型の中には色っぽいラインが出始めていて、その上で少女の顔は無駄のなく整ったものだった。
 吊り気味の目、スッとした鼻筋、白い肌に刺された唇の紅。
 清く、美しく、幽遠で。その存在自体が異世界に通ずるゲートではないかと思えるほど妖艶で、狂おしい。
 そんな少女と結婚していたということが事実ならば、正直なところ嬉しい。男として、下心を持って近づきたくなるような少女だ。容姿も第一印象もクるものがある。
 しかし、彼女とは初対面のはずである。こんな印象的な美少女を忘れているとは考えにくいし、僕は結婚というものにまだまだ縁遠い人間だったはずだ。
 女子の友達はいる。しかし、恋仲になった女子はいない。
 なぜだろうか? そういった感情を抱いたことがなかった。だからかは知らないけど、そういった話になったこともなかった。
 だから、僕が今抱いている感情、これは恋愛感情なのか分からない。
 僕とハネムーンに行くという少女に惹かれる。しかし、これは好みの容姿に雰囲気を持っているからで、少女のことを想う自分なんて自己中心的だ。
 元来僕は自己中心的な人間だと思う。そして今も、少女と仲良くなれたら、恋仲になれたら、ずっと一緒にいられるなら良いかもと自分が良いと思うことを考えている。
 そんな僕と結婚だなんて、いいんだろうか? 僕より頭一つ下な少女の後ろ姿に思う。
 そんな僕の悩みを知ってか知らずか、少女は言葉を投げかけた。
「そういえばまだ、私の名前を名乗っていませんでしたね。」
「あぁ、やっぱり初対面か。」
 少女の言葉に安堵する。僕は初対面の少女にハネムーンへ行くと言われていたのかと、少しこの現実が軽くなるのを感じた。
 見知らぬ女性に知らぬ間に何かしらあって結婚話を持ちかけられた。そんなドロッドロのドラマ展開も頭の片隅にチラとよぎってもいたらしい。
 しかし、少女は続きを話すのに間を置いた。
「……えぇ、えぇそうね。初対面。」
 え、なにその間。実は何かあるのか? それもおいそれと口にできないようなことが。
 ドロドロ展開が引き返した思いきや脇道から主線に乗ってきて、先よりもビクついてしまう。
「ちょっと待って、初対面てことでいいんだよな。本当の本当に。」
 後ろ姿な少女の表情が見えない。そのことが余計僕を不安にさせた。
「えぇ、初対面よ。正真正銘初対面。」
「そうか。うん。」
 僕は一先ず確認をとって心を落ち着かせた。なぜだろう、気になる少女に腕を引かれてるという状況なのに全くもってこの瞬間は恋のドキドキではなかったと断言できる。
 さて、となると初対面の少女とハネムーンに向かっていることとなるのか。頓珍漢な状況に陥ったものだ。
「そろそろ名乗っても良いかしら? 貴方の伴侶である私の名前を。」
「そうだね、うん。」
 取り敢えず状況が分かってきた。ほとんど何もわかっていないことが分かったことで、僕は少女の話をしっかり聞くことにした。
「私の名前はヒメ、旧姓は香田よ。今は団栗坂ヒメね。」
 ヒメってどこかで聞いたことあるとも思ったけど、何かのキャラクターで有りそうだなと思いながら、そうか、少女の姓も団栗坂になるのか、と思った。当然っちゃぁ当然なんだけど、結婚が当然じゃないから当然になれない事実に気付く。
「ところで……。」
 これはどう呼ぶべきなんだろうか? 初対面で舌の名前で呼ぶのは抵抗あるし、かと言って旧姓と言い切られたもので呼ぶのものなぁと思う。ましてや結婚がピンときてないのに団栗坂さんなんて変だし。
「ヒメ、ヒメとお呼び下さい。」
「お!? おぉ、じゃぁ、ヒメ。」
『ん?』ってヒメがこちらを振り向く黒目がちな目で覗き込まれるのはとっても可愛くて良いんだけど、僕はそれを素直に喜べる状況じゃなかった。
 心でも読めるのか? と思ってしまう。僕が呼び方に困っている所ですぐさま指定してきたのが妙に気になってしまった。
 会話の流れ、僕の表情、仕草。そういったところから、所謂空気を読むというやつでタイミングよく指定してきたというのもあるだろうが、それにしてもドンピシャ過ぎてちょっと怖い。 
 しかし、そんなところで止まっていては一向に進まないので話を先に進める。
「ヒメは何歳なんだ?」
 この国には十六歳未満の少女は結婚できないという法律がある。突然のハネムーンに行くのもおかしな話だけど、ヒメが十六に満たない少女ならば尚のことヒメの事を気にかけねばならない。それは愛しいというわけでなく、保護しなければという意味でだ。
「木楢、女の子に歳を尋ねるのは失礼よ。」
 しかし、ヒメは素直に教えてくれなかった。どうしようと僕が思うのと同時、ヒメが続ける。
「でも、そうね、木楢が木になっていることは教えてあげる。十六よりはちゃんと歳を取っているわ。」
 フフフと笑むヒメに胸の奥がグッと掴まれたような感覚になる。
 まただ、また思考が読まれてる。
 そう思ってしまうような、単に感が鋭い、察しが良いなんて言葉で片付けられないほどヒメの悪戯な笑顔は深みがあった。
「それにしても。」
「ん?」
 僕がヒメという少女の謎めかしい妖艶に一人恐れている所にヒメが話を振ってきた。
「いえいえ、それにしても。木楢がちょっと警戒的で、私チョットつまらないなぁと思いましてね。」
「え、あぁ、すまん。」
 謝ってしまった。不可思議な現状で警戒するのは当然で、謝る必要はない気がするが、謝らないといけない気がした。それは反射じゃなくここは素直に従わないといけないという直感でだ。
「まぁ良いわ。今から少しお話しましょう。」
 従順な僕の態度がお気に召したのか、ヒメはニマリと笑む。
「そういえば木楢、貴方は今大学生でしたわよね?」
「え? まぁ、うん。そうだね。」
 ヒメはまたしても僕のことを知っているのかと思う。しかしもうそれは不思議でないと思える自分がいた。
 ヒメの深みは、もうなんでも知ってるんじゃないかと僕に思わせていたのだった。
「大学は楽しいかしら?」
「うーん、楽しいといえば楽しいかな。こうして旅に来る余裕を作ることもできるから。」
「作る?」
 ヒメはコクリと首を傾げてみせる。十六は超えているらしいが、その仕草は実に幼気で可愛らしかった。
「そう。なんというかな。時間もあるし、お金も少しはある。でもそれって何もかもができるほどではなくて、何に使うか自由に選べるけど選べる量というのは決まってるんだ。」
 ヒメは静かに聞く。そして、一間置いて口を開いた。
「それって当然じゃないのかしら?」
「当然。まぁ当然かもしれない。」
 時間もお金も、用途は明記されてないが、手元にある量なんて限られている。それは多分、そうなのだろうとなんとなく感じる。
「でも、でもさ、なんというか大学に入って改めてそのことを思ったんだ。」
 当然かもしれないが、その当然は僕が大学に入るまで実感しなかった当然だ。
「高校まではさ基本的な生活パターンってのが意図せず決められていたんだ。学校の登校時間だったり、家族との夕食だったり。でも、大学入って、一人暮らしを初めて、そういったことは大きく変わった。同期の連中の間でも、登録した講義の違いとか、そもそも授業でない奴とか、人によって学校に行く時間も違えば、一人で食べるご飯なんて好きな時間に食べればいい。そんな風に時間というのがそこにあって、それをどう使うかというのは自由に選択できるというのは、大学入って初めての経験と言ってもいいほどなんだよ。」
『ふーん。』とヒメは聞く。十六を超えているといえば高校生は経験しているはずだから、僕の言った生活パターンの拘束は実感できると思ったのだが、ヒメはそんな素振りを見せなかった。それどころか逆に聞いてくる。
「高校生の時とかはその当然に気付かなかったの?」
 ん? ひょっとしてヒメは高校生の時からこういった感覚を持っていたということなのか? 僕の中でそんな答えがすんなり当てはまった気がした。
「まぁ、そうだけど。だってそうじゃない? 同じ高校の奴が同じ時間に登校して、同じ時間の区切りで動き、帰る。ここは家庭によるかもしれないけど、僕の家だと母親と弟と一緒に晩ごはんを食べて順番にお風呂に入る。そして明日に響かない程度に、時には少し響く程度に夜更かしして寝る。っていうリズムが基本で、それ以外は無いみたいな感じじゃない? 部活があったりする奴もいるけど、大枠的にはだいたいそんなもんじゃないかな。」
 ヒメはスンスンと聞く。これでヒメに共感を得られただろうか? 僕はヒメの次の言葉を待った。しかし、それは僕にはよく分からない言葉だった。
「そう、そんな感じなのね。」
「そんな感じって、どういうことだ?」
「だって私、学校というものに行ったことがないもの。」
「え? ……それって、つまり」
「大学、高校、中学、小学校。もっと言うと幼稚園、保育園も行ったことないわ。」
 僕はどういうことか分からなかった。少なくても小中学校は義務教育だ。複雑な家庭環境である可能性を加味しても保護者が必ず行かせているはずだ。しかし、ヒメは行ったことがないという。それはつまりどういううことを意味してるのだろうか?
 そう考えてると、ヒメが独り言のように漏らした。
「だって、……しょうがないじゃない。私にはその資格が無いんだから。」
『――ん?』と僕はヒメが消え入るような声で言ったことを聞き直そうとしたが、ヒメはそのことを言い直してはくれなかった。
「もうそろそろ着くわ。」
 もやもやする僕を他所にヒメはそう告げる。気付けば周りは木々が立ち並び出していた、森の入口のようである。そして僕はヒメに腕を引かれるがままその森へと入っていった。
「なぁ、ヒメ、これはどこへ向かってるんだ?」
「どこって、私達のハネムーンに決まってるじゃない。」
「いや、そうじゃなくて、目的地、どこを目指して歩いてるんだってことだ。」
「どこ、そう……。」
 ヒメが少し俯いたが直ぐに顔を上げていった。
「勿論山櫻荘に決まってるじゃない。山櫻荘に来ようとしてたのでしょ。」
「え、あぁ。そうだよ。」
 つまり駅から一本道というのは今歩いてるこの道のことなのか。と確認する。
「え、てことはハネムーンは山櫻荘で過ごすってこと?」
「……えぇ。」
 コクンとヒメが頷く。そうか、目的地は変わっていなかったのかと少し安堵した。思えばヒメに引かれたまま、わけ分からない所に向かう可能性もあったのだ。
「でも、なんで山櫻荘?」
 しかしそこで気になったことを僕は聞いた。たまたま一致するなんていうことがあるのだろうか?
「……。」
 ヒメが立ち止まった。僕の右腕を掴むヒメの手が少し震えている。
 え、これってどういう状況? 僕はよく分からずに困惑した。
 なぜ突然ヒメは泣きそうになってるんだ?
 ヒュルルと風が吹く、木々は葉を鳴らし、僕等は沈黙していた。
 どれくらい経っただろうか。じっと二人して静止した後、風が止み、静まり返った時、ヒメはやっと口を開いた。
「やっぱり、辛いわね。ずっとずっと待ってたのに。」
 そういったヒメの顔は今までの意地悪なものではなく、心からの笑みだった。そしてその目には涙が溜まっていた。
 なんだ? そういうことだ?
 困惑に困惑を重ねた僕がヒメにどういうことか聞こうとしたその時、今度はさっきと比べられないほどキツい、突風が森の小道を吹き抜ける。
 ビュルルルル――
 思わず僕は目を細めてしまう。僕の正面の方から吹く風は、僕の前にいるヒメの艶やかな黒髪をブワッと靡かす。その時僕はヒメの長髪に隠れていた首筋に、大きな傷があるのが細めながらに見えた。
「それ――。」
 傷について聞こうとしたものの、突風に乗って飛んできた葉っぱが僕の顔にあたり、それどころじゃなくなってしまう。
『幸せな時間というものは、とても長く体感し、とても短く思い返せてしまうのですね、木楢様。私は貴方のことを一生かけてお慕い申し上げますわ。』
 反射的に閉じてしまった目を開けると。そこにヒメの姿はなかった?
「ひ、ヒメ!?」
 突風が止んだ森の小道で、僕は姫の名前を呼んで見る、しかし、聞こえるのは緩やかな風に擦れる葉の音と、虫の声だけだった。
「ヒメ。」
 その名を口にしても、ヒメがいる気配がない。僕はだんだん夢だったんじゃないかと思えてきた。思えば最初から最後まで変だったから。
「……仕方ない。先に行くか。」
 僕は森の小道を先行く。その時どこかからか『ありがとう、嬉しかった。』と聞こえた気がした。

 山櫻荘に着いた。そこはどこか懐かしみを感じる民宿だった。
 入り口を潜るとそこには一人の見覚えのある女性がいた。
「お待ちしておりました。お久しぶりですね。木楢様。」
 女性が礼をしながら言う。彼女はここの女将、たしか香田富さんだ。
 懐かしい空気を鼻孔に感じた。
 だんだん思い出していく。そういえば僕はここに来たことがあった。
「お久しぶりです富さん。十年ぶりぐらいになるかな?」
 そうだここは、僕が小さいころ、家族旅行で何回か訪れた民宿じゃないか。
 蘇る小さいころの記憶に僕の成長を感じる。あの頃はと比べて、こじんまりと感じるのは僕が大きくなったからだろう。
「そうでございますねぇ、確か木楢様が小学校に上る前だったと記憶しておりますわ。」
 富さんはあの頃からいくらか皺の増えた顔で遠くを見つめていた。
「まぁ、こんなところでと言うのもなんですから、お上がりくださいな。」
 再び僕の方を見た富さん言う。僕は『お世話になります。』と言いながら富さんについて行った。
 共用スペースにはローテーブルとソファのセットが一セットだけあった。僕はそのソファに座り、富さんお出してくれた冷たい緑茶に口をつけた。
「僕が幼稚園の時、十三年前かぁ。」
 辺りを見回すとだんだん記憶が蘇ってくる。そういえばあの頃は父親の運転する車でここに来たたんだっけな。
 変わらない内装に思い出を掘り返しながら僕はあることを思い出した。
「そういえば猫、猫いませんでしたっけ?」
 僕の記憶が正しければ民宿で飼っている小猫がいたはずだ。」
「えぇ、おりました。ヒメちゃんですね。」
「え?」
「名前、ウチで飼っていた猫の名前ですよ。確か木楢様が付けてくださったはずですがなぁ。」
 ヒメ、その名はさっきまで一緒にいた少女の名だ。
「あの誰にも懐かない気儘で気難しい猫でございましたが、不思議と木楢様には懐きまして、その時に名も『ヒメ』と付けて下さったじゃないですか。」
 そうだ、僕はそのアメリカンショートヘアの子猫にヒメって名をつけた。
 え、つまりだからどういうことだ?
「今、ヒメは?」
 僕は取り敢えず聞いてみた。偶然のたまたまなんてことがあるかもしれない。
「ヒメちゃんは……。一ヶ月半前に亡くなってしまいました。」
「え……。」
 旅館に流れるゆったりとした時間。その中で僕は戸惑った。
 その後、僕はここに来る途中に会ったロッキンシューズの少女の話をした。富さんは笑って『ひょっとするとそれはヒメの霊が人の姿となって現れたのかも知らませんわね。』と言った。
 なんとなく僕もそうなんじゃないかと思えてきている。
 富さんによると、その後ヒメは僕以外の一には懐かなかったそうだ。そして時折、僕達家族がいつも使わせていただいていた客間に足を運んでは僕がまた来るのを待つようにじっと入口の方を向いて座っていたいたらしい。
 後で知ったのだが、アメリカンショートヘアの平均寿命は十五年ない程度だそうだ。つまりヒメは僕を寿命いっぱいの時間で待っていたことになる。
 猫である彼女と人間である僕の時の長さは違う。人間にすると八十年。八十年も待ち続けていたなんてなるとなんとも申し訳なく思ってしまう。
 しかし、それにしてもなぜヒメはハネムーンなんて言ったのだろうか?
 謎を抱えたまま僕は絵本を片手にいつもの部屋に向かった。
 使わせてもらうことになったその十三年前いつもの部屋の鍵を開けて中に入る。そこは昔から何も変わっていない部屋で、懐かしい匂いのする部屋だった。
 ちゃぶ台の上に用意されたお茶のセットを使ってお茶を淹れる。そして僕は富さんから受け取った十三年前の忘れ物を懐かしみながら開いた。
 それは僕が幼い頃に好きだった絵本である。
 時の迷い子である少女と平凡な少年が魔法の時計の部品を集めるお話。難しく言うと原因と結果のお話だ。
 絵本に出てくる一節にこういうものがある。
『なくしたモノをさがすには、なくすまえを思い出すといいんだよ。』
 僕がこの旅に出たという結果に対し、彼が宿泊券をくれたという原因があるように、結果には原因がある。つまりヒメがハネムーンに行こうとしたことには原因がある。
なんなんだろうか? 僕は子猫だったヒメを思い出しながらお茶をすする。しかし原因で有りそうなことを思いつくことはなかった。
 いまいち頭が働いてないなぁ。
 そう思った僕はお茶請けの雪華という菓子を手に取った。
 軽い、サコっとした食感にほのかな甘味がが広がるその菓子は覚えがあった。十三年前にも食ったなこれ。
 その時思い出した。そういえばヒメもこれが好きだった。
 十三年前、僕はヒメと一緒にこの菓子を食べたことがある。確かあれは僕が帰る時だ。
 僕がこの宿を後にする時、ヒメはなかなかぼくを返そうとはしてくれなかった。その時僕はお土産に買ってもらった雪華を早速開け、ヒメと一緒に食べた。そして『また来るから。今度はもっともっと一緒にいるから。』って約束したんだっけ?
 口中に溶ける甘味に思い出が暖色に染まるのを感じた。
 この約束、果たせてなかったんだな。
 ヒメと約束していこう、僕はこの宿を今日まで訪れていない。
 これが正解かは分からないけど、これの結果ヒメはずっとずっと僕を待っていたのなら。一緒に過ごしたくて、焦がれに焦がれた結果結婚に辿り着いたのならば。僕はとんだ失態を犯していしまったことになる。
 彼女の一生を僕が奪ってしまったことになるんじゃないか?
 そう思い至った僕はヒメを思い、気が遠くなるようなセミの声に遠くを見た。
 ヒメ――
 あの辺かな?
 僕は自責と諦めの思いを胸に、部屋の玄関から部屋に入ってすぐの畳の上にヒメの姿を頭のなかで思い描いて言った。
「……。ただいま。そして――ごめん。」

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